フランスの山小屋に住む作家夫婦の日常に「事件」は起きた。最上階から夫が転落死。事故か殺人か、それとも自殺か。検察は、妻を殺人罪で起訴した。
映画は2時間半、やや長めで大部分は法廷劇。しかし、退屈する暇がないほどドラマは緻密、重厚に展開する。どこの家庭にもある嘘と秘密が明らかになっていく。
ドイツ生まれの妻サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)はベストセラー作家。「事件」の時もインタビューを受けていた。最中に大音響で音楽を流したのがフランス生まれの夫ヴァンサン(スワン・アルロー)。インタビュアーを見送った後、遺体を見つけたのは視覚障害を持つ息子ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)だった。サンドラは自殺か事故を主張したが、検察は殺人罪で起訴した。夫婦は前日に口論をしており、夫が録音したUSBが捜査過程で押収されていた。
殺人を否定するサンドラに、弁護士が「重要なのはそこではなく、どう思われるかだ」と答えるシーンがあったが、この言葉がすべてを言い表している。小説家として売れている妻に、売れない夫は引け目を感じていた。そのことが夫婦の関係を壊していた。息子の視覚障害も、ある事故が原因で、わだかまりを残していた。そんな秘密が、再生された音声で明らかになった。法廷で、それらはどう見えるか。しかし、殺人を証明する決定的な証拠はない。そんな折り、アスピリンを使ってある実験をした息子の証言が、裁判の行方を決定づけた―。
もちろん、裁判なので判決は出る。一定の結論は下されるが、見ているものがそれで心理的決着を得られるかといえばそうではなく、心象はモヤモヤである。現実の世界で結局、私たちは真実を獲得できず「真実に見えるもの」を手にするだけ、そう言っている。
古くて恐縮だが、大岡昇平の原作を映画化した「事件」(1978)をほうふつとさせる。殺人か自殺か、法廷では結論が下されるが真実は分からない、こんなことだったと記憶するが「落下の解剖学」も、言っていることは似ている。
2023年、フランス。監督ジュスティーヌ・トリエ。
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トルコ南東部。老人と少女が黙々と歩く。あたりは荒涼とした冬景色。遠く雷鳴が響く。こんなシーンが延々と続く。時折、付近の住民の好意で車やトラクターに乗る。洞窟を見つけ、雨をしのぐ。棺桶を引きずっていた。老人はトルコ語を話せないが、少女は少し分かる。住民との会話や二人のやり取りの中で、最小限のことが分かってくる。
少女の名はハリメ(シャム・セリフ・ゼイダン)。老人はムサ(デミル・パルスジャン)、祖父である。ハリメは隣国の内戦で両親を失った。トルコで難民生活を送るうち、ムサの妻も亡くなった。故郷に埋めてほしいという願いをかなえるため、二人は棺桶とともに国境に向かっていた。
隣国とは、おそらくシリアであろう。しかし、そんな説明はない。原野を、老人と少女が歩く。
テオ・アンゲロプロスの作品に「霧の中の風景」(1988)があった。アテネの幼い姉弟がドイツにいる父に会うため、バルカン半島を旅する。詩を思わせる幻想的な風景が印象的だった。「葬送の…」の映像は、絵画的であるが荒々しい。最近では「コットンテール」が、亡き妻の願いをかなえるため英国を旅する。「葬送の…」に似た設定だが、同行する家族との関係は修復され、見るものに温かみを覚えさせる。「葬送の…」にそれはない。ただ荒涼としている。
二人はついに国境に着く。遺体は発見され埋葬される。少女が描いた似顔絵と赤いカーネーションが添えられる。老人は国境を越え故国に戻るが、内戦の記憶がいえない少女は、国境を越えることができない。
痛ましい結末が、紛争の絶えない地域の民の悲惨を伝える。ハリウッドなら、背景にある国際情勢を含めてさんざん「説明」を費やすが、そんなものはない。痛みを痛みとして寡黙に提示する。少女の怯えて刺すようなまなざしが記憶に残る。
監督ベキル・ビュルビュル。2022年、トルコ・ベルギー合作。
監督はあるインタビューで小津安二郎への敬意を語っていたが、この作品にも、小津らしい「行間の語り」がある。
生涯に長編4本という超寡作なスペインの映画監督ビクトル・エリセの、31年ぶりの最近作。「ミツバチのささやき」は秀作らしいが、残念ながら見ていない。したがって他作品との比較で立体的な批評ができないのは残念だ。
「瞳をとじて」は映像にこだわった作品である。冒頭と末尾に未完の映画のシークエンスが入る。中央部分に現代の物語。エリセは自身の「NOTE」(公式サイト)で「記憶とアイデンティティの物語が進行する」という。もう一つ「映画の二つのスタイルが交錯する」とも。「一つは幻想を生み出すクラシックなスタイル。もう一つは現実によって満たされた現代的なスタイル」。
始まりは、幻想のシーン。1947年秋、パリ郊外。「悲しみの王」と呼ばれる老人が住む館を、精悍な顔つきの男=俳優名フリオ・アレナス(ホセ・コロナド)=が訪れる。老人は、中国に住む娘チャオ・シュー(ベネシア・フランスコ)を捜してほしいと依頼する。ためらいながらも引き受け、館を出た男。やり取りの中で、男はスペイン内戦に参加、共和派=人民戦線の側でフランコ政権と戦ったことが明かされ、謎めいた影が漂う。
ここまで映画の一場面。撮られたのは1990年。以来、フリオの足取りは消えた。時は過ぎ、2012年のマドリード。この映画の監督だったミゲル・ガライ(マノロ・ソロ)は、作家活動で身を立てる。テレビ局から「未解決事件」のインタビュー依頼が来た。ミゲルはフリオの娘アナ・アレナス(アナ・トレント)と、フリオと共通の恋人だったロラ・サン・ロマン(ソレダ・ビジャミル)に了解を取り、失踪直前の映画「別れのまなざし」のフィルムを番組に提供する。
放映を見なかったミゲルに、ある連絡が届く。フリオに似た男が高齢者施設にいるという。失踪直後に海岸で靴が見つかり投身説が流れたが、その現場近くという。ミゲルは施設に泊まり込み確かめようとするが、ガルデルと呼ばれる男は記憶を失っていた。手を尽くすが記憶は戻らず、ミゲルはあの映画のフィルムを見せようと思い立つ。
テレビ局に提供したのは冒頭部分だった。撮影仲間だったマックス・ロカ(マリオ・バルト)に頼みこみ、取り寄せた最後のシーンでは、フリオがチャオ・シューを連れ「悲しみの王」に会わせていた。そのシーンを見たフリオは、そっと目を閉じた―。
波乱万丈ではない。男は記憶を取り戻したのかも、見るものに任される。ミゲルはなぜ映画作りをやめたのか、その後どう暮らしたのか。スペイン内戦は、物語にどう絡むのか。一切説明はない。そうでありながら物語はスリリングに進む。エリセのいう「記憶とアイデンティティ」とは何か。記憶はフリオにまつわると理解できる。では、アイデンティティは。ミゲルの20年か。それとも―。際限のない思索を迫る作品である。そして、映像にこだわり映像の力を信じた作品。冒頭のエリセの言葉に即していえば、映像が幻想を生み出す作品だ。
2023年、スペイン。
「具だくさん」のわりに~映画「52ヘルツのクジラたち」
クジラには、52ヘルツという通常でない高周波の鳴き声を出すものもいるらしい。鳴き声は周囲に聞き取れず「世界一孤独なクジラ」と呼ばれる。このエピソードが、タイトルの下敷きになっている。
三島貴湖(杉咲花)は、ある港町で人生の再出発を目指していた。そこで一人の少年(桑名桃李)に出会う。母親に虐待され、心を閉じていた。貴湖も母親に虐待され、義父の介護を押し付けられ精神の限界を感じ、生死の境をさまよった。助けてくれたのは親友の牧岡美晴(小野花梨)。そのとき同行した岡田安吾(志尊淳)が母親から引き離してくれ、貴湖は自立の道を歩み始めた。
働いていた工場でトラブルに巻き込まれた貴湖は、経営者の息子で専務の新名主税(宮沢氷魚)と知り合う。親密になり、結婚を夢見た貴湖だったが、暗転する。新名には婚約相手がおり、貴湖との関係を密告したものがいた。安吾だった。
安吾は、ひそかに愛情を抱いていた貴湖に対して、一線を越えようとしなかった。一方で新名には嫉妬めいた手紙を送りつけた。なぜか。安吾はトランスジェンダーで戸籍上は女性だったのだ。愛人としての生活を求めた新名に、貴湖は台所にあった包丁を向けた―。
物語にはあらゆる不幸の形が盛り込まれ、最後には「トランスジェンダー」という仕掛けまで登場する。主人公・貴湖の人生は上がったり下がったり、エレベーターのよう。それなのに感動がわいてこない。なぜだろう。
第一に、「不幸の形」が類型的であること。母親の再婚相手に虐待され、介護を押しつけられる。精神に異常をきたすほどのことならさっさと逃げればよいのに「家に縛られている」という意識。いつの時代なのか。若い母が再婚し、少年が邪魔者扱いされる構図も、昨今のニュースで見せつけられている。
第二に、登場する人物の「彫り」の浅さである。トランスジェンダーである安吾がそのことを貴湖に告げられず、密告の手紙を書くというのも短絡的だ。相手の女性に何らかの思いがあるなら、もう少し打開策を考えるだろう。会社の跡取り息子が愛人を囲みたがった、というのも単純な構図。真相がわかるまで二人は明るくまじめな(そして全うな)人間としか描かれておらず(そういえば安吾が自室で脇腹に注射するシーンがあったが、あれは男性ホルモンだったんですね)、そのことが後の展開に唐突感をもたらしている。
第三に結論への疑義。貴湖は最終的に少年と暮らす選択をするが、それは少年にとって幸福なことなのか。
以上のような弱さが重なって物語のリアリティを失わせている。「具だくさん」なのに、それがいちいち胃袋に入って消化されない、つまり満腹感を伴わない作品だった。
2024年、監督成島出。町田そのこの原作は2021年本屋大賞。
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さりげなく描く家族の再生~映画「コットンテール」
老境に差し掛かり妻・明子(木村多江)に先立たれた文学者・大島兼三郎(リリー・フランキー)は、彼女が言い遺した望みを果たそうと英国を旅する。愛した北西部の湖沼地帯ウィンダミアに遺灰をまいてほしいというものだった。永年、疎遠だった息子・慧(錦戸亮)と妻さつき(高梨臨)、4歳の娘エミも同行する。
若年性アルツハイマーだった妻は苦しみながら死んでいった。そのことへの慚愧、十分な介護をしてやれなかったという悔い、それらが折り重なり生まれる孤独感。旅の中でそうした感情と向き合いながら、慧との関係を誠実に修復しようとする兼三郎。
英国内では道に迷い、住民の家に寄宿する。彼らの善意がありがたい。そうしたエピソードを織り込み、ロードムービー仕立てでドラマが進行する。
リリー・フランキーは複雑で繊細な心理を表現。小説の行間を読んでいる味わいだ。脇で支える木村、錦戸も好演。
タイトル「コットンテール」はピーターラビットの童話から。明子が幼少のころ訪れた「ピーターラビット」の舞台ウィンダミアに散骨を願ったという設定に由来する。日本的にいえば「幸せを運ぶウサギ」。果たして、妻(母)を亡くした一家の再生の行方は―。
さりげなく、優しく、心温まるドラマ。老いとは、愛とは、家族とは何かをあらためて考えさせてくれる。リリー・フランキーの存在感が際立っており、彼でなければ成り立たない作品だろう。
2023年、日英合作。監督パトリック・ディキンソン。
「鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折」(春日太一著)
国民経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したのは1956年、戦争から10年後のことだった。日本人が敗戦に打ちひしがれていたこの10年間に、世界に衝撃を与えた映画が相次いで製作された。「羅生門」(1950)、「生きる」(1952)、「七人の侍」(1954)である。いずれも骨太のヒューマニズムと娯楽性を備え、見る者の心をつかんだ。それぞれ国際的な映画祭で評価され、国民に誇りと立ち上がる力を与えた。監督は黒澤明、脚本は橋本忍との共作だった。黒澤は世界的な監督として、横顔はさまざま語られた。しかし、脚本家・橋本は知名度のわりに人間性が知られていない。1918年生まれの戦中派は戦争をどうくぐったのか。戦後、どのように脚本家としての階段を上ったのか。かねて興味深い存在であった。
橋本には著作「複眼の映像」がある。副題に「私と黒澤明」とある通り、橋本の目を通して黒澤明は何者かを書いた。シナリオ制作をめぐる二人の息詰まるやり取りが描かれ、面白い。しかし、当然ながら「橋本忍とは何者か」は書かれていない。
1977年生まれの映画史研究家が、脚本家・橋本の人物像をまとめた。標題の本である。2013~14年に行った約20時間のインタビューをベースに(橋本は2018年没)、先に挙げた橋本の著作、黒澤の自伝、関係者の証言などを突き合わせた。事実関係が微妙に違って、真相が分からないものも多い。著者の春日が「藪の中」(「羅生門」の原作)とした部分もある。取材相手は監督や脚本家だ。頭の中でストーリーが組み替えられている可能性もあるのだ。
橋本は1918年、姫路の北、山間の町・鶴居に生まれた。父・徳治は小料理屋を営んだが芝居好きが高じて興行に手を出した。博打が好きで、その臭覚を働かせたようだ。橋本によるとカタギには見えなかったという。競輪好きで、後に映画の「当たる」「当たらない」をかぎ分けた橋本は、父の血を引き継いだのかもしれない。
1937年、橋本は中国戦線へ送られる直前に結核と診断され、傷痍軍人岡山療養所に入った。本人によれば結核廃兵扱いで死刑宣告に等しかった。絶対安静で暇つぶしに困っていたところ、同室の男から渡された雑誌「日本映画」が、シナリオを読むきっかけになった。「この程度なら自分にも書けそうだ」と「これを書く人で、日本で一番偉いのは」と聞くと、男は「伊丹万作」と答えたという。映画の脚本に手を染めるきっかけがこれであった。結局、死ななかった彼は脚本を書き、伊丹に送った。師と仰いだ名監督の死後、人の輪を通じて黒澤を知る。書店で見かけた芥川龍之介全集から「藪の中」をシナリオにしていた。習作として時間配分など考えていなかったため、映画としては「尺」が短すぎた。同じ芥川の「羅生門」のエピソードが全体の「額」として組み込まれた。そのアイデアの出どころは両者で全く違う。まさしく「藪の中」である。こうして戦後、国際的に認められた初の日本映画が誕生した。脚本家・橋本の誕生でもあった。
橋本を語るのに「砂の器」は外せない。故郷を追われた父子の旅。捜査会議の模様、音楽家としての地位を築いた男の演奏会、これらが同時並行で描かれる。特に、原作では「その後の足取りは誰も知らない」とされた父子の旅が、日本の美しい四季とともに描かれたシーンは感動を呼んだ。松本清張は「この作品は原作を越えた」と絶賛したという(川本三郎「映画の木漏れ日」)。橋本の構成者としての腕力が生きた名作となった。この作品では、流浪の旅をした父が、原作と違って生きていることになっている。裏取りのため療養所を訪れた刑事に、父は慟哭とともにあの旅路を否定する。これも橋本ならでは、のシーンである。
そういえば、冤罪事件を描いた「真昼の暗黒」を、橋本は世間でいう反権力、社会派映画ではなく、泣ける「母もの」映画だとインタビューで答えている。「砂の器」で、音楽家として名を成した息子をかばい父子関係を否定するシーンは「父もの」というべき橋本の本領ではないか。なぜ多くの人々に受け入れられたかの秘密の一端を見た気がした。
橋本は「砂の器」を独立プロで撮った。同じ方式で「八甲田山」もヒットした。しかし、これ以降の作品は芳しくない。独立独歩、自らの腕力だけを信じて歩いてきた男が、晩年に世の中の流れから浮き上がってしまったのも分からないではない。
タイトル「鬼の筆」の鬼とは何か。第一義的には剛腕で鳴った橋本自身であろう。第二義的には人々に強いられた非情な運命。橋本は運命に翻弄される人々の悲嘆を描いた作家だった。「生きる」や「砂の器」「八甲田山」がそれらを代表している。この、越えがたい運命の壁をベースにした物語の原点は、いうまでもなく戦時中の結核体験にある。
文藝春秋刊、2500円(税別)。
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ある地方都市。3人の少年が思いもつかぬことで殺人を犯す。一人が罪をかぶる。22年後、秘密を抱えたまま3人は再会する―。この設定は、とても魅力的だ。しかし、観終わった感想は「なんだか、すっきりしない」。なぜだろう。
春と晃と朔は中学のサッカー部員だった。試合の日、もう一人の部員・正樹は来なかった。翌日、河原で正樹の遺体が発見された。一方でもう一つの事件が起きていた。老人が殺され、住んでいた作業小屋が放火された。春が逮捕された。
22年後。春は少年院を出て建築会社を経営。街の不良少年を束ねていた。晃は父親と同じ警察官に。朔は引きこもりの兄・直哉の面倒を見ながら農業を継いだ。そんなおり、春のもとにいた小林大和が殺された。遺体の状況は、正樹のときに似ていた。遺品の中に、正樹の財布があったことから、二つの事件は結びつくかに思えた。春は正樹が殺される直前、その財布を直哉に託していたことを思い出した。直哉の部屋に向かうと既に自殺、正樹殺害の凶器と思われる石が見つかったことで直哉が犯人とされ、被疑者死亡で二つの事件は解決したかに思われた。
3人は夏祭りの夜、再会する。そこで思わぬ真相が明らかになる。老人を率先して殺したのは朔だった。なぜか。問い詰められて事件直前、朔と正樹は老人から性的暴行を受けたことが明らかに。そのことを春に漏らしたと邪推した朔が、正樹を殺したのだった。さらに春の口封じのため、小林少年を殺害、罪を着せようとしていたのだった。
ここに書いたのはストーリーの幹部分だが、それでもかなり込み入っている。春が受けた家庭内暴力、晃の父や上司佐藤(椎名桔平)の腐敗ぶり、地域の暴力団のトップに君臨する白山會会長・笠原(佐藤浩市)の存在などが背景として描かれる。罪をかぶるものと本当の悪は違うと言っており、タイトルにつながる。
あらためて俯瞰すると、枝葉が多く幹の部分が浮き立っていない。もう一つ、第一の殺人は腹に落ちるが、第二の殺人はそうならない。少年時代の性的暴行被害を隠し通すため、何の関係もない少年を殺すだろうか。さらに、第一の殺人の被害者の財布を22年間、持ち続けるだろうか。こうした疑問がぬぐい切れないことが冒頭の「すっきりしない」感につながっている。春に罪を着せるため行った小林少年殺しの容疑が、春に向かわず直哉に向かったという流れも頭を混乱させる。
2024年製作。井筒和幸監督らの助監督を務めた齊藤勇起の監督デビュー作。
不倫スキャンダルを報じられ、一時期干された園田梨枝(蓮佛美沙子)は再起を期して故郷・熊本に10年ぶり帰ってきた。空港で待つのはテレビ局AD瀬野咲(伊藤万理華)だった。ドラマ部への配転を望む彼女には意に添わぬ仕事だった。
帰郷した女優の密着ドキュメンタリーを撮る。これが上司の命だった。ところが、ドラマ志向が強い咲はシーンごとのセリフまで脚本に書き込む。「やらせでは」と梨枝は反発し戸惑う。父・園田康夫(升毅)と喧嘩同然で東京へ出た梨枝は、この帰郷も実家に知らせずにいた。
こうして、崖っぷちに立つ二人のドタバタ劇が始まった。二つの摩擦が絡み合って火花を散らす。一つは撮影を巡る、もう一つは家族との。前者は、表面上は派手だがそれほど重くはない。論理の問題だからだ。後者は地味だが重く複雑である。情が絡むからだ。
父はがんに侵され、寝たきり状態だった。母の法事にも出なかった梨枝に家族は怒りの目を向ける。姉の飯塚真希(三倉茉奈)に「家族と仕事と、どっちをとるの?」と問われ「仕事」と答える梨枝。一方で高校の同級生・猿渡拓郎(上川周作)の運転するタクシーで「仕事をやめようかな」と弱音も。拓郎は「この町のヒロインなんだから、俺たちの前ではカッコつけてよ」と励ます。
このやり取りは、深い。古くからの土着を生きるか関係の絶対性を生きるか、に似ている。土着の思想に足元をすくわれ回帰した例は「転向」と呼ばれた。この作品でも、梨枝が「お姉さんは手の届く世界でしか生きてこなかったから、分からないのよ」と愚痴るシーンがある。大情況か小情況か、無限責任か有限責任か、と言い換えられるかもしれない。
父・康夫の臨終に、梨枝は駆けつける。そこで一つの仕掛けを、咲に頼む。タイトルに絡む、鮮やかな回収劇がラストを飾る―。
2023年製作。CMディレクターやテレビドラマ監督をやってきた有働佳史の初の長編映画。自身の故郷を舞台にした。
「トルーマン・カポーティ」(ジョージ・プリンプトン著)
「ポスト戦後」映画の予感~映画「ゴジラ-1.0」
映画「ゴジラ」第一作は1954年秋に公開された。以来30作目が「ゴジラ-1.0」である。直近の「シン・ゴジラ」から7年ぶりになる。
オリジナルはビキニ環礁で第五福竜丸が被曝したブラボー作戦(水爆実験)直後に公開、核実験の影が色濃く出た。この年、朝鮮半島では中国・北朝鮮と米国・韓国の戦火がやまず、米ソの緊張も極度に高まった。こうした時代背景のもと作られた「ゴジラ」は核と戦争の恐怖に支配されざるをえなかった。映画評論家・川本三郎も「今ひとたびの日本戦争映画」(岩波現代文庫)で「『怪獣映画』であるよりも『戦争映画』である」「さらにいえば『戦争』というより『戦災』『戦禍』の映画なのだ」と「ゴジラ映画の『暗さ』」の理由を解き明かした。
「ゴジラ」が、9年前の敗戦の「記憶」と深くつながっていたとする向きは多い。川本もオリジナルのラスト、ゴジラが太平洋に沈むシーンに戦艦大和や戦没兵士らの姿を重ね、講和条約後、再武装に踏み出そうとする日本への、怒りの警鐘とする。だからこそゴジラに、人々は恐怖したのだという。川本はさらに、ゴジラが皇居を攻撃しなかったことに戦後も続く天皇制の呪縛をみたが、民俗学者の赤坂憲雄は三島由紀夫の「英霊の声」を引き、異論を述べている。英霊はこういっているという。
――われらは裏切られた者たちの霊だ。
二・二六事件で、そして戦後の人間宣言で。「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」-。人間になってしまった天皇の住まうところなど攻撃・破壊の価値はない。こういっているという(「ゴジラとナウシカ」(イーストプレス刊)から)。
そろそろ「-1.0」に移らなければならない。この作品の特徴は二つある。①ゴジラ出現のタイミング。オリジナルが核時代を告げる中で生まれたのに対し、戦争末期の1945年に日本兵に敵対する形で現れる。②川本が指摘した未来への「暗さ」がないこと。これは①と微妙に絡む。ゴジラが戦時に出現したことで、戦後(思想)とゴジラはパラレルの関係になった。オリジナルでは日本の戦後と対峙する形で存在したゴジラが「-1.0」では日本の未来を切り開こうとする力と対峙する形で描かれる。構図は単純化され、川本がいう戦後思想の「暗さ」が介在する余地がない。
敷島浩一少尉(神木隆之介)は戦争末期、ゼロ戦で特攻に出撃するが、死への恐怖を克服できず大戸島(オリジナルで、ゴジラが最初に現れた島と同名)に着陸する。待機の整備兵数人に故障を告げるが機体は正常で、橘宗作(青木崇高)らから作戦離脱を疑われる。そこへ海底からゴジラが現れ、整備兵ら大半が死亡する。
戦争が終わり、敷島は特攻崩れとして東京に戻る。自宅は跡形もなく、近所の太田澄子(安藤サクラ)から母の死を告げられる。焼け跡闇市を彷徨するうち大石典子(浜辺美波)と出会う。身寄りのない乳飲み子明子を連れていた。
このあたりの描写は興味深い。澄子は敷島を見て、あんたらがしっかりしないからこんなことになったんだと非難する。日本軍は天皇の軍隊で、国民の軍隊ではなかった。こういったシーンは「兵士たちの戦後史」(吉田裕著、岩波現代文庫)にもある。一方の敷島も、一人生き残ったという罪悪感(サバイバーズ・ギルト)に苛まれる。この心理状況を克服するため、自らの戦争を終わらせることを決意する。それが、命を懸けてゴジラと対峙することにつながる。
夜間の来襲=サーチライトの多用(東京大空襲の再現)を印象付けたオリジナルに比べ「-0.1」の東京攻撃は昼間のシーンが多く、空襲=戦禍の印象が薄い。戦争の記憶に頼らず、ゴジラそのものを恐怖の存在として視覚的に際立たせる点にエネルギーが注がれる(それだけ「戦争」の記憶が遠ざかったということか)。
ただ、復員省(海軍省・陸軍省の後継)の命で日本近海の掃海作業を、木製船を使って行ったエピソードは、朝鮮戦争当時に実際にあり死者も出た。このあたり時代の影がのぞく。ここで敷島は元海軍技術士官・野田健司(吉岡秀忠)らと出会う。野田は、オリジナルのオキシジェン・デストロイヤー発明者・芹沢大助の役割を担う。
全体としてみれば、川本が指摘した「暗さ」はなく、敷島は「自らの戦争」に決着をつけ、自由と希望に満ちた未来を切り開く存在として描かれる。このあたり、戦後思想の呪縛から逃れえなかった従来のゴジラ映画と一線を画している。念のため言えば「シン・ゴジラ」は現代を舞台に日本の安全保障に焦点を当てた。潮目が変わったのはこの作品からと思われる。これまでの「ゴジラ」が戦後映画なら、近2作は「ポスト戦後」映画の範疇かもしれない。
2023年.監督は「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴。
この1か月足らずの間に、フランス革命ビフォー&アフターの映画を立て続けに見た。時間軸が逆転するが、アフターは「ナポレオン」。マリー・アントワネットが断頭台に向かうシーンから始まる。ビフォーが、この「ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人」だった。
私生児として生まれ、娼婦同然の生活を経てフランス国王の寵愛を受けヴェルサイユ宮殿に入り、公妾として権勢の階段を昇りつめた女性。歴史上、こんな面白いキャラクターはそうそう見当たらない。したがって、これまでにも数多く映画化されてきた。
「国王最期の愛人」の主人公ジャンヌ・デュ・バリーは監督・脚本のマイウェンが、ルイ15世をジョニー・デップが演じた。
巷に生きる女性が突然ヴェルサイユ宮殿に入るのだから、王室とそれを取り巻く人々の挙動と因習が皮肉交じりの視線で描かれる。やがて王太子(後のルイ16世)がマリー・アントワネットを娶る。ジャンヌとアントワネットのつばぜり合いが始まるが、なぜかこの部分はさらりと描かれる。ルイ15世が1774年、天然痘を患い死の床につくと、ジャンヌはヴェルサイユから追放され、修道院に幽閉される。ジャンヌの権勢は国王の寵愛だけが支えなので、これはやむを得ないところか。この時から15年後にフランス革命が起きる。
15世の死後のジャンヌの生きざまは、映画では描かれないが面白い。16世の温情で幽閉を解かれた後、貴族階級の複数の人々と愛人関係を持ち、相変わらずの生活だったようだ。革命後、英国に行くが再び帰国。16世やアントワネットに続いて断頭台に上った。英国から再帰国したのはなぜか。ヴェルサイユにあった宝石を取り返すためだった、とする説があるが、執着ぶりが見えて、本当なら面白い。
ジャンヌが国王の公式の愛人(そんな言い方があるのかは別にして)になるにあたって、デュ・バリー子爵(映画では伯爵)の弟と結婚、宮殿入りを果たした、という「手続き」も、現代人の理解を超える。私生児としての過去を消し、貴族階級入りするための儀式だったということか。「切腹」を書いた滝口康彦の「武士道残酷物語 拝領妻始末」の逆コースを思わせる。
最後に、ジャンヌのマイウェンとルイ15世のジョニー・デップはどう見てもミスキャストだ。マイウェンのジャンヌは「美貌と知性を併せ持つ」という設定からは程遠いし、フランス語をしゃべれないジョニー・デップに全編フランス語をしゃべらせたのは、重荷を背負わせただけだった(といってもセリフは最小限だったが)。面白い素材だけに惜しい。
2023年、フランス。
「じゃあ、ここは多数決で決めましょう」
「えっ それでいいんですか」
「だって、もう平行線のままだし。多数決なら民主的でしょ」
いろんな会合で、よく見る光景である。多数決は民主的なのだろうか。言い換えれば、多数の意見はいつも正しいのか。では、民主主義とは何なのか。少なくとも少数者や弱者の声を切り捨てるのは、民主主義とはいえないのではないか。
こんなことを痛切に感じる映画を2本、立て続けに見た。
一本は「ヤジと民主主義」(2023年製作)。2019年7月の参院選。安倍晋三元首相が札幌で遊説中に政権批判の声を上げた男女二人が警察官に排除された。この問題を追った北海道放送のドキュメンタリー(2020年放映)を、その後の動きを加え「劇場拡大版」にした。排除された側が提訴、地裁判決では原告二人が全面勝訴。高裁では男性が敗訴、女性は勝訴と判断が分かれた。判決直前に安倍元首相襲撃事件があったことが影響したとみられる。
この国では、政権批判をすることは自由である。このことと選挙活動の自由、犯罪予防のための警備活動が天秤にかけられた。一つ間違えば表現の自由、政治的意見の選別(検閲)につながりかねない。常識的に見て北海道警の過剰警備が批判されるべきだが、法廷の議論はまだ続いている。
もう一つは「NO選挙,NO LIFE」(2023年製作)。各地の選挙を追うフリーランスライター畠山理仁の取材活動に密着した。2022年7月、参院東京選挙区。彼は候補者全員を直接取材することを旨とする。しかし、候補は34人もいる。50歳のフリーライターには楽ではない。なぜ彼は全員取材にこだわるのか。大手メディアは初めから当選見込みのない候補は「泡沫」として切り捨て、当落線上を見極めようとする。選挙後の政治地図を見定めれば一件落着なのだ。
しかし、畠山の視界にあるのはそうではない。時に荒唐無稽な意見、声も拾う。弱者の声なき声が聞こえてくるかもしれないのだ。彼が体力的限界を感じ、最後の取材現場として選んだのは沖縄県知事選(2022年)だった。そこでは、県民全体が少数者、弱者として政治(国政)に向かおうとしていた。結局、畠山はこの後も選挙取材から引退できないでいる。
共通するのは、多数が少数を抑え込むことに対する強烈な違和感、「NO」の叫びである。標的となった「安倍政治」は、権力者の側からの弱者、マイノリティへの攻撃、抑え込みだった。少数者の声をすくい上げてこそ、民主主義ではないのか。観た後の、私の第一の感想である。
驚愕の書き手が現れた。これが読後の第一印象だった。帯にあるように、取り上げられた二人は「国民的作家」といっていい、日本人になじみ深い存在である。若いころ新聞記者を務めたが、何をしていたかは意外に知られない。著者(ホンダ・アキノ)はこのキャリアの中に「美術記者」という共通の体験を引き出し、どのように後の作家活動に影響したかを丹念に探った。
ホンダも、彼らと似た道を歩んだ。奈良の大学を出て京大院へ進み美術史を学ぶ。そこから地方新聞に籍を置いたがわずか3年で退職。出版社で編集作業を経験した後、フリーに。新聞社で美術記者を目指したがかなわなかったので転職した、という点が違っている。
毎日にいた井上と産経にいた司馬。ともに関西で勤務した。彼らにとって新聞記者とは何であったか。井上は「おりた」記者だと自称し、最初から社会部など報道の前線を志していなかったようだ。一方の司馬は「火事があれば走っていくのが記者」といい、文化部で美術担当を命じられ「車庫入りした気分。落魄の思い」だったという。ホンダを含め3人とも、報道の前線にいて情報を手際よく処理するという行動類型と「文体」には馴染まなかった(馴染めなかった?)とみることができる。むしろ「美術」という窓を通して思索を深めていくことに適性を見出した、といえよう。感性の共通土壌が見えてくる。
ただ、記者を卒業してからの二人の道筋はかなり違う。司馬は「美術記者は、本当の自分ではない」との思いから「美術オンチ」を自称した(実際はそんなことはなかったらしいが)。井上は職場にいたころから「美術記者向き」とされた。こうして美術に一定の距離を置いた司馬に対し、井上は生涯、向き合った。
1975年と77年の2回、二人は中国の旅に同行した。この時の井上を見る司馬の視線が興味深い。西域の山河を前に、井上は時代を超えて人々を肉眼で見たいとの思いに駆られていた、という。司馬は「こういう衝動の多発-悪魔的ななにか―に体が刻々ひきずられているとしかおもえなかった」と書いている。関心ある対象を目の前にしたとき、井上には何者かが憑依したような行動、静かな狂気が頭をもたげる瞬間があったという。こうした狂気と詩が、小説「敦煌」につながったのかもしれない。
井上は50代でスペイン・プラド美術館を訪れ、ゴヤの作品と出会った。中でも衝撃を受けたのは「カルロス四世の家族」で、集団肖像画の背景にある、誰も書かなかった物語を書いてしまう。名作を前にしたときの、悪魔が憑依したかのような傾倒ぶりがわかる。
司馬は、ゴッホの絵が好きだった。ホンダはその根っこに狂気があるとみる。司馬が、ゴッホと同じ「文学性」を持つ画家として鴨井玲の絵に出会ったのは、新聞記者をやめてからだった。司馬はここで「裸眼で」という言葉を使った。「ただ生きている、という最後の生命の数滴」を「すばらしい描写力」によって描く。ここがゴッホと共通するという。美術記者としてではなくただ人間として、裸眼として絵画の衝撃力を受け止める。これが、司馬の到達点だった。
陶芸の分野は、接し方がやや違った。柳宗悦のいう「民芸」の思想を根底に置いた「用の美」であり、仏像や絵画とは違う世界。そこで、陶芸には「持つ」という行為が生じる。井上は「持つ」ことに大胆であったようだ。一方の司馬は嫌悪を感じる。「コレクターになる」ことへのそれである。ただ、柳の「民芸」思想には彼なりの理解を持っていた。
--伝統工芸は、九割までが技術で、あと一割が魔性である」。その魔性がどう昇華するかで作品が決まってしまう、と司馬はいう(155P)。
説得力のある指摘である。
司馬は記者時代、八木一夫という陶芸作家と出会う。「用の美」「無名性」と対極の存在。柳を「読みすぎていた」司馬は衝撃を受け、理性では抗えなくなる。やきものは司馬にとって「荷厄介」であった。陶工から、魅力的な壺をもらうことをためらわなかった井上とは違っていた。
二人は「宗教記者」でもあった。考えてみれば当然だが、美術の世界は宗教の世界に通じる。寺社仏閣、仏像、絵画は美術、宗教と同根の世界を持つ。二人が宗教記者でもあったのは、当然の成り行きであったろう。
後から思えば、二人にとって「美術記者」という体験は回り道だったかもしれない。ホンダは「おわりに」で面白い指摘をする。もし二人が美術記者にならなかったとしたら―。井上はゴヤをあのように豊かな世界に再創造しただろうか。司馬は「裸眼」に目覚めることなく、ゴッホにあそこまで執着しなかったかもしれない。八木一夫に出会わなければ、やきものへの思索をあれほど深めただろうか―。「回り道」が生み出したものを、ホンダは逆説的に語っている。
平凡社2800円(税別)。
「ナポレオン」といえばフランスの英雄にとどまらず、世界史に必須の人物。フランス革命後の動乱の中で生まれた戦争の天才。数限りなく映画化された。いまなぜナポレオンなのか。そんな疑問を胸に観た。「グラディエーター」のリドリー・スコット監督と「ジョーカー」のホアキン・フェニックス主演という強力タッグ。どんなナポレオン像が現れるかと思ったら、天才・偉人・英雄とは程遠く、妻ジョセフィーヌとの夫婦関係に悩み、戦いに勝利してもどこか虚しさを胸中にたたえた「人間ナポレオン」だった。
マリー・アントワネットが大衆の罵声を浴び断頭台に向かうシーンから始まる。血まみれの生首が持ち上げられる。群衆の中で、それを見ていたナポレオン(史実ではないらしいが、監督は二人の位置関係を表すためそうしたかったのだろう)。のっけからぎょっとする光景。
コルシカ島生まれのただの陸軍兵士だったナポレオンは1793年、フランス王党派とグレートブリテン、スペインに支配された南仏の港湾都市トゥーロンの奪回を命じられる。劣悪な大砲と士気の低い兵士を巧みに使い、大戦果を挙げる。権力への階段を一直線に駆け上がる人生が始まる。未亡人ジョゼフィーヌ(ヴァネッサ・カービー)と出会い、60を超す戦いを率い、1812年ロシアに戦いを挑みモスクワを占領。しかし、ロシアはモスクワを焼き払うという奇手に出たため迫りくる冬将軍に敗れ去った。
ナポレオンを素材に映画を作れば、おそらくどこをどう切り取っても見せる作品になる。では、リドリー・スコットはどこをどう切り取ったか。戦いの場面は意外に少なく、最低限の歴史的事実を追っている。ジョゼフィーヌとの奇妙で微妙な関係、背後にあるナポレオンの未練と執着、そして権力への野心と虚無。こんな描写に多くのエネルギーがつぎ込まれた。シンプルに言えば、英雄ナポレオンより人間ナポレオンにピントを当てた。
ロシアに敗戦後、地中海のエルバ島に流される。単調な生活に飽き足らず、1年後に数千の兵を率いて本土に上陸。敗戦後に幽閉の地となった西アフリカ沖セントヘレナ島で最期を迎える。個人的にはこの地の6年間に焦点を当てても面白かった、と思うが、興行的にはそうもいかないか。裏を返せば、エンターテインメントとしては目配りのきいた、いかにもアメリカらしい作品と思える。
2023年製作。ナポレオンがなぜ今?という疑問はいまだ解けないが、アップル資金提供→ソニー・ピクチャーズエンタテインメント配給という作品の出自の部分に時代性を感じる。
花腐(くた)しとは梅雨のころの長雨のこと。「春されば卯の花腐し我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも」(万葉集)からとられた。現代語で言えば「初夏のころ咲くウツギの花も、長雨が降れば朽ちてしまう。私が越えた、愛する人の家の垣間も荒れているだろう」。万葉の和歌がなぜタイトルに引用されたかは、見ているうちに分かってくる。
芥川賞をとった松浦寿輝の原作は、死に別れた女性とのときが忘れられず、どん詰まりの人生を送る中年男の心情を、幻想を交えて描いた。これを、ピンク映画の世界で下積みを送り、代表作「火口のふたり」(2019年)を持つ荒井晴彦監督が、斜陽のピンク映画界に舞台を置き換え映像化した。ストーリーも、一人の女性を愛した二人の男が偶然出会い、追憶を語る恋愛ドラマに変更した。
冒頭、男女の心中死体が浜辺に上がる。ピンク映画の女優・桐岡祥子(さとうほなみ)と監督の桑山篤(吉岡睦雄)だった。祥子と同棲していた栩谷修一(綾野剛)は彼女の実家に向かうが、線香一本上げさせてもらえなかった。
栩谷もピンク映画の監督だったが、ここ5年間撮っていなかった。生活に困り、アパートの大家(マキタスポーツ)に部屋代の滞納を交渉する。大家は、あるアパートの建て替えを計画中だが、男が一人居座っていて計画が進まない。追い出してくれれば、部屋代に色を付けた謝礼を支払う、という。気が進まないまま、男を訪ねた。売れない脚本家・伊関貴久(柄本祐)がいた。押し問答をするうち二人は打ち解け、部屋に上がり込んで酒を飲み始めた。部屋の奥には映画を勉強しているという中国人留学生リンリン(MINAMO)がおり、周囲は栽培中のマジックキノコで一杯だった。
伊関は昔付き合った女のことを話し始めた。居酒屋でアルバイト中、知り合った。演劇を勉強しているという。栩谷と伊関は韓国人のママ(山崎ハコ)の店に場所を移し、語り合った。栩谷が名を聞くと桐岡祥子だという。「その女は死んだよ」と、栩谷は告げた。
祥子は伊関の子を身ごもったが、女優の道を捨て切れずおろしてしまう。シナリオライターをあきらめ、家庭を持つことを考えていた伊関との間に亀裂が入り、二人は別れる。
祥子と出会った栩谷は、映画を撮れないままずるずると5年間を過ごす。そして妊娠を知る。しかし、栩谷は「俺には家族はいらない」と、女優をあきらめ家庭を持つことを考えていた祥子を突き放す。やがて流産し、二人の間に亀裂が入る。そんなころ、彼女を主役にした脚本を、桑山が持ってきた。そして桑山と一線を越えたことを祥子が告白。しかし、栩谷は「そう…」と聞き流した。
原作は、女性と死に別れた男の、未練を引きずる話である。映画では、二人の男が「祥子」への未練を引きずる。あのとき、こうすればよかった、という思いを二人とも抱いている。そんな心情からか、終わりに近く謎のシーンがある。栩谷は、鏡越しに背後を祥子が通り過ぎるのを目撃する。追っていくと、彼女は伊関の部屋に入る。ドアの隙間越しに何かを見た栩谷は、涙を流す。何を見たのだろうか。
この映画で「花腐し」の花とはなんであろうか。第一義的には祥子という存在である。しかし、たとえピンク映画であろうと、人々を夢中にさせる映画を撮りたい、と思っている業界全体を指しているのかもしれない。そうした情熱も、長雨の季節が来れば腐り、朽ちてゆく。そんなレクイエムが全体を覆っているように思える。蛇足かもしれないが、かつてピンク映画でみられたパートカラーの手法が、ここでもとられた。希望に満ちた過去はカラー、絶望に沈む現在はモノクロ。
「火口のふたり」もそうだが、荒井作品は過剰と思えるセックスシーンで知られる。「花腐し」で、このセックスシーンのカギを解くセリフに出会った。伊関が祥子との思い出を語る中で「さよならのセックスをして別れた」。日常会話のようにセックスが行われる。単なる欲望とか愛情とかとは違う、会話のようなやりとり。これを下敷きにして見ると、荒井作品でのセックスシーンの意味が多少分かってくるようだ。
2023年製作。
「昭和街場のはやり歌 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと」(前田和男著)
いつの世にも、はやり歌がある。中でも昭和は、時代の明と暗、尾根筋と谷底がくっきり見えたため、変わり目ごとにはやり歌があった。社会の下部構造がきしみ、上部構造に幻影が生まれる。つかの間、大衆が酔いしれた共同幻想。歓喜と失意、希望と蹉跌。どこか甘く、魂をとらえる旋律があった。
書かれたのは、こうした社会とはやり歌の共同歩調である。歌は、歌だけの魅力によって時代に受け入れられてはいない。表現の深部で世の動きの本質をとらえたため、大衆に響き受け入れられた。そのことが一つ一つ、立証されている。「歌は世につれ」である。
著者は1947年生まれ。いわゆる団塊の世代である。大学時代、東大闘争を経験した。極私的体験を骨格とするこの著作では、当然ながら世代は重要なファクターである。そうした位置関係から、二つの安保闘争の高揚と挫折を見た一文が興味深かった。
西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は60年安保闘争のレクイエムとする説が根強い。しかし、著者は(私もだが)どこかでこの説に違和感を覚える。それは何かがたどられる。70年当時、いささかの自嘲を込めて歌われたのは「網走番外地」であり「圭子の夢は夜ひらく」だった。何が違ったのか。著者の見立てでは「アカシア―」はあまりに“詩的”で「網走-」や「圭子の―」は“散文的”という。そうかもしれない。わずか10年の間に、この違いはどこから生まれたか。闘いの質ではないか、という。60年安保は日本社会の将来のエリート候補によって主導された。70年安保は中間管理職候補だった「学生大衆」が街頭でゲバ棒を振るい、火炎瓶を投げた。結果、挫折の質にも変化が生まれた。背景に大学進学率の大幅な向上(学生の大衆化)があった。こうした時代の位相の変化を、著者はこう表現する。
――「アカシアの雨がやむとき」は「敗北と挫折」の鎮魂には似つかわしいが、「自滅と自壊」を癒してくれそうにはない。それには「網走番外地」と「圭子の夢は夜ひらく」が適役だったのである。
「一本の鉛筆」という歌がある。横浜で空襲にあった美空ひばりが、反戦の願いを込めた。作詞は松山善三。1974年、広島平和音楽祭で披露された。しかし、広島でこの歌を知る人は少ない。ましてや全国的にはほとんど無名である。ひばり自身は、この歌を「自薦ベスト10」の6位に挙げて遺言とした。ひばりと日本社会、あるいは広島との間で、何が行き違ったのか。
ひばりが反戦歌を歌うことに、被爆者団体が抗議したという。理由は、反社会勢力との関係が言われていたこと▽一本の鉛筆で書けるほど被爆者の苦しみは甘くはない―というものだった。これに対して松山は、一本の鉛筆は鉄砲玉より強い。だからこそ平和の心を伝えることができる、と反論したという。
ひばりの歌唱力を疑う者はいない。だからこそ、ひばりは時代を超越し、日本からアジアへと越境した。そうして、戦後の大衆が背負ってきた罪と穢れを一身に引き受けた。さながら浄化のため川に流す形代(かたしろ)のよう、と著者はいう。私には、戦後日本が異形のものとしてひばりを排除したとしか見えなかった。その抜け殻-空疎でいびつな―が、目の前にある(前田はそこまで書いていないが、暗示はしている)。戦後日本の平和思想の辺境を見る思いがするのである。
「時代とは何か」を考えさせる一冊。
彩流社刊、2500円(税別)。
「百姓が侍を雇う?」
「そうだよ」(中略)
「出来たな」
黒澤さんが低くズシリという。
映画「七人の侍」の構想が走り出した瞬間である。(橋本忍著「複眼の映像」から)
黒澤明は時代劇をつくろうとしていた。まずあったのは、ある「侍の一日」を完璧なリアリズムで仕立てることだった。細部で躓き、次に剣豪列伝をオムニバスで。これも行き詰まった。そんなとき、武者修行の兵法者の生態を話す中で冒頭のエピソードに行き当たった。完全主義者は「侍の一日」に至らず、そのことが歴史的名作を生んだ。
「PERFECT DAYS」は、あるトイレ清掃員の一日を追った映画である。描いたのは奇想天外でも、波乱万丈の人生でもない。ぼろアパートに住み、決まった時刻に起き、布団の畳み方も歯の磨き方も寸分違わない毎日。そんな彼にも、人生や生活への揺らぎがある。
軽自動車で仕事場(公衆トイレ)へ向かう平山(役所広司)は、70年代の洋楽をカセットテープで聞くのがお気に入りだ。冒頭、車内に流れるのは「朝日の当たる家」。同僚のタカシ(柄本時生)は、仕事はいい加減だ。ガールズバーで働くアヤ(アオイヤマダ)にぞっこんで、平山の軽を借用したりする。
鎌倉に住む姪のニコ(中野有紗)が10数年ぶりにアパートを訪れた。数日後、平山の妹ケイコ(麻生祐未)が娘を連れ戻しにきた。運転手付き、黒塗りセダンだ。「お父さんは認知症でホームにいる。昔と違うから、お見舞いに行ってあげて」と告げる。平山はそんな妹を黙って抱きしめる。平山という人間の裏側(もしくは捨てた人生)が垣間見える。
判で押したように、仕事を終えると銭湯へ行き浅草駅構内の飲み屋で一杯だけ酒を飲む。休日は居酒屋でママ(石川さゆり)と雑談する。ある日、店に入る見知らぬ男(三浦友和)を見かけた。ドアの隙間から覗くと、ママと抱擁していた。気持ちを静めるため川べりで酒を飲んでいると、男が来た。ママと離婚、ガンで余命を知り、無性に会いたくなったという。
「影って重なると濃くなるんですかね」と謎の問いかけをする。平山は「じゃあ、やってみましょうか」と、二人で影踏みをする。
無粋を承知で言えば、このシーン「人生が重なり合えば情も濃くなるでしょうか」と暗に問いかけている。
平山はトイレ掃除を終えると、公園のベンチでコンビニのおにぎりをほおばる。見上げると葉陰が揺れ、木漏れ日。胸のポケットから小さなカメラ(フィルムカメラ)を出し、撮る。ありふれていて、しかし一様でない光景に人生を重ねている。
平山は終始無口である。しかし、ひとかどの知性と気品を持ち合わせていることは、たたずまいからわかる。そんな危うい立ち位置を表現できるのは、役所広司しかいない。さりげない日常を通して人間の哀歓、孤独、無常観を描くヴィム・ヴェンダース監督の手法も尋常ではない。小津安二郎に通じている。そういえば「平山」という役名(「東京物語」で笠智衆が演じた)に、小津へのオマージュを感じる。名作である。
2023年製作。
スペイン・ガルシア地方の寒村に、フランスから老夫婦が移住した。巨漢だがインテリ風の夫アントワーヌ(ドゥニ・メノーシェ)とつつましい妻オルガ(マリナ・フォイス)。有機農業で自給自足のスローライフを夢見る。廃屋を改修して観光客を呼ぶ計画も持つ。
夫婦を見る村人の視線は穏やかではなかった。酒場では、シャン(ルイス・サエラ)とロレンソ(ディエゴ・アニード)のアンタ兄弟がアントワーニュに絡んできた。永年村に住み、貧しい生活に飽き飽きしていた。思い付きのようによそから来た夫婦が、この地を理想郷のように言うのが我慢ならない。風力発電計画が持ち上がったことで、対立は先鋭化した。村人が賛成する中、アントワーニュは反対を鮮明にした(理由は語られていないが、推測すると低周波や景観の問題?)。わずかな補償金目当てのアンタ兄弟は、アントワーニュに賛成するよう迫った。
ここまでなら日本でもありそうな話である。都会と田舎の対立。スローライフだ、有機農業だ、と吹聴する都会人に、現実はそんなもんじゃない、と冷たい視線の村人。しかし、ここから第二幕に。
秋、落葉の降り積もる美しい林を散歩するアントワーニュはアンタ兄弟に襲われる。嫌がらせの証拠にと持ち歩いていた動画カメラを木の根元に隠し、逃げるが逃げ切れなかった。
一人残されたオルガは、淡々とこれまでの生活を続ける。心配したフランスに住む娘マリー(マリー・コロン)が一緒に帰ろうと説得するが応じなかった。
当初、アントワーニュが主役と思えたがそれは浅薄で、オルガが主役とわかる。男同士の諍いを見ながら、本当の解決策は他にあるのでは、と思っている。夫は殺され山林に埋められていると推測したオルガは、腰が重い地元警察に頼らず自力で山野を捜索した。ついに動画カメラを見つけ、警察に捜査を依頼する。執念が実ったのだ。その後、彼女が向かった先はアンタ兄弟の母だった。「息子は刑務所に行くことになる」と告げる。この行為は何を意味するのだろうか。勝ち誇ったゆえの発言、とするのは浅薄だろう。男たちとは違う生き方を、女同士で見つけよう―。私にはそう見えた。
第一幕は、日本でもありそうなエピソードだが、第二幕で人間ドラマとしての奥行きを感じさせる。そんな映画である。スペインで実際にあった事件がベースという。
原題は「The Beasts(As bestas)」。直接の意味は村の家畜を指す(冒頭、馬のたてがみを3人がかりで刈るシーンがスローで入っている)が、もちろん村人(というより人間)の心に潜む獣性を表している、と読むのが妥当だろう。
2022年、フランス、スペイン合作。監督ロドリゴ・ソロゴイェン。