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「さとくん」はあなたかも~映画「月」 [映画時評]


「さとくん」はあなたかも~映画「月」


 相模原市の障碍者施設で2016年に起きた殺人事件がベース。しかし、映画は事件のリアルな再現に力点があるわけではない。断罪をしているわけでもない。容疑者の思想と行動が素材のまま、ごろりと放り出される。事件をどう読み、距離をどうとるかは観るものに託される。だからこそ、この映画は「重い」。

 かつて東日本大震災を素材に書いた小説が評価された堂島洋子(宮沢りえ)。しかし、障碍を持ったわが子を3歳で亡くし、書けなくなった。優しいが生活力のない夫・昌平(オダギリジョー)と暮らす。彼女は障碍者施設を訪れる。働くためだ。
 施設には、小説家志望の陽子(二階堂ふみ)や、明るい好青年「さとくん」(磯村勇斗)がいた。しかし、行われていたのは障碍者を拘束、軟禁する非人間的な行為だった。拒否反応を示す洋子に「きれいごと」といった視線が向けられた。入居者の一人に「きーちゃん」がいた。目も見えず耳も聞こえない。通常の対話は不可能だった。

 洋子は原作にはないキャラクター。事件を目撃する人間として設定された。原作ではきーちゃんが重要な役割を果たすが、映画では洋子が代わる。

 さとくんは、対話が成り立たない入居者たちを「心を持たない存在」とみる。心がないのなら人間ではない。社会に生きる意味がない。極北の思想にたどりついたさとくんは、夜中に施設に忍び込み、入居者に「心はあるか」と問いかけ、反応がなければ殺害した。
 40歳の洋子は、妊娠を知る。高齢出産で障碍のある子は生まれないだろうか。不安に駆られ苦悩する。そんな時、事件を知る。さとくんの犯行と知り「なぜ」と問う。しかし、わが子の障碍を恐れ、中絶を考えた自分と、さとくんの思想にどれほどの距離があるのか。
 映画では、施設は深い森の奥に造られている。社会から隔絶するかのように。私たちは障碍者との関係を(無意識かもしれないが)断絶することを願っていたのではないか。さとくんはそれを「きれいごとではない方法で」実行したのではないか。観るものに投げかけられたのは、そんな問いのように思う。

 森達也はある雑誌【注】で、事件後の報道で「特異性」「異常性」が強調されたことに警鐘を鳴らした。事件と日常と切り離す。事件の「普遍性」を語れば犯人擁護と批判する。これでは事件の本質は見えないのではないか。森はそう言う。
 「さとくん」はあなたの隣にいる。あるいはあなた自身かもしれない。そんな問いを、この映画は投げかける。
 2023年、監督は「茜色に焼かれる」の石井裕也。原作は辺見庸。今年一番の問題作になるだろう。
 【注】「現代思想」201610月号。


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