SSブログ

「増補 昭和天皇の戦争 『昭和天皇実録』に残されたこと・消されたこと」 [濫読日記]

戦争回避の手段を持たなかった皇国~濫読日記


「増補 昭和天皇の戦争 『昭和天皇実録』に残されたこと・消されたこと」(山田朗著)

 アジア・太平洋戦争において元首であり大元帥であった昭和天皇。政治と軍事の頂点に立ち、戦争を遂行した。しかし、実際に天皇は何を言い、何を行ったかいまだ明確でない。そんな折り「昭和天皇実録」が公開された。天皇の死後24年の編纂作業を経て2014年のことである。側近らが書き留めた肉声が記された(読んでないので「らしい」としか言えないが)。歴史資料として価値があるのか。天皇の戦争責任を追及してきた山田朗が、関連資料と突き合わせ「残されたこと・消されたこと」をあぶりだした。
 即位から終戦の「聖断」まで多角的に天皇の言動を探っているが、興味深いのは、戦争の重要な局面で天皇はどう反応し、どんな「指導」をしたのかである。例えば軍部独走が否定しがたい満州事変。天皇はどう動いたのか。
 その前段、張作霖爆殺事件から見てみる。1928年6月に「満州某重大事件」として国内でただちに報道された。治安悪化を理由に関東軍が満州全土を制圧する計画だったが、政府が出兵を認めず頓挫した。しかし、事件が「実録」に出るのは12月になってである。田中義一首相が概要を説明、陸軍大臣が詳細を上奏(報告)した。天皇の反応は記述されていない。さらに半年後の6月、田中首相が責任者を行政処分する旨を報告。前回とあまりに相違するため、「強き語気にてその齟齬を詰問」、首相の弁明に「その必要はなし」と突き放したという。
 山田によれば「実録」は天皇の感情が直接見て取れるような記述をしていないが、この部分は「例外ともいえる」という。寺崎英成がまとめた「昭和天皇独白録」を全面的に採用した結果だという。
 1931年9月、満州事変の発端となる柳条湖事件が起きた。事件の翌日、天皇に報告された(事前の相談ではない)。近現代史でよく取り上げられるが、このときの朝鮮軍司令官による独断的出兵が批判的に天皇に報告され、天皇から「この度はやむを得ざるも、今後気をつけるように」と戒める発言があったという。朝鮮から満州へ、軍が国境を越えるという一司令官の独断に対して、微温的な対応である。関東軍の行動については、その後、次第に容認の度合いを強めていった。年が明けた32年1月には、「皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ」と称える勅語を発した。

 軍の独断的行動に戸惑いつつも、結局は追認し、最後には称えるという無責任な行動ぶりがよく出ている。ただ、これらが天皇の本心から出たかは分からない。「実録」は、編纂過程で天皇の感情が生のまま出ている個所は切り捨てられたと考えるのが自然であり、それは御前会議の段階から側近が、天皇が先頭に立った発言をすることに警戒感を持っていたとも考えられるからだ。

 日中戦争から対英米戦争へと戦火を拡大するにあたって、天皇はどんな対応をしたのか。山田によると、開戦決定は1941年後半の4回の御前会議を経てなされた。9月までは慎重姿勢だったが、近衛内閣総辞職・東条内閣成立を経て11月には開戦論に理解を示した。何が天皇の姿勢を変えたのか。
 9月6日の御前会議前後、天皇の憂慮は「頂点に達した」と山田は書いている。実録には5日の近衛首相・杉山元参謀総長・永野修身軍令部総長とのやり取りを記している。軍令部総長が「勝算はある」と奉答すると、天皇は了解したと答えたという。このときのやり取りを「杉山メモ」は詳細かつ生々しく記述している。天皇が「絶対に勝てるのか」と大声でただしたところ、総長(永野、杉山の発言が混同しており、確定が困難)は「絶対とは申しかねます」などと答え、天皇は大声で「ああ分かった」と答えたという。この時の空気が本当であれば、実録にある「了解」などではなく「勝手にしろ」とのニュアンスに近い。この時から天皇は開戦論へと急傾斜していった。もはや外交では展望が切り開けないと思ったのだろう。

 「実録」では、外交によって国難を回避すべき、とか武力の行使はあくまで慎重に、といった平和主義者・天皇像が描かれた。しかし、天皇にはそのビジョンのもとに日本を導く方法がなかった。山田も「あとがき」でそのことに触れ「第二次世界大戦期において、日本という国家には、世界規模の、なおかつ高度なテクノロジーを集約した戦争を統括し遂行できるシステムがなかった」と書いた。「戦争を遂行するシステムがなかった」は「戦争を回避するシステムがなかった」に通じる。
 読後、丸山眞男が「軍国支配者の精神形態」などで明らかにした無責任の体系=矮小なファシズムを想起したのは私だけではないだろう。
 岩波現代文庫、1670円。


増補 昭和天皇の戦争──「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと (岩波現代文庫 学術469)

増補 昭和天皇の戦争──「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと (岩波現代文庫 学術469)

  • 作者: 山田 朗
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2023/09/16
  • メディア: 文庫


nice!(0)  コメント(0) 

悲惨な体験は継承されるのか~濫読日記 [濫読日記]


悲惨な体験は継承されるのか~濫読日記


「兵士たちの戦後史 戦後日本社会を支えた人たち」(吉田裕著)


 アジア・太平洋戦争が終わって、もうすぐ80年。当時の20歳は100歳である。戦争を知る世代がいなくなっていく。
 「兵士たちの戦後史」の著者・吉田裕は、軍人恩給の受給者数などから「2006年度末の兵士体験者の生き残りが下限で40万人」とする新聞報道を紹介。こうした軍隊体験者の減少を表す現象として戦友会解散を挙げる。この調査から17年が過ぎた。体験者の減少は加速度的に進んでいるだろう。
 吉田は、加藤典洋の一文を引き、こうも指摘する。日本とドイツは義によって死者を弔えない戦争を戦った。そのため敗戦の責任のすべては軍部に押し付けられ、兵士体験者たちは個人レベルの戦争体験が社会的に意味づけられることはなかった。そうしたわだかまりを抱えたまま、戦後を生きてきた。
 戦場体験者がいなくなり、一つの時代が終わる。「戦後」の終わりといっていいだろう。吉田が「兵士たちの戦後史」に手を付けた背景には、こうした切迫感がある。

 本書で、戦後史は大きく五つに区切られる。戦場体験が出発点である。①戦病死という名の事実上の餓死者が大量に発生した②艦船沈没による海没死が多かった③従来なかった特攻死の出現。こうした体験を抱えた復員兵が帰還した。船内では旧上官に対するつるし上げが行われたという。興味深いのは、元兵士が必ずしも温かく迎えられなかったこと。
 「お前ら兵隊が負けたから内地のものまで…」という罵りの言葉も紹介される(34P)。兵士は国民のためでなく、天皇のために戦った、そうした思いが復員兵に対する視線の冷たさを生んだ(41P)。
 講和条約の発効、朝鮮戦争特需によって日本は戦後復興へと踏み出した。戦犯の復権も進んだ。併せて旧軍人団体の結成も見られた。旧陸士卒業者を中心にした「偕行会」は戦前からの組織を復活させた。「水交会」は海軍兵学校の卒業者を中心とした組織で、これも復活した。いわゆる戦友会の始まりといえよう。

 講和条約の発効前後から、戦争体験を振り返る「戦記もの」が登場する。初期は将校クラス、続いて兵士による戦記があふれたが、それぞれ限界があった。将校は現場を知らず、兵士は全体の状況を知らされていなかった。そんな中で「二等兵物語」がブームに。「結局、戦争そのものには疑問を持たないものの、軍隊を全面的に肯定する議論にも、また逆に全面的に否定する議論にも反発しつつ、軍隊生活にある種のノスタルジアを感じる人たちが存在することを(略)示している」と吉田は指摘する。こうした心情が、高度経済成長期からその後の戦友会の活発化の力になったのではないか。

 高度経済成長を迎え「敗戦のトラウマ」を克服した日本は「平和国家・文化国家」の路線を選択する。このころの経済を支えた中堅世代は戦中派である。彼らが平和国家を選択したといえる。
 精神的な余裕が生まれ、戦友会が各地に発足したのもこのころ。「戦友会研究会」の調査では、1960年ごろから増え始めた。性格は一様ではないが、目的の多くは「慰霊」と「親睦」。小規模のものが多く、かつての序列を持ち込むことは嫌われた。「加害行為」への言及もご法度だった。メンバーが高齢化するにつれ記念碑や慰霊碑の計画が持ち上がり、組織の大規模化が進む。一方で、戦時下の体験(体罰など)を受け入れられず、入会を拒否し続けた人も多かった。

 「わだつみの会」が寄贈した立命館大学構内の「わだつみ像」が1969年、全共闘系学生によって破壊された。「戦後の平和主義に対する挑戦」と紋切り型の非難を浴びせた共産党は別にして、吉田は「(そこに象徴された)『「戦後民主主義』の日本は管理社会と化した『先進帝国主義』であった」(福間良明「『戦争体験』の戦後史」)を引き、真摯な目を向けた(170P)。戦争体験者が激減した今日、「継承」は大きなテーマだが容易でないことを、この事件は示した。

 55年体制の崩壊によって生まれた非自民政権は、かつての戦争の侵略性を認める方向に舵を切った。これに戦場体験者は拒否反応を示した。「英霊」は「加担者」だったのか―。1993年12月8日付読売に「内容が断定的」と掲載を拒否された意見広告のエピソードが興味深い。最終的に翌年の産経新聞に掲載されたが、さすがに「アジア解放のための聖戦」とする文言はなかった。体験者も遺族も、迷いながらあの戦争の意味を考え続けている、ということだろう。
 冒頭に書いたように、遠くない将来、あの戦争を知る人たち、特に戦場の悲惨さを知る人たちは確実にいなくなる。どう体験を引き継ぐかを考えるための貴重な一冊である。
 岩波現代文庫、1540円。


兵士たちの戦後史: 戦後日本社会を支えた人びと (岩波現代文庫)

兵士たちの戦後史: 戦後日本社会を支えた人びと (岩波現代文庫)

  • 作者: 裕, 吉田
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2020/02/16
  • メディア: 文庫

nice!(0)  コメント(0) 

「さとくん」はあなたかも~映画「月」 [映画時評]


「さとくん」はあなたかも~映画「月」


 相模原市の障碍者施設で2016年に起きた殺人事件がベース。しかし、映画は事件のリアルな再現に力点があるわけではない。断罪をしているわけでもない。容疑者の思想と行動が素材のまま、ごろりと放り出される。事件をどう読み、距離をどうとるかは観るものに託される。だからこそ、この映画は「重い」。

 かつて東日本大震災を素材に書いた小説が評価された堂島洋子(宮沢りえ)。しかし、障碍を持ったわが子を3歳で亡くし、書けなくなった。優しいが生活力のない夫・昌平(オダギリジョー)と暮らす。彼女は障碍者施設を訪れる。働くためだ。
 施設には、小説家志望の陽子(二階堂ふみ)や、明るい好青年「さとくん」(磯村勇斗)がいた。しかし、行われていたのは障碍者を拘束、軟禁する非人間的な行為だった。拒否反応を示す洋子に「きれいごと」といった視線が向けられた。入居者の一人に「きーちゃん」がいた。目も見えず耳も聞こえない。通常の対話は不可能だった。

 洋子は原作にはないキャラクター。事件を目撃する人間として設定された。原作ではきーちゃんが重要な役割を果たすが、映画では洋子が代わる。

 さとくんは、対話が成り立たない入居者たちを「心を持たない存在」とみる。心がないのなら人間ではない。社会に生きる意味がない。極北の思想にたどりついたさとくんは、夜中に施設に忍び込み、入居者に「心はあるか」と問いかけ、反応がなければ殺害した。
 40歳の洋子は、妊娠を知る。高齢出産で障碍のある子は生まれないだろうか。不安に駆られ苦悩する。そんな時、事件を知る。さとくんの犯行と知り「なぜ」と問う。しかし、わが子の障碍を恐れ、中絶を考えた自分と、さとくんの思想にどれほどの距離があるのか。
 映画では、施設は深い森の奥に造られている。社会から隔絶するかのように。私たちは障碍者との関係を(無意識かもしれないが)断絶することを願っていたのではないか。さとくんはそれを「きれいごとではない方法で」実行したのではないか。観るものに投げかけられたのは、そんな問いのように思う。

 森達也はある雑誌【注】で、事件後の報道で「特異性」「異常性」が強調されたことに警鐘を鳴らした。事件と日常と切り離す。事件の「普遍性」を語れば犯人擁護と批判する。これでは事件の本質は見えないのではないか。森はそう言う。
 「さとくん」はあなたの隣にいる。あるいはあなた自身かもしれない。そんな問いを、この映画は投げかける。
 2023年、監督は「茜色に焼かれる」の石井裕也。原作は辺見庸。今年一番の問題作になるだろう。
 【注】「現代思想」201610月号。


月.jpg


nice!(0)  コメント(0) 

帝国末期の奔放な女性像~映画「エリザベート1878」 [映画時評]


帝国末期の奔放な女性像~映画「エリザベート1878


 座席につくと周りは女性ばかりだった。世紀末のヨーロッパ、美貌をうたわれたオーストリア皇后の自由奔放な生き様を描いた。そんな惹句が効いたのか、典型的な女性映画とみられたようだ。しかし、そんなつもりで観た人は面食らったのでは。

 原題は「CORSAGE」。女性のコルセットである。細いウェストをさらに細く締め上げる。まるで拷問。こうして細いウェストのエリザベート(ビッキー・クリーブス)はバルコニーから微笑みをたたえて手を振る。自室に戻ったとたん、嘔吐する。コルセットは皇后の座の象徴であり、そこにまつわる数々の風習をも指しているようだ。コルセットをいつ脱ぎ捨てるか。彼女の大きな命題となっていく。
 エリザベートが40歳になった18781年間を追った。1000年にわたりヨーロッパを支配した神聖ローマ帝国(ハプスブルグ帝国)は落日の日々を送り、オーストリアとハンガリーのみが帝国を形成していた(オーストリア=ハンガリー帝国)。
 1878年はベルリン条約が結ばれた年でもある。オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア施政権を手にし、セルビア公国がオスマン帝国から独立した。第一次大戦の引き金となった1914年サラエボ事件の時限装置が、この時動き始めたともいえる。オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者を暗殺した青年は大セルビア主義者だった。殺害されたフランツ・フェルディナントにサラエボ行きを命じたのは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、つまりエリザベートの夫だった。オーストリア=ハンガリー帝国は大戦の敗北によって幕を閉じた。

 一見、史実を忠実に再現したかのようだが、実は最も肝心な部分がフィクションになっている。ルードヴィヒ2世(マヌエル・ルバイ、ルキノ・ヴィスコンティが映画化した)との奔放な関係、落馬事故の後、夫ヨーゼフ(フロリアン・タイヒトマイスター)をベッドで全裸で待ち受けるシーンなど自由な女性像が描かれる。タバコもヘロインも吸う。映画の作り手としては「暗殺」という史実に沿うのではなく、イタリアの海に身を投げるという結末が必然だったのだろう。その決着のつけ方を、あなたはどう受け止めるか。
 冒頭に書いたように、この映画は俗にいう「女性もの」をはるかに超えている。
 2022年、オーストリア・ルクセンブルク・ドイツ・フランス合作。マリー・クロイツァー監督・脚本。


エリザベート.jpg



nice!(0)  コメント(0) 

火葬のない国の極秘計画~映画「6月0日アイヒマンが処刑された日」 [映画時評]


火葬のない国の極秘計画~
映画「6月0日アイヒマンが処刑された日」


 アドルフ・アイヒマン。ナチ親衛隊員。ユダヤ人絶滅収容所移送の最高責任者。戦後逃亡を続け1960年、潜伏先のアルゼンチンでイスラエルの諜報機関モサドに身柄を確保された。翌年4月、いわゆるアイヒマン裁判が行われた。大戦中に米国に亡命したユダヤ系哲学者ハンナ・アレントが「ザ・ニューヨーカー」誌の求めに応じて取材。「凡庸な悪」と書いたことが波紋を呼んだ。12月に死刑判決が下り、執行は5月31日から6月1日の間とされる(明確には公表されていない)。この時の模様を一人の少年の目を通して描いた。

 61年イスラエル。リビアから一家で移住してきたダヴィッド(ノアム・オヴァディア)は、父に連れられ鉄工所で働くことに。貧しさから時折盗みを働き、偶然、社長ゼブコ(ツァヒ・グラッド)が極秘計画を練っていることを知る。持ち込んだのは、かつての戦友ハイム(ヨアブ・レビ)。遺体の焼却炉を作る。設計図はアウシュビッツの焼却炉のそれだった。かつて多くの同胞を焼いた炉で、アイヒマンを焼く―。
 計画を盗み聞いたダヴィッドは捕まるが、ばれることを恐れたゼブコはそのまま働かせた。少年は火葬の顛末を見守った。

 アウシュビッツ収容所の展示物に、初期のころユダヤ人の遺体が野焼きされる写真があった(どうやって撮影したのだろう)。その後、収容所内に火葬炉が作られ、連日黒い煙が上がったという(炉はなんと将校のレストランの前にあった)。ユダヤ教は火葬を禁じ、戦後イスラエルでは土葬のみが許された。こうした事情を承知で、ナチスは火葬を強行した。アイヒマンの処刑後については、遺体の痕跡さえ残さないことが至上命題だった。ネオナチによるヒーロー化を避けるためだ。遺灰はイスラエル領海外にまかれたという。

 映画では、アイヒマン裁判の主任捜査官で絶滅収容所の生き残りミハ(トム・ハジ)の回想談が絡む。関連が希薄でなんともわかりにくい。少年の目撃談一本で掘り下げたほうが、内容あるものになっただろう。面白い素材だが、エピソードがエピソードに終わっている点が惜しい。
 2022年イスラエル、アメリカ合作。監督・共同脚本ジェイク・パルトロウ。
    ◇
 戦争にもルールがあることを、国際人道法は示した。このルールが破られた時の痛みを、人類史上最も不幸な形で味わったのはユダヤの人々だった。しかし今、この民族によって作られた国が、人道無視のジェノサイドに手を染めている。これ以上の悲惨があるだろうか。イスラエルは今すぐガザから手を引くべきだ。


img001.jpg


nice!(0)  コメント(0)