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この迫真力はどこから~「シビル・ウォー アメリカ最後の日」 [映画時評]

この迫真力はどこから~「シビル・ウォー アメリカ最後の日」


 シビル・ウォー。「市民戦争」である。かつてアメリカでもあった。南北戦争(186165)。同じころ日本でもあった。旧士族が西郷隆盛を担いだ西南戦争(1877)。そもそも、薩長土肥が幕府打倒の旗を掲げた明治維新(1868)自体、市民戦争ではなかったか。勝った薩長土肥は官軍に、敗れた奥羽越列藩同盟は近代日本で冷や飯を食った。そういえば、中国大陸の奥地で異常発生した飛蝗の大群に襲われ大飢饉に陥った東北が独立を宣言する西村寿行の小説「蒼茫の大地、滅ぶ」が最近(といっても10年ほど前だが)、復刊された。

 さて本題。近未来のアメリカで連邦政府から19の州が離脱。カリフォルニアとテキサスが率いるWF(ウェスタン・フォース)がワシントンに攻め上がった。東西戦争である。
 時の大統領(ニック・オファーマン)は3期目で、FBIも廃止している。米国大統領は慣習的に3選を辞退、例外的にフランクリン・ルーズベルトが戦時を理由に4選された。51年に憲法修正、正式に3選禁止となった。FBIについては、トランプ大統領が捜査の及ぶのを嫌がり、長官を代えたのが記憶に新しい。映画では、政権維持のため何らかの不正工作が行われたと類推できる。
 独裁色を強める大統領に反旗を翻したWF。こうした情勢の中、14か月間取材を受けていない大統領にインタビューを試みようとNYからワシントンまで約1000㌔、戦場突破を図るジャーナリスト4人組の目線で描かれたのがこの映画だ。つまりロードムービーでもある。

 4人は、戦場カメラマンのリー・スミス(キルステン・ダンスト)、ジャーナリスト志望の23歳ジェシー・カレン(ケイリー・スピニー)、ロイター記者のジョエル、NYタイムズのベテラン記者サミー(スティーブ・マッキンリー・ヘンダーソン)。爆弾テロや住民虐殺など、凄惨な現場にカメラを向ける。リーがソニーのミラーレス、若いジェシーがニコンのフィルムカメラFE2を使っているのが面白い。ジェシーは父親から譲り受けたという。その父は農場で内戦を見て見ぬふりらしい。一方、リーは戦場写真を撮り続けたが、戦争を止められなかったと述懐する。ジャーナリズムの限界点を示すようなやり取りが面白い。死と隣り合わせの取材をするジャーナリストをヒーロー扱いしていない。
 住民虐殺を目撃した4人は、軍服を着た赤いサングラスの男(ジェシー・プレモンス)に銃口を向けられる。既に精神状態は正常ではない。「どんなアメリカ人だ?」とそれぞれ素性を聞く。同行していた中国人の男は即座に射殺された。ひりひりする瞬間。救ったのは後方で待機していたサミーだった。車を急発進させ男を跳ね飛ばした。
 ホワイトハウス内の銃撃戦は象徴的だ。銃弾が飛び交う中、カメラを向けるジェシーの危険を察知したリーが身を挺した。倒れるリーにもカメラを向けるジェシー。そのまま大統領のところへ向かう。倒れた大統領にジョエルが問いかける。
「何か言うことは?」
「私を殺させないでくれ」
「それで十分だ」
 ジョエルは、窮地の大統領の前で、インタビュアーに徹している。

 3人の行動には、戦場でのヒューマニズムとジャーナリズムのぎりぎりの姿が現れている。観終わってみると、アメリカを舞台にした映画だが、アメリカ的でないことに気づく。SFでもなくポリティカル・ムービーでもない。思いをめぐらし、監督のアレックス・ガーランドが英国生まれであることに気づいた。そうか、アイルランド紛争という本物の市民戦争を身近に見てきたからこそ出せる迫真力ではないか、これは。
 2024年、アメリカ・イギリス合作。


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支配・被支配をめぐる奇怪な話~映画「憐れみの3章」 [映画時評]

支配・被支配をめぐる奇怪な話~映画「憐れみの3章」


 奇想天外な物語「哀れなるものたち」のヨルゴス・ランティモス監督の新作。前作を上回る奇怪な展開で、本音を言えばもはや理解不能。そんな状況下、不思議な物語の骨格をピックアップする。
 タイトル通り、三つの章からなる。小タイトルの冒頭、いずれも「R.M.F」がつく。「第1話 R.M.Fの死」「第2話 R.M.F. は飛ぶ」「第3話 R.M.F. サンドイッチを食べる」…。「R.M.F」は何か、説明はない。エマ・ストーンらキャストは3章とも同じだが、もちろん役柄は違っている。共通テーマがあるかといえばこれが微妙で、しいて言えば支配するものとされるもの、管理するものとされるもの、その裏返しであるアイデンティティーの問題、であろうか。
 以上のような構成から類推されるのは、監督が作品を通して観るものの「脳力」を問うている、ということだ。平たく言えば、お前たちを手玉に取ってやる、どうだ参ったか、という監督の魂胆が見え透いてしまう。

 第1話は、会社の経営者レイモンド(ウィレム・デフォー)に完全支配された男ロバート(ジェシー・プレモンス)の話。支配者は毎日の行動、妻とのセックス、寝る前の読む本の題名まで指示する。そのうち、交通事故を装っての殺人を指示。さすがに断ると「明日から君は自由だ」と告げられる。それは彼にとって朗報かと思えばそうではなく、何をすればいいか困惑の日々が待っている…。
 第2話は、海で行方不明になった妻リズ(エマ・ストーン)が突然帰宅した警察官ダニエル(ジェシー・プレモンス)の話。妻は、外見上は全く同じだが、食べるもののし好が変わっている。靴のサイズが違う。セックスの仕方も違う。恐怖を抱いた男は無理難題を押し付ける。「君の指をソテーして食べさせてくれ」。女は包丁で親指を切り落とし、男のところに持っていく…。
 第3話は、新興宗教の話。エミリー(エマ・ストーン)が新しい教祖を探している。一卵性双子で片方は既に死んでいる、体のサイズも決まっている、そして死者をよみがえらせる霊力を持っている。教祖オミ(ウィレム・デフォー)から伝えられた条件にはまりそうな女性ルース(マーガレット・クアリー)を発見、死体安置所で霊力も確認した。その女性を乗せて移動中、わき見運転で女は死んでしまう…。

 いずれも存在と非存在、支配と被支配の構図の中で欲望にまみれた人間の愚かな行動が描かれる。難解だが不思議な魅力がある。3話独立、165分を長いとみるか短いとみるか。
 2024年、イギリス、アメリカ合作。


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流れるように漂うように~映画「ナミビアの砂漠」 [映画時評]

流れるように漂うように~映画「ナミビアの砂漠」


 この映画の切り口を見つけるのは難しい。一人の平凡な女性のとりとめもない日常。何かに熱中するでもなく、ただ生きている。それで不満を抱いている風でもない。ただ、これは山中瑤子監督の才能だと思うが、カット割りと音の効果の使い方が斬新極まりない。
 いきなりどこかのバスターミナルの騒音から始まる。喫茶店で会話するシーンでは、ほかの席の話し声が交じり合う。シーンのはじめと終わりは、必ずしもドラマの進行に合わせていない。はてこれは、と思っていると、どこかの砂漠の定点カメラで撮られたシーンが、PC画面のYouTubeで流れるシーンが挟まる。そうか、YouTubeの定点カメラの手法なのだ。これで、この映画の最大の謎だったタイトルの意味が分かった。

 21歳のカナ(河井優実)は脱毛サロンに勤め、不満もない代わりに希望もない生活を送る。彼氏は二人いる。一人はハヤシ(金子大地)。クリエーターと称して脚本を書いたりしている。もう一人はホンダ(寛一郎)。不動産の営業マンをしている。ハヤシは過去に女性を中絶させたことがある。それなのにクリエーターを名乗っていることに、カナは怒りを爆発させる。ホンダは出張で、どうせ上司に言われて風俗に行くんでしょ、と言われながらやっぱり行ってしまったことを告白する。どいつもこいつも何やってんだよ、とカナはまた切れる。
 しかし、二人の男に何かを期待したり求めたりしている風はない。ただ怒っている。翌日には勤め先へ行って「冷たくなりまーす」と客に言っている。その声は感情のない棒のような調子である。

 タイトルから、この映画は都会という砂漠を主人公の目を通して表現したものと勝手に思っていたが、完全に違った。流れるように漂うように生きる女性の日常を、砂漠の定点カメラが動物をとらえるように写し取った、そういう映画である。その裏側には、山中瑤子と河井優実という二人の20代のまぎれもない才能が見える。
 「あんのこと」で、世の中の不幸を一身に背負う少女を演じた河井優実が、まったく違う女性像を演じながら存在感を発揮している。2024年製作。


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加害と被害、和解は可能か~映画「お隣さんはヒトラー?」 [映画時評]

加害と被害、和解は可能か~
映画「お隣さんはヒトラー?」


 タイトルを見てコメディー仕立てと直感した。観終わっての感想―確かにそうだが、切なくて人間味のある出来だった。
 ストーリーは単純。舞台は1960年、南米コロンビア。この年、アイヒマンがアルゼンチンでイスラエル諜報機関モサドに捕縛された。もちろんそこにひっかけてある。ヒトラーは1945年、連合軍が迫る中で拳銃自殺したが、死体が確認されなかったため南米逃亡説が絶えなかった。

 マレク・ポルスキー(デヴィッド・ヘイマン)は、人里離れた地に一人暮らしていた。亡き妻が育てたクロバラを大切に育てている。隣にドイツ人ヘルマン・ヘルツォーク(ウド・キア)が引っ越してきた。彼の飼い犬が塀を壊しクロバラを荒らしたためトラブルに。ドイツ人の周辺には数人がついていた。カルテンブルナー夫人(オリヴィア・シルハヴィ)は日常生活にも入り込んだ。単なる支援者か、それとも目付け役か―。
 男がチェス好きであることを知る。ポルスキーは大会で優勝するほどの名手だ。やがてお互いの家で対局する仲に。しかし、警戒心を捨ててはいなかった。瞳の色、身長、左利き、絵を描く趣味…。ことごとくヒトラーの特徴を備えていた。
 ポルスキーの腕には囚人番号の刺青があった。ユダヤ人強制収容所で家族を失った過去。ヒトラーへの敵意、恨みは消えるものではない。その男が隣人であるかもしれない。大使館にも情報を持ち込むが、相手にされない。ポルスキーは、ヘルツォークに絵を描いてくれと頼む。筆遣いを鑑定すれば、ウィーンで画学生をしていたヒトラー本人か、判別できるはず…。
 二人の間には、奇妙な友情と警戒心が絡み合い渦巻いていた。例えば、こんなシーン。カルテンブルナー夫人を「セクシーじゃないか?」と問いかけるヘルツォーク。ある夜、夫人が宿泊する。着替えをポルスキーが覗いていると、ヘルツォークも同じ行動をとっていた。同好の士というわけだ。

 「ヒトラーは絶対悪」というセリフが、この映画にも登場する。戦争で加害と被害の両極にあった人間が和解しあえるのか。答えを求めて進むラストの謎解きは興味深い。
 ここから先は、書けば台無しになる。
 2022年、イスラエル・ポーランド合作。監督レオン・プルドフスキー。製作した二つの国が、ともにナチ・ドイツの被害国であるところが面白い。


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美しいアルプスが印象的~映画「ある一生」 [映画時評]

美しいアルプスが印象的~映画「ある一生」


 1900年代初頭から80年、貧困、暴力、戦争の時代を生きた男の物語。ローベルト・ゼーターラーの原作は、世界40言語で翻訳され160万部以上刊行されたという。そんな惹句に乗って、見てしまった。正直、主人公の生き方に何を学ぶべきか、よくわからなかった。

 少年アンドレアス・エッガー(イヴァン・グスタフィク)は母が亡くなり、オーストリア・アルプスで農園を営む遠い親戚(アンドレアス・ルスト)に引き取られた。そこでは、肉親としてではなく労働力としての待遇が待っていた。ミスをすれば容赦ない体罰が与えられる。成人すると養家を出て林業や観光施設(ロープウェイ)建設などの労働で生計を立てた。
 エッガーはやがてマリー(ユリア・フランツ・リヒター)と出会い、家庭を持つ。しかし、幸福の時間は長くは続かない。深夜の雪崩が、マリーと身ごもっていた子の命を奪った。
 そして戦争。東部戦線(独ソ戦線)へ招集され、ソ連での長い捕虜生活。戦後帰国し、一人老境を送る…。

 昔見た朝ドラ「おしん」のオーストリア版のよう。激動の20世紀を愚痴も言わず、じっと耐えて武骨に生きた人生である。原作(未読)はおそらくもっと書き込んであり内容も深いのだろうが、映画は時代の流れを表面的に追った印象が強い。
 その中で、見る価値があったのはオーストリア・アルプスの美しさ。どんな過酷な運命も、この美しい山々があれば受容できる、そう言っている。この部分は説得力があった。
 国破れて山河在り、である。

 2023年、ドイツ・オーストリア合作。監督ハンス・シュタインビッヒラー。エッガーは年代ごとに3人の俳優(18‐47歳シュテファン・ゴルスキー、60-80歳アウグスト・ツィルナー)が演じた。


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突如破綻する日常~映画「愛に乱暴」 [映画時評]

突如破綻する日常~映画「愛に乱暴」


 吉田修一原作。閉じられた空間に放り込まれた人間心理を丹念に描く。おそらく、吉田の得意とするシチュエーションだろう。江口のりこがさすがの怪演。

 会社勤めをやめて結婚8年の初瀬桃子(江口のりこ)は平穏な生活を送っている。隣の実家に住む姑・照子(風吹ジュン)ともまずまずの関係だが、微妙なストレスを感じないわけではない。夫・真守(小泉孝太郎)は最近よそよそしい。桃子自身は主婦を相手にカルチャー教室を開き、気を紛らわしていた。そんな桃子の周辺で、最近不穏な出来事が相次いだ。かわいがっていた猫が失踪、ごみ捨て場の放火、不気味な不倫アカウント…。比例して、桃子は住んでいる離れの床下の何かに執着する様子を見せ始めた。
 日常の破綻は、突然やってきた。真守が、ある女性と会ってくれという。浮気なら早く別れてくれと思う桃子だが、真守は女性との間に子供ができたため、桃子に別れてほしいと迫る。混乱した桃子は、自宅の床下を掘り始める。そこにはかつて身ごもり、流産した子の亡骸があった…。

 日常が破綻し、追い詰められた女性の静かな狂気。江口が不気味にさりげなく演じるのがみどころ。原作は読んでいないので、一部説明不足を感じる。
 2024年、監督・森ガキ侑大。


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台湾の暗部を描く~映画「流麻溝十五号」 [映画時評]

台湾の暗部を描く~映画「流麻溝十五号」


 冒頭「事実に基づく創作」とある。台湾にこんな歴史があるとは知らなかった。しかし、あって不思議はないことだった。
 台湾の南東に15平方㌔の小さな島、緑島がある。火山島で、日本の植民地時代は火焼島と呼ばれた。台湾警備総司令部は1951年、この島に新生訓導処を建設。政治犯を収容し、思想改造を行った。なぜこんな施設が造られたか。当時の東アジア情勢をみると、そのわけが分かる。
 1949年、大陸に毛沢東の中国が成立、蒋介石の国民党は台湾に押し込められた。50年には朝鮮戦争が起き、金日成の北朝鮮軍と中国軍が半島を南下、米軍を主力とする国連軍と対峙した。53年に休戦協定が結ばれたが、米ソ冷戦は一気に緊迫化した。「ザ・コールデスト・ウォー」と呼ばれたこの戦争で死者は計400万人とされる。こうした情勢に、蒋介石が慄然としないはずがない。戒厳令下、白色テロ施設の生まれた背景である。

 タイトル「流麻溝十五号」は女性政治犯の収容場所に由来する。したがって、映画の登場人物の多くは女性収容者である。1953年、施設内で反乱を企てたと冤罪を着せられ、14人が処刑された事件を核に展開する。
 純粋な心を持つ、絵を描くことが好きな高校生・余杏惠(ユー・シンホェイ)。学生組合に参加したことでスパイ容疑をかけられる。なぜか、杏子という日本語名でも呼ばれる=余佩真(ユー・ペイチェン)▽ひとりの子どもが生まれて間もなく投獄された正義感の強い看護師・嚴水霞(イェン・シュェイシア)。女性寮の寮長のような存在。禁止図書の閲覧で拘束された=徐麗〓(シュー・リーウェン)▽妹を拷問から守るため自首して囚人となった陳萍(チェン・ピン)。舞踊団に入団し、華麗な踊りを見せる=連〓涵(リェン・ユーハン)。
① 〓 雲の上半分に下は文
② 〓 輸のつくりの部分

 こうした登場人物が、絶望と希望のないまぜになった日々を送る。日本の植民地支配の名残か、台湾語、北京語のほかに日本語も飛び交う。

 この施設がいつごろまで機能したか、国防部などに移管されたため、実はよくわからない。現在は白色恐怖緑島紀念園区(白色テロ施設の人権博物館)として残されている。台湾の歴史の暗部を、台湾自身が描いたことに拍手を送りたい。
 2022年、台湾。監督周美玲。


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民主化の流れに抗した軍部~映画「ソウルの春」 [映画時評]

民主化の流れに抗した軍部~映画「ソウルの春」


 197910月、朴正熙大統領暗殺で18年に及んだ独裁政権が幕を閉じた。金大中、金永三らによる民主化時代へー「ソウルの春」の期待は膨らんだ。しかし、時代はそうはならなかった。朴政権下、引き立てられた軍人らがクーデターを起こしたのだ。映画「ソウルの春」は、混沌としたその時代を描いた。

 首都の治安維持を巡って二人の人物が対立する。一方は保安司令官チャン・ドゥガン少将(ファン・ジョンミン)。権力の階段を上り詰めようとする野心的な男。もう一方に首都警備司令官イ・テシン少将(チョン・ウソン)。こちらは清廉潔白。二人の上には大統領や国防長官がいるが、いずれも逃げ腰。唯一、参謀総長(イ・ソンミン)はイ・テシンの側につくが無力だった。
 チャン・ドゥガンは左遷と思われる人事を前に反乱を企てる。彼の背後には軍部の非公式組織ハナ会がいる。日ごろから徒党を組み陸軍本部をのし歩くドゥガン。イ・テシンは参謀総長に現ポストを言い渡され忠誠を誓う。チャン・ドゥガンと右腕ノ・テゴン少将らは数で圧倒、国防長官にイ・テシン解任を命じさせ、万事休す。部下に「ついてくるな」と命じ、イ・テシンは一人反乱軍の戦車に立ち向かう…。
 分かりやすい構図に、韓国映画お得意の緊迫感あふれる映像のラッシュがかぶさる。

 実際の歴史を振り返ってみる。中央情報部長官・金載圭による朴大統領暗殺後、全斗煥は事件の合同捜査本部長に任命された。ここから1212クーデターを経て翌年には金大中ら26人を逮捕、金永三を自宅軟禁にした。517クーデターである。こうした強権政治復活に危機感を持つ市民、学生が立ち上がったのが光州事件だった。反乱を力ずくで抑え込んだ全斗煥は大統領を二期、右腕だった盧泰愚も大統領を一期務めた。民主化の進行とともに光州事件の政治責任を問う声が強まり、特別法の成立によって全斗煥に無期懲役、盧泰愚に懲役17年の判決が下った(金大中政権によっていずれも特赦。全斗煥は90歳、盧泰愚は88歳で没)。


(この項「韓国現代史」文京沫著を参照)
 


 全斗煥らは、朴政権の軍部による権力掌握を継続しようとした。民主化の大きな流れに抗した反動的な一コマだったといえる。しかし、映画はこうした歴史的位置づけより、全斗煥を狡猾で野心的な悪役として描き、一方に正義漢イ・テシンを悲劇のヒーローとして対置することで共感を得ようとした(つまりエンタメ志向)。この点、前後の動きを入れることで歴史的な位置づけを明確化したほうが興味深かったように思うが…。
 なお、登場人物はいずれも実在者をモデルにしていると思われ(イ・テシンは不明)、脚色も入っていそうなので、映画上の役名をそのまま使用した。
 2023年、韓国。監督キム・ソンス。


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引き裂かれた二人の愛情物語~映画「大いなる不在」 [映画時評]

引き裂かれた二人の愛情物語~映画「大いなる不在」


 昔見た映画に「かくも長き不在」(1960年)というのがあった。パリのカフェの女主人が、生死も知れぬ男を待ちわびる。そこへ、あの男に似た一人の浮浪者が現れる。ダンスに誘う。鏡に映った彼の後頭部には、記憶に残る傷があった。しかし男は記憶喪失だった。二人を引き裂いたのは、ゲシュタポの拷問という戦争の暴力だった―。

 「大いなる不在」もまた、引き裂かれた人々を描く。戦争によってではなく、認知症による記憶の障害によって。
 物理学者の陽二(藤竜也)は20数年前に妻と子の卓(森山未來)を捨て、直美(原日出子)と再婚した。舞台俳優として生きる卓にある日、疎遠だった父の近況が飛び込んできた。「事件です」と偽の通報をし、逮捕されたという。急遽、父の自宅を訪れた卓は、予想外の現況を知る。 父は重度の認知症で施設に収容されていた。直美は所在不明。いったい何があったのか。父が直美にあてた手紙が見つかった。まぎれもなく父の愛情が込められていた。
 卓は妻の夕希(真木よう子)と、直美の所在を確かめるため熊本を訪れる。入院、自殺、病死…とさまざまな情報が飛び交っていた。妹・朋子(神野三鈴)と会うが、直美に会うことも伝言を託すことも拒否された。それが直美の心境を物語っていた。記憶をなくした陽二が、自分の認知さえ不確かになってしまったことに失望したのだった。

 タイトル「大いなる不在」の、不在とは何を指すのだろう。
 映画で軸になっているのは陽二である。彼が認知症(記憶喪失)になり、自分の現在地さえ分からなくなっている(卓と会った陽二が「パスポートがない」と嘆くシーンは象徴的だ)。現在と過去がまだら模様に交差する(それを演じる藤竜也が見事)。「不在」が指す一つの事例である。それよりも大きいのは直美の不在である。彼女は記憶の中にしか登場しない。現在という時間枠ではまったく存在しない。そして、卓の中の父親像。その不在を埋める旅が、映画を構成している。
 それらを考えると、この映画で確かな現実とは、始まりと終わりに登場する舞台俳優としての卓の姿、それだけである。卓を額縁として描かれた陽二と直美のまだら模様で断片的な愛情物語、そんな映画に見える。
 2023年、監督近浦啓。多少難解だが、美しい映画。ヨーロッパのそれを見ているよう。


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負の歴史に真摯に向き合う~「アナウンサーたちの戦争 劇場版」 [映画時評]

負の歴史に真摯に向き合う~「アナウンサーたちの戦争 劇場版」


 NHKディレクターで作家の渡辺考が著した「プロパガンダ・ラジオ 日米電波戦争 幻の録音テープ」は日中戦争の発端となる盧溝橋事件の2年前、1935年に発足した日本放送協会(現NHK)の海外向けラジオ短波放送が、戦火拡大とともに「兵器」として使われた歴史を追った。末尾にNHKプロデューサー塩田純が文章を寄せ、こう書いている。
 ――私たち放送の担い手は、かつて真実を報道できず、多くの人々を戦場へと導く結果をもたらしたことを、改めて認識しなければならないでしょう。(略)放送人が自らの戦争責任を解明していくこと、それは今後も続けなければならない重い課題です。
 当時、メディアの主役はラジオアナウンサーだった。テレビやネットがある現代と比べ、ラジオの比重は極めて高かった。その背景を少し探ると―。

 20世紀初頭、公共空間の構造が大きく変わった。原因の一つはラジオの出現だった。それまで知識の源泉は書物だったが、ラジオによる宣伝・扇動(プロパガンダとアジテーション)が取って代わり、公共空間は書斎から街頭に移って労働者大衆を扇動する政党が台頭した。このことを体現したのがヒトラーのナチスだった(この項「増補 大衆宣伝の神話」佐藤卓己著を参照)。

 戦時下の日本でも新しいメディアであるラジオをどう使うかは大きな政治テーマとなった。こうした状況の中、真実か扇動かで悩みもがいた放送人の姿を描いたのが映画「アナウンサーたちの戦争」である。
 昭和14年春、新人アナウンサー入局から始まる。実枝子(橋本愛)たちは研修の席で、和田信賢アナ(森田剛)の傍若無人ぶりを見てあっけにとられる。やがて真珠湾攻撃による日米開戦。和田や若手の館野守男アナ(高良健吾)は軍艦マーチとともに大本営発表の戦果を高揚して伝えた。和田はスポーツ実況では第一人者で、戦争報道にも力は発揮されたのだ。しかし、戦況悪化とともに真実の報道かどうか疑い始め苦悩、ラジオはアジテーションだとする館野とも対立する。和田と結婚した実枝子は叱咤するが…。

 昭和181021日、雨の神宮外苑。学徒出陣の実況中継を任された和田は直前に学徒らを取材、本心を聴き、苦悩は深まった。軍部の要請と真実の報道とのはざま、ついに和田は中継を放棄、若手に委ねる。
 和田や館野だけではない。新設されたマニラ支局に赴任、電波戦の担い手として戦い、帰らかなかった局員。それぞれに苦悩し、戦後の生きざまもそれぞれに決したことが紹介される。
 冒頭の著作もそうだが、NHKが負の歴史を真摯に見つめ作品としたことに敬意を表したい。この姿勢は映画人、新聞人、文学者にも等しく問われるべきことだろう。


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