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時が過ぎれば夢も朽ちる~映画「花腐し」 [映画時評]


時が過ぎれば夢も朽ちる~映画「花腐し」


 花腐(くた)しとは梅雨のころの長雨のこと。「春されば卯の花腐し我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも」(万葉集)からとられた。現代語で言えば「初夏のころ咲くウツギの花も、長雨が降れば朽ちてしまう。私が越えた、愛する人の家の垣間も荒れているだろう」。万葉の和歌がなぜタイトルに引用されたかは、見ているうちに分かってくる。
 芥川賞をとった松浦寿輝の原作は、死に別れた女性とのときが忘れられず、どん詰まりの人生を送る中年男の心情を、幻想を交えて描いた。これを、ピンク映画の世界で下積みを送り、代表作「火口のふたり」(2019年)を持つ荒井晴彦監督が、斜陽のピンク映画界に舞台を置き換え映像化した。ストーリーも、一人の女性を愛した二人の男が偶然出会い、追憶を語る恋愛ドラマに変更した。

 冒頭、男女の心中死体が浜辺に上がる。ピンク映画の女優・桐岡祥子(さとうほなみ)と監督の桑山篤(吉岡睦雄)だった。祥子と同棲していた栩谷修一(綾野剛)は彼女の実家に向かうが、線香一本上げさせてもらえなかった。
 栩谷もピンク映画の監督だったが、ここ5年間撮っていなかった。生活に困り、アパートの大家(マキタスポーツ)に部屋代の滞納を交渉する。大家は、あるアパートの建て替えを計画中だが、男が一人居座っていて計画が進まない。追い出してくれれば、部屋代に色を付けた謝礼を支払う、という。気が進まないまま、男を訪ねた。売れない脚本家・伊関貴久(柄本祐)がいた。押し問答をするうち二人は打ち解け、部屋に上がり込んで酒を飲み始めた。部屋の奥には映画を勉強しているという中国人留学生リンリン(MINAMO)がおり、周囲は栽培中のマジックキノコで一杯だった。
 伊関は昔付き合った女のことを話し始めた。居酒屋でアルバイト中、知り合った。演劇を勉強しているという。栩谷と伊関は韓国人のママ(山崎ハコ)の店に場所を移し、語り合った。栩谷が名を聞くと桐岡祥子だという。「その女は死んだよ」と、栩谷は告げた。
 祥子は伊関の子を身ごもったが、女優の道を捨て切れずおろしてしまう。シナリオライターをあきらめ、家庭を持つことを考えていた伊関との間に亀裂が入り、二人は別れる。
 祥子と出会った栩谷は、映画を撮れないままずるずると5年間を過ごす。そして妊娠を知る。しかし、栩谷は「俺には家族はいらない」と、女優をあきらめ家庭を持つことを考えていた祥子を突き放す。やがて流産し、二人の間に亀裂が入る。そんなころ、彼女を主役にした脚本を、桑山が持ってきた。そして桑山と一線を越えたことを祥子が告白。しかし、栩谷は「そう…」と聞き流した。

 原作は、女性と死に別れた男の、未練を引きずる話である。映画では、二人の男が「祥子」への未練を引きずる。あのとき、こうすればよかった、という思いを二人とも抱いている。そんな心情からか、終わりに近く謎のシーンがある。栩谷は、鏡越しに背後を祥子が通り過ぎるのを目撃する。追っていくと、彼女は伊関の部屋に入る。ドアの隙間越しに何かを見た栩谷は、涙を流す。何を見たのだろうか。

 この映画で「花腐し」の花とはなんであろうか。第一義的には祥子という存在である。しかし、たとえピンク映画であろうと、人々を夢中にさせる映画を撮りたい、と思っている業界全体を指しているのかもしれない。そうした情熱も、長雨の季節が来れば腐り、朽ちてゆく。そんなレクイエムが全体を覆っているように思える。蛇足かもしれないが、かつてピンク映画でみられたパートカラーの手法が、ここでもとられた。希望に満ちた過去はカラー、絶望に沈む現在はモノクロ。
 「火口のふたり」もそうだが、荒井作品は過剰と思えるセックスシーンで知られる。「花腐し」で、このセックスシーンのカギを解くセリフに出会った。伊関が祥子との思い出を語る中で「さよならのセックスをして別れた」。日常会話のようにセックスが行われる。単なる欲望とか愛情とかとは違う、会話のようなやりとり。これを下敷きにして見ると、荒井作品でのセックスシーンの意味が多少分かってくるようだ。
 2023年製作。


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歌は世につれ~濫読日記 [濫読日記]


歌は世につれ~濫読日記


「昭和街場のはやり歌 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと」(前田和男著)

 いつの世にも、はやり歌がある。中でも昭和は、時代の明と暗、尾根筋と谷底がくっきり見えたため、変わり目ごとにはやり歌があった。社会の下部構造がきしみ、上部構造に幻影が生まれる。つかの間、大衆が酔いしれた共同幻想。歓喜と失意、希望と蹉跌。どこか甘く、魂をとらえる旋律があった。

 書かれたのは、こうした社会とはやり歌の共同歩調である。歌は、歌だけの魅力によって時代に受け入れられてはいない。表現の深部で世の動きの本質をとらえたため、大衆に響き受け入れられた。そのことが一つ一つ、立証されている。「歌は世につれ」である。

 著者は1947年生まれ。いわゆる団塊の世代である。大学時代、東大闘争を経験した。極私的体験を骨格とするこの著作では、当然ながら世代は重要なファクターである。そうした位置関係から、二つの安保闘争の高揚と挫折を見た一文が興味深かった。
 西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は60年安保闘争のレクイエムとする説が根強い。しかし、著者は(私もだが)どこかでこの説に違和感を覚える。それは何かがたどられる。70年当時、いささかの自嘲を込めて歌われたのは「網走番外地」であり「圭子の夢は夜ひらく」だった。何が違ったのか。著者の見立てでは「アカシア―」はあまりに“詩的”で「網走-」や「圭子の―」は“散文的”という。そうかもしれない。わずか10年の間に、この違いはどこから生まれたか。闘いの質ではないか、という。60年安保は日本社会の将来のエリート候補によって主導された。70年安保は中間管理職候補だった「学生大衆」が街頭でゲバ棒を振るい、火炎瓶を投げた。結果、挫折の質にも変化が生まれた。背景に大学進学率の大幅な向上(学生の大衆化)があった。こうした時代の位相の変化を、著者はこう表現する。
 ――「アカシアの雨がやむとき」は「敗北と挫折」の鎮魂には似つかわしいが、「自滅と自壊」を癒してくれそうにはない。それには「網走番外地」と「圭子の夢は夜ひらく」が適役だったのである。

 「一本の鉛筆」という歌がある。横浜で空襲にあった美空ひばりが、反戦の願いを込めた。作詞は松山善三。1974年、広島平和音楽祭で披露された。しかし、広島でこの歌を知る人は少ない。ましてや全国的にはほとんど無名である。ひばり自身は、この歌を「自薦ベスト10」の6位に挙げて遺言とした。ひばりと日本社会、あるいは広島との間で、何が行き違ったのか。
 ひばりが反戦歌を歌うことに、被爆者団体が抗議したという。理由は、反社会勢力との関係が言われていたこと▽一本の鉛筆で書けるほど被爆者の苦しみは甘くはない―というものだった。これに対して松山は、一本の鉛筆は鉄砲玉より強い。だからこそ平和の心を伝えることができる、と反論したという。
 ひばりの歌唱力を疑う者はいない。だからこそ、ひばりは時代を超越し、日本からアジアへと越境した。そうして、戦後の大衆が背負ってきた罪と穢れを一身に引き受けた。さながら浄化のため川に流す形代(かたしろ)のよう、と著者はいう。私には、戦後日本が異形のものとしてひばりを排除したとしか見えなかった。その抜け殻-空疎でいびつな―が、目の前にある(前田はそこまで書いていないが、暗示はしている)。戦後日本の平和思想の辺境を見る思いがするのである。
 「時代とは何か」を考えさせる一冊。
 彩流社刊、2500円(税別)。

昭和 街場のはやり歌: 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと


昭和 街場のはやり歌: 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと

  • 作者: 前田和男
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2023/08/04
  • メディア: Kindle版



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ありふれた日常こそ輝く~映画「PERFECT DAYS」 [映画時評]


ありふれた日常こそ輝く~映画「PERFECT DAYS


 「百姓が侍を雇う?」
 「そうだよ」(中略)
 「出来たな」
 黒澤さんが低くズシリという。
 映画「七人の侍」の構想が走り出した瞬間である。(橋本忍著「複眼の映像」から)

 黒澤明は時代劇をつくろうとしていた。まずあったのは、ある「侍の一日」を完璧なリアリズムで仕立てることだった。細部で躓き、次に剣豪列伝をオムニバスで。これも行き詰まった。そんなとき、武者修行の兵法者の生態を話す中で冒頭のエピソードに行き当たった。完全主義者は「侍の一日」に至らず、そのことが歴史的名作を生んだ。

 「PERFECT DAYS」は、あるトイレ清掃員の一日を追った映画である。描いたのは奇想天外でも、波乱万丈の人生でもない。ぼろアパートに住み、決まった時刻に起き、布団の畳み方も歯の磨き方も寸分違わない毎日。そんな彼にも、人生や生活への揺らぎがある。
 軽自動車で仕事場(公衆トイレ)へ向かう平山(役所広司)は、70年代の洋楽をカセットテープで聞くのがお気に入りだ。冒頭、車内に流れるのは「朝日の当たる家」。同僚のタカシ(柄本時生)は、仕事はいい加減だ。ガールズバーで働くアヤ(アオイヤマダ)にぞっこんで、平山の軽を借用したりする。
 鎌倉に住む姪のニコ(中野有紗)10数年ぶりにアパートを訪れた。数日後、平山の妹ケイコ(麻生祐未)が娘を連れ戻しにきた。運転手付き、黒塗りセダンだ。「お父さんは認知症でホームにいる。昔と違うから、お見舞いに行ってあげて」と告げる。平山はそんな妹を黙って抱きしめる。平山という人間の裏側(もしくは捨てた人生)が垣間見える。

 判で押したように、仕事を終えると銭湯へ行き浅草駅構内の飲み屋で一杯だけ酒を飲む。休日は居酒屋でママ(石川さゆり)と雑談する。ある日、店に入る見知らぬ男(三浦友和)を見かけた。ドアの隙間から覗くと、ママと抱擁していた。気持ちを静めるため川べりで酒を飲んでいると、男が来た。ママと離婚、ガンで余命を知り、無性に会いたくなったという。
 「影って重なると濃くなるんですかね」と謎の問いかけをする。平山は「じゃあ、やってみましょうか」と、二人で影踏みをする。
 無粋を承知で言えば、このシーン「人生が重なり合えば情も濃くなるでしょうか」と暗に問いかけている。

 平山はトイレ掃除を終えると、公園のベンチでコンビニのおにぎりをほおばる。見上げると葉陰が揺れ、木漏れ日。胸のポケットから小さなカメラ(フィルムカメラ)を出し、撮る。ありふれていて、しかし一様でない光景に人生を重ねている。

 平山は終始無口である。しかし、ひとかどの知性と気品を持ち合わせていることは、たたずまいからわかる。そんな危うい立ち位置を表現できるのは、役所広司しかいない。さりげない日常を通して人間の哀歓、孤独、無常観を描くヴィム・ヴェンダース監督の手法も尋常ではない。小津安二郎に通じている。そういえば「平山」という役名(「東京物語」で笠智衆が演じた)に、小津へのオマージュを感じる。名作である。
 2023年製作。


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人間の獣性を描く~映画「理想郷」 [映画時評]


人間の獣性を描く~映画「理想郷」


 スペイン・ガルシア地方の寒村に、フランスから老夫婦が移住した。巨漢だがインテリ風の夫アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)とつつましい妻オルガ(マリナ・フォイス)。有機農業で自給自足のスローライフを夢見る。廃屋を改修して観光客を呼ぶ計画も持つ。
 夫婦を見る村人の視線は穏やかではなかった。酒場では、シャン(ルイス・サエラ)とロレンソ(ディエゴ・アニード)のアンタ兄弟がアントワーニュに絡んできた。永年村に住み、貧しい生活に飽き飽きしていた。思い付きのようによそから来た夫婦が、この地を理想郷のように言うのが我慢ならない。風力発電計画が持ち上がったことで、対立は先鋭化した。村人が賛成する中、アントワーニュは反対を鮮明にした(理由は語られていないが、推測すると低周波や景観の問題?)。わずかな補償金目当てのアンタ兄弟は、アントワーニュに賛成するよう迫った。

 ここまでなら日本でもありそうな話である。都会と田舎の対立。スローライフだ、有機農業だ、と吹聴する都会人に、現実はそんなもんじゃない、と冷たい視線の村人。しかし、ここから第二幕に。
 秋、落葉の降り積もる美しい林を散歩するアントワーニュはアンタ兄弟に襲われる。嫌がらせの証拠にと持ち歩いていた動画カメラを木の根元に隠し、逃げるが逃げ切れなかった。
 一人残されたオルガは、淡々とこれまでの生活を続ける。心配したフランスに住む娘マリー(マリー・コロン)が一緒に帰ろうと説得するが応じなかった。

 当初、アントワーニュが主役と思えたがそれは浅薄で、オルガが主役とわかる。男同士の諍いを見ながら、本当の解決策は他にあるのでは、と思っている。夫は殺され山林に埋められていると推測したオルガは、腰が重い地元警察に頼らず自力で山野を捜索した。ついに動画カメラを見つけ、警察に捜査を依頼する。執念が実ったのだ。その後、彼女が向かった先はアンタ兄弟の母だった。「息子は刑務所に行くことになる」と告げる。この行為は何を意味するのだろうか。勝ち誇ったゆえの発言、とするのは浅薄だろう。男たちとは違う生き方を、女同士で見つけよう―。私にはそう見えた。
 第一幕は、日本でもありそうなエピソードだが、第二幕で人間ドラマとしての奥行きを感じさせる。そんな映画である。スペインで実際にあった事件がベースという。
 原題は「The BeastsAs bestas)」。直接の意味は村の家畜を指す(冒頭、馬のたてがみを3人がかりで刈るシーンがスローで入っている)が、もちろん村人(というより人間)の心に潜む獣性を表している、と読むのが妥当だろう。
 2022年、フランス、スペイン合作。監督ロドリゴ・ソロゴイェン。


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変わらぬ政治の原風景~三酔人風流奇譚 [社会時評]


変わらぬ政治の原風景~三酔人風流奇譚


「武士は食わねど」から変貌
松太郎 自民党安倍派(清和政策研究会)の政治資金パーティー券売り上げ一部キックバック=裏金化疑惑が、永田町を揺るがせている。岸田政権は1214日、同派の閣僚4人を更迭した。党首脳を含め、同派の有力者は一掃された。
竹次郎 聞くところでは、長期にわたってシステマチックに行われたようだ。25年とも30年とも伝わる。森喜朗会長のころか三塚博会長のころか。会長判断で導入されたかどうかは調べないと分からないが。
梅三郎 清和会を作ったのは福田赳夫。当初はタカ派の政策集団でカネはなかった。総裁選で田中角栄の経世会と大平正芳の宏池会の連合に勝てず「天の声にも時に変な声がある」と嘆いたのが記憶に残る。後を継いだ安倍晋太郎も立ち技の人。勝負に弱く政権目前で病魔に倒れた。悲劇的な印象があったが、その後の三塚、森会長あたりから変わった。亀井静香、加藤六月、石原慎太郎あたりが派を出たことも、カラーを変えた。亀井、加藤とも左翼体験を持つ。石原も、作家デビューのころは革新のイメージをもてはやされた。
松太郎 「武士は食わねど高楊枝」の印象だった。回顧談はともかく、この疑惑、リクルート事件とよく比較される。確かに既視感がある。何が共通して何が違うのか。
竹次郎 リクルート事件では派閥の領袖のほとんどが疑惑にまみれ内閣、党の有力者は軒並み辞任した。竹下登首相が内閣改造を行った後も疑惑の主が現れ、通常国会での予算成立と引き換えに首を差し出した。消費税導入のころで、庶民から搾り取った税を政治家は懐に入れるのか、と怒りを買った。内閣支持率は一桁、消費税率とどちらが上をいくかと皮肉られた。岸田政権の今後を暗示しているようだ。

清和会晩景
梅三郎 領袖は派内に金を配らないと結束を保てない。だからこんな事件が起きる。金の要らない政治とともに、諸悪の根源である派閥をなくさないといけない。こうした声が党内外から起きた。
松太郎 そのために考えられた方策は。
竹次郎 派閥が生まれるのは、一つの選挙区で同じ党の候補が争うからだ。政策に違いがなければ有権者へのサービスが勝敗を決める。だから金も要る。中選挙区を変えないとだめだ。こうして、選挙制度を変えようという議論が起きた。阿波戦争=三角代理戦争と呼ばれた激烈な選挙を経験した後藤田正晴元官房長官あたりが、けん引役となった。
松太郎 それで派閥と金権政治はなくなったか。
竹次郎 なくならなかった。派閥は政策研究会と名を変えいまだにあるし、河井克行事件のように、地方政界で金を配る構図もある。半面、人事に関しては定数1の小選挙区制なので、圧倒的に党中央の権限が強くなった。首相、幹事長の同意がなければ選挙に出られない。
梅三郎 中選挙区制では、派閥は党中党のような存在で、首相はヤジロベエだった。各派が出したリストを突き合わせ組閣人事を行った。今は、首相に力があれば独断で一本釣りはいくらでもできる。よくもあり、悪くもあるが。
松太郎 いま派閥が必要な理由は、総裁選を結束して戦うためだけだろう。それは支える側からすれば、権力の頂点と直結できる道。安倍派はまさに、憲政史上最長の政権だっただけに、権力亡者が群がるに値する存在だった。
梅三郎 今の派閥は、権力志向の烏合の衆だから、上り詰めるための機能を失えば人はいなくなる。安倍派の解体、液状化現象が始まるだろう。もう始まっているか。
竹次郎 今回の疑惑は派閥の消長には影響する。しかし、そんなこんなで結局派閥政治と金権政治はなくならない。

また一つ、安倍政治の負の遺産
梅三郎 リクルート事件と違う点が一つある。かつては後藤田、小沢らとともに、若手に改革を望む声があったが、今は全く聞こえてこない。小沢は強引な手法が嫌われたが、戦略的には小選挙区による二大政党制を目指す、明確なゴールがあった。結果が理想とだいぶ違うのは事実だが、そこまで彼の責任とするのはどうか。
竹次郎 リクルート事件以後、分かったことは、制度論に全面的に依拠しても現実は変わらないということ。選挙制度を変えても、政治風土を変えない限りよくはならない。
松太郎 それはそうだが、選挙制度改革にも不徹底な点がいくつかあった。例えば小選挙区比例代表並立制。比例代表は公明党を取り込むためにくっつけた。これが小政党の存続を助け、二大政党制を妨げた。中途半端な改革が今日、自民党一強につながっている。小選挙区制の英国では候補の落下傘方式を義務付けており、ほかの選挙区の出身者しか出られない仕組みだ。日本ではむしろその土地の有力者を選定する。これが世襲制の蔓延につながった。こうしたことを変えない限り、緊張感のある政治状況は生まれない。
竹次郎 でも、そうした改革は可能か。結局、政治資規正法にパッチを張るぐらいで終わるのではないか。
梅三郎 派の親分が黒といえば黒だ、といったのは金丸信だったか。昨今の清和会の議員の言い訳を聞いても、派閥の論理は少しも変わらない。こうした政治の原風景は永久に続くのか。
竹次郎 それにしても、アベノミクスといい統一教会問題といい、東京五輪問題といい、安倍政治の負の遺産の多いこと。大阪万博も、維新との合作ではあるが、安倍首相の一声でゴーサインが出たという。いまやお荷物だ。
松太郎 かつて田中曽根内閣といわれた中曽根首相が田中角栄から自立したように、岸田政権にとっては安倍政治とたもとを分かつ好機。それだけの力量と覚悟があれば、だが。


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単純でない戦争の構図~濫読日記 [濫読日記]


単純でない戦争の構図~濫読日記


「ウクライナ動乱 ソ連解体から露ウ戦争まで」(松里公孝著)


 ロシアとウクライナの戦争は、どうやら膠着状態にあるようだ。この戦争、どんな出口が待っているのだろう。

 日本人も、明治以降いくつかの戦争をくぐった。その中で、戦争を極めて単純な構図で見てきた。例えばアジア・太平洋戦争。四方を海と国境に囲まれた日本人という同胞(本当は単一の民族ではないが)がいて、言語も人種も違う相手と戦う。さすがにアジアに対しては人種的に似ているため「大東亜共栄圏」というプロパガンダ(これは現地=占領地域=の治安維持のため必要だったと天皇自身が弁明している)を展開、英米に対しては明らかに人種・言語とも違うので「鬼畜」という形容詞を平気で付けた。

 ウクライナとロシアの場合。国家のアイデンティティが確立されたのはウクライナが20世紀初頭に中央ラーダ政府を樹立、やがてソ連に取り込まれるまでの短期間と、ソ連崩壊後。ロシアもソ連崩壊後である。ロシアについてややこしいのは、ソ連の正統な後継者という思い込みが指導部にあることだろう。ロシアはソ連ではないし、その前の帝国ロシアでもない。
 こうした経緯により、ウクライナとロシアは大きな領土的問題を抱える。一つは、クリミア半島。黒海に臨む戦略的要衝は歴史上、占領した勢力の地政学的関心を集めた。ソ連崩壊後、クリミア・タタール【注】は独自の共同体組織を持った。もう一つはドンバス。石炭と鉄の産地で、かつてソ連の垂直的指導体制にあった。ソ連崩壊後、ウクライナ領とされた。
 ソ連崩壊後、ウクライナは二つの大きな革命(動乱)を経験した。西欧志向、ロシア志向、自立志向(連邦志向)と、さまざまな運動体(政党)が生まれた。よって立つところ(アイデンティティ)はさまざま。そして、この二つの国ではロシア語がほぼ共通言語である。そこで行われる戦争を想像できるだろうか。乱暴な言い方をすれば、クリミアもドンバスも、戦争がはじまったころ、たまたまウクライナ領だったのである。

 著者は巻末でこう書いている。
 ――今後、万一ロシアがザポリジャ州、へルソン州をウクライナに返さなかったとしても、それらが普通のロシア南部州になるとは思わない。それらはロシアの中のウクライナになるだろう。

 10年にわたる戦火と流された血の代償は果てしなく大きい。
 私たちの戦争体験からアナロジーされた侵略国ロシアと被侵略国ウクライナ、という構図に、大いなる疑問を抱かせる一冊。
 ちくま新書、1300円(税別)。

 著者には旧ソ連圏の政治体制を見た労作「ポスト社会主義の政治」がある。どちらも足で稼いだ著作だが、現実が未整理のまま放り出されている印象があり、読み下すのにエネルギーがいるのが難点。

【注】チンギス・ハンのモンゴル帝国が12世紀、キエフ・ルーシを征服。名残が「クリミア・タタール」である。「タタール」は韃靼民族のこと。チンギス・ハンの後裔がクリミア・ハン国を創設した。ロシアの歴史家がモンゴル支配を「タタールのくびき」と呼び、暗黒の時代としたが、納税さえすれば自治権は認められ、有力な交易地であったクリミアも直轄領となった(この部分「物語ウクライナの歴史」=中公新書から)。独自の自治組織は、これが引き継がれたと思われる(「ウクライナ動乱」はソ連崩壊後を描いており、こうしたくだりはない)。第二次大戦時、スターリンはクリミア・タタールにナチ協力の疑いをかけて中央アジアに強制移住させ、スラブ系民族を送った。スターリン批判を行ったフルシチョフが、ウクライナ領とした。


ウクライナ動乱 ――ソ連解体から露ウ戦争まで (ちくま新書)

ウクライナ動乱 ――ソ連解体から露ウ戦争まで (ちくま新書)

  • 作者: 松里公孝
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2023/07/06
  • メディア: Kindle版



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無戸籍が生む悲劇~映画「市子」 [映画時評]


無戸籍が生む悲劇~映画「市子」


 平野敬一郎の原作を映画化した「ある男」と、相模原の障碍者施設で起きた殺人事件をベースにした「月」を連想させる。前者は戸籍交換、後者は優生思想=弱者排斥の問題を背後に抱える。

 川辺市子(杉咲花)には3年間同棲した長谷川義則(若葉竜也)がいた。ある日結婚届を見せられ、うれしいが戸惑う市子は失踪した。テレビは、山中の白骨遺体発見のニュースを伝えていた。鑑定では死後8年という。
 市子は中学と高校を「月子」の名で通った。本名では通えなかった。市子には戸籍がなかったのだ。

 民法772条は、離婚後300日以内に生まれた子の父親は前夫とすると定める。このことは、さまざまな社会問題を生み出した。前夫のDVが原因で離婚した母親は、前夫に消息を知られたくないこともあるが、父子関係を強制されれば希望がかなえられない。

 スナックで働く市子の母・なつみ(中村ゆり)も、おそらくこうしたケースに当てはまる。前夫に居場所を知られたくないため出生届を出さなかった。3歳下の妹月子には戸籍があった。
 なつみは、ソーシャルワーカー小泉雅雄(渡辺大地)と交際していた。男には難病筋ジストロフィーの子ツキコがいた。なつみは小泉に、月子とツキコの戸籍交換を提案する。月子となった難病の子は日に日に病状を悪化させた。生命維持装置に手をかけたのは市子だった。こうして、市子は月子になった。3歳遅れの学校だった。
 高校を出ると、市子は月子から再び市子に戻った。嘘のない生活だが、戸籍だけがなかった。山中の白骨遺体を追う刑事・後藤修治(宇野祥平)が市子に迫っていた。

 民法772条は来年4月に改正、300日規定は撤廃される。併せて、離婚後の女性の再婚禁止期間も大幅に短縮される。なんとこの条文は、民法が明治に施行されて以来の改正である。明治は姦通罪があった時代で、300日規定は姦通罪と裏表といえる。なぜもっと早く撤廃されなかったかと、あらためて思う。

 2023年製作。監督戸田彬弘は舞台「市子のために」も手掛けた。


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稀有な心理小説家の素顔~映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」 [映画時評]


稀有な心理小説家の素顔~映画
「パトリシア・
ハイスミスに恋して」


 この米国生まれの女性作家の名を知ったのは、ルネ・クレマン監督「太陽がいっぱい」(1960年、フランス・イタリア合作)を観てからだった。アラン・ドロンが世に知られた名作。原作は、と調べたらパトリシア・ハイスミスの名が出た。原作も読んだ。映画は、アラン・ドロン演じるトム・リプレーが海辺で「極上のワイン」を飲んでいるところへ刑事が訪れるシーンで終わるが、原作ではトム・リプレーはまんまと逃げおおせる。この部分だけでなく、クライマックスの殺人シーンも大きく変更された。換骨奪胎といってもいい。しかし、唯一といっていいほど変更されなかったのは、犯人が最初から分かっているというプロットの部分。ミステリー作家と呼ぶ向きもあるが、適当でないように思う。ミステリーの最も重要な要素=犯人は最後にわかる、という大原則を外れて(外して)いるからだ。では、何と呼ぶか。「心理小説家」が適当と思う。

 「太陽がいっぱい」だけでなく、彼女の作品の多くが映画化された。無名のころ書いた「見知らぬ乗客」をヒッチコックが見出し、映画化したエピソードはよく知られる。偶然に出会った二人の男が交換殺人のアイデアを共有する。では、ヒッチコックはハイスミスの小説のどこにひかれたのか。「ヒッチコック―映画と人生」(ドナルド・スポトー著)にこんな章がある。

 ――ハイスミスのこの小説で最も内省的な個所は、まるでヒッチコックの日記から引用したと思えるほどだ。
 しかし、と彼はこのとき思った――愛と憎しみ、善と悪は人間の心の中に共存していて、しかも、人によってその占める割合が違っているというのではなく、すべての善とすべての悪とが一人の人間に共存しているのだ。(略)

 ハイスミスの真骨頂がここにある。ヒッチコックも、この才能にひかれた。そしてこの心理描写は「太陽がいっぱい」の主人公が善悪の境目、罪の意識を軽々と越える心理にも共通する。

 「パトリシア・ハイスミスに恋して」はドキュメンタリーである。「見知らぬ乗客」の後、同性愛体験を赤裸々につづった自伝的小説「The Price of Salt(後に「キャロル」と改題)をクレア・モーガンの名で出した。彼女と同性愛体験を共有したタベア・ブルーメンシャイン、マリジェーン・ミーカーらへのインタビューを通じ、才能のありか、人間性が語られる。一見、クールな印象のハイスミスが、ナイーブで愛を渇望し傷つきやすい性格であったことが明かされる。インタビューでハイスミスを「犯罪小説家」と呼ぶシーンがあるが、正確には「犯罪心理小説家」であろう。
 2022年、スイス・ドイツ合作。スイスは彼女が没した地である。監督エバ・ビティヤ。


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差別・偏見・排外主義~映画「ヨーロッパ新世紀」 [映画時評]


差別・偏見・排外主義~映画「ヨーロッパ新世紀」


 ルーマニア・トランシルヴァニア地方の小さな村ディトラウであった外国人排斥事件をベースにした。まず、この地方の沿革史から。トランシルヴァニアはドラキュラ伝説の地で、中世の面影を色濃く残す。かつてハンガリー(マジャール人)の支配下にあったが、第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗れ、ルーマニアに割譲された。このため、村にはハンガリー人も多く住む。

 マティアス(マリン・グリゴーレ)はドイツで働いていたが、同僚から差別的な言葉を浴びせられ【注1】、暴力沙汰を起こして追い出される。故郷の村に帰ったが妻アナ(マクリーナ・バルラデアヌ)との関係はとっくに冷め切って、息子は近くの森で何かを見て失語症になっていた。行く当てもなくパン工場で働くが、経営者はかつての恋人シーラ(エディット・スターテ)だった。彼女は離婚し、一人暮らしだった(夜になるとチェロを弾いていた。魅力的な旋律は梅林茂「夢二のテーマ」)。マティアスはそこへ押しかけ、復縁を迫った。
 シーラは、パン工場でスリランカ人を二人雇い入れた。周囲の村人が不満の声を上げる。「彼らの手でこねたパンは食べたくない」「工場がモスクにされる」と、根拠のないものばかりだったが、集会は偏見で熱くなるばかりだった【注2】。
 ここで「差別と偏見」は上下左右に向けられる。マティアスがドイツで味わった上からの差別。シーラと村人の「水平方向の偏見と憎悪」。村人が抱く下への(スリランカ人への)差別。
 集会は思わぬ事態でひとまず幕を閉じる。脳腫瘍を疑われたマティアスの父が森で首を吊ったのだ。マティアス、息子、村人が現場へ向かい、遺体を降ろす。マティアスの足にしがみつき「パパ愛してる」と息子が叫んだ(言葉を失った原因は何かがこのシーンで回収される。おそらく彼は遺体を目撃していた)。
 ラスト。マティアスのもとに猟銃が返ってきた。頻繁にクマが出没するため、シーラに預けていた。返したのはクマの保護と取り組むNPOのフランス人(おそらくシーラの恋人)。シーラの自宅に向かったマティアスはシーラに銃口を向けた。「許して」と哀願され、マティアスは逆方向に銃口を向けた(撃つべきは彼女ではなく村人、という暗示?)。

 原題は「R.M.N.」。MRIのことらしい。連想させるシーンが1か所ある。父親の頭部の断面図の映像で、脳腫瘍をにおわせる。ここから、村社会にはびこる「腫瘍」のようなものとして差別、偏見、排外主義をとらえているとも解釈できる。それにしても「ヨーロッパ新世紀」とは、皮肉たっぷりなタイトルにしたものだ。「福田村事件」に似たテーマだが、遥かに厚く重い。多民族が入り組む地域だけにルーマニア語、ハンガリー語、ドイツ語、フランス語、英語(もっとあったかも)が飛び交う。
 2022年、ルーマニア、フランス、ベルギー製作。監督クリスティアン・ムンジウ。

【注1】ドイツでは第二次大戦時「ジプシー」も強制収容の対象だった。戦後「ロマ」と言い換えられたが、ルーマニアはこれも差別語と反発している。ルーマニア人には「ジプシー」も「ロマ」も差別的な言葉である。この映画では「ジプシー」と呼ばれた。
【注2】シーラはハンガリー人という設定。このこともルーマニア人を激高させる要因かもしれない。この地方にハンガリー人が多いことは冒頭にある通り。


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原発めぐる謎の事件~映画「私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?」 [映画時評]


原発めぐる謎の事件~

映画「私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?」


 「原発」は社会を二分するアジェンダである。そしてフランスは、再生可能エネルギーへ舵を切るヨーロッパ諸国では珍しく、エネルギー需要の8割以上を原発で賄う国である(2022年時点)。原発産業を支えたのはアレバ社(経営危機で再編、2017年にオラノ社が引き継ぐ)。そのアレバで起こった事件と、背後で見え隠れする陰謀めいた計画を映画化した。

 モーリーン・カーニー(イザベル・ユペール)はアレバのCFDT(フランス民主労働組合連盟)代表を務める。5万人の雇用が彼女の手腕にかかっていた。201212月、パリ近郊の自宅で彼女の衝撃的な姿が家政婦に目撃された。頭に布をかぶせられ手足はテープで固定、スカートの下の局部にはナイフの柄が突っ込まれていた。
 数か月前、アレバで大きな動きがあった。心を通じていたアンヌ・ロベルジョン(マリア・フォイス)から、大統領命令で社長ポストを外れることを知らされた。後任は誰が見ても無能なウルセルという。さらにフランス電力公社(EDF)からの密告で、原子炉製作が中国に全面移管されると知る。雇用への影響を危惧したモーリーンは、真偽を確かめるべく奔走。最中に事件は起きた。
 捜査はなおざりで、レイプは自作自演と結論付けられ、逆にモーリーン自身が訴えられた(誣告罪?)。一審有罪で控訴、自作自演は否定されたが、最終的に彼女自身が訴えを取り下げたため事件の核心は闇に葬られた。原子炉製作は情報通り、2020年から中国に全面移管された―。

 原題は「La Syndicaliste」。そのまま訳せば組合主義者。労働運動に携わる女性を描いたかといえばそうでもなく、アレバで労使協調路線をとる二人の女性、という構図からフェミニズムが主題のようでもあり、フランスの原発事情かと思えばはるか後景にすぎない、というわけでどこにピントが合っているか判然としないのが弱点。しかし、全体にドキュメンタリータッチで、イザベル・ユペールが演じたモーリーンのキャラクターも得難く、面白かった。うがった見方をすれば、現在進行形にある原発の闇を描くにはここまでが限界、ということかもしれない。
 2022年、フランス・ドイツ合作。ジャン=ポール・サロメ。


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