変わらぬ政治の原風景~三酔人風流奇譚 [社会時評]
変わらぬ政治の原風景~三酔人風流奇譚
「武士は食わねど」から変貌
松太郎 自民党安倍派(清和政策研究会)の政治資金パーティー券売り上げ一部キックバック=裏金化疑惑が、永田町を揺るがせている。岸田政権は12月14日、同派の閣僚4人を更迭した。党首脳を含め、同派の有力者は一掃された。
竹次郎 聞くところでは、長期にわたってシステマチックに行われたようだ。25年とも30年とも伝わる。森喜朗会長のころか三塚博会長のころか。会長判断で導入されたかどうかは調べないと分からないが。
梅三郎 清和会を作ったのは福田赳夫。当初はタカ派の政策集団でカネはなかった。総裁選で田中角栄の経世会と大平正芳の宏池会の連合に勝てず「天の声にも時に変な声がある」と嘆いたのが記憶に残る。後を継いだ安倍晋太郎も立ち技の人。勝負に弱く政権目前で病魔に倒れた。悲劇的な印象があったが、その後の三塚、森会長あたりから変わった。亀井静香、加藤六月、石原慎太郎あたりが派を出たことも、カラーを変えた。亀井、加藤とも左翼体験を持つ。石原も、作家デビューのころは革新のイメージをもてはやされた。
松太郎 「武士は食わねど高楊枝」の印象だった。回顧談はともかく、この疑惑、リクルート事件とよく比較される。確かに既視感がある。何が共通して何が違うのか。
竹次郎 リクルート事件では派閥の領袖のほとんどが疑惑にまみれ内閣、党の有力者は軒並み辞任した。竹下登首相が内閣改造を行った後も疑惑の主が現れ、通常国会での予算成立と引き換えに首を差し出した。消費税導入のころで、庶民から搾り取った税を政治家は懐に入れるのか、と怒りを買った。内閣支持率は一桁、消費税率とどちらが上をいくかと皮肉られた。岸田政権の今後を暗示しているようだ。
清和会晩景
梅三郎 領袖は派内に金を配らないと結束を保てない。だからこんな事件が起きる。金の要らない政治とともに、諸悪の根源である派閥をなくさないといけない。こうした声が党内外から起きた。
松太郎 そのために考えられた方策は。
竹次郎 派閥が生まれるのは、一つの選挙区で同じ党の候補が争うからだ。政策に違いがなければ有権者へのサービスが勝敗を決める。だから金も要る。中選挙区を変えないとだめだ。こうして、選挙制度を変えようという議論が起きた。阿波戦争=三角代理戦争と呼ばれた激烈な選挙を経験した後藤田正晴元官房長官あたりが、けん引役となった。
松太郎 それで派閥と金権政治はなくなったか。
竹次郎 なくならなかった。派閥は政策研究会と名を変えいまだにあるし、河井克行事件のように、地方政界で金を配る構図もある。半面、人事に関しては定数1の小選挙区制なので、圧倒的に党中央の権限が強くなった。首相、幹事長の同意がなければ選挙に出られない。
梅三郎 中選挙区制では、派閥は党中党のような存在で、首相はヤジロベエだった。各派が出したリストを突き合わせ組閣人事を行った。今は、首相に力があれば独断で一本釣りはいくらでもできる。よくもあり、悪くもあるが。
松太郎 いま派閥が必要な理由は、総裁選を結束して戦うためだけだろう。それは支える側からすれば、権力の頂点と直結できる道。安倍派はまさに、憲政史上最長の政権だっただけに、権力亡者が群がるに値する存在だった。
梅三郎 今の派閥は、権力志向の烏合の衆だから、上り詰めるための機能を失えば人はいなくなる。安倍派の解体、液状化現象が始まるだろう。もう始まっているか。
竹次郎 今回の疑惑は派閥の消長には影響する。しかし、そんなこんなで結局派閥政治と金権政治はなくならない。
また一つ、安倍政治の負の遺産
梅三郎 リクルート事件と違う点が一つある。かつては後藤田、小沢らとともに、若手に改革を望む声があったが、今は全く聞こえてこない。小沢は強引な手法が嫌われたが、戦略的には小選挙区による二大政党制を目指す、明確なゴールがあった。結果が理想とだいぶ違うのは事実だが、そこまで彼の責任とするのはどうか。
竹次郎 リクルート事件以後、分かったことは、制度論に全面的に依拠しても現実は変わらないということ。選挙制度を変えても、政治風土を変えない限りよくはならない。
松太郎 それはそうだが、選挙制度改革にも不徹底な点がいくつかあった。例えば小選挙区比例代表並立制。比例代表は公明党を取り込むためにくっつけた。これが小政党の存続を助け、二大政党制を妨げた。中途半端な改革が今日、自民党一強につながっている。小選挙区制の英国では候補の落下傘方式を義務付けており、ほかの選挙区の出身者しか出られない仕組みだ。日本ではむしろその土地の有力者を選定する。これが世襲制の蔓延につながった。こうしたことを変えない限り、緊張感のある政治状況は生まれない。
竹次郎 でも、そうした改革は可能か。結局、政治資規正法にパッチを張るぐらいで終わるのではないか。
梅三郎 派の親分が黒といえば黒だ、といったのは金丸信だったか。昨今の清和会の議員の言い訳を聞いても、派閥の論理は少しも変わらない。こうした政治の原風景は永久に続くのか。
竹次郎 それにしても、アベノミクスといい統一教会問題といい、東京五輪問題といい、安倍政治の負の遺産の多いこと。大阪万博も、維新との合作ではあるが、安倍首相の一声でゴーサインが出たという。いまやお荷物だ。
松太郎 かつて田中曽根内閣といわれた中曽根首相が田中角栄から自立したように、岸田政権にとっては安倍政治とたもとを分かつ好機。それだけの力量と覚悟があれば、だが。
「国葬儀」大騒ぎはしたけれど…~三酔人風流奇譚 [社会時評]
「国葬儀」大騒ぎはしたけれど…~三酔人風流奇譚
菅元首相の「弔辞」
松太郎 安倍晋三元首相の「国葬儀」が9月27日、行われた。7月8日に襲撃事件があり14日に岸田文雄首相が実施表明。珍しく即断即決だった。これが裏目に出て国論を二分する議論があったが噛み合わず、当日も賛成、反対両派が国会議事堂前などで気勢をあげた。
竹次郎 葬儀の形式の是非は後に回すとして、安倍政権で官房長官を務めた菅義偉元首相の弔辞が話題になった。これをどう見るか。
梅三郎 ポイントはいくつかあった。一つは、季節の移り変わりに託した安倍氏への「思い」。一つは、政治家としての評価。最後に、伊藤博文に先立たれた山県有朋の心情を引いたこと。一般的な葬儀ならありかな、と思うが、国が主催する儀式としては疑問がある。
松 引っ掛かったのは、安倍氏に対して「命を失ってはならない人」と述べたこと。裏返せば、世の中には命を失ってもいい人とそうでない人がいるように聞こえる。安倍という政治家が、常に「こちら側」と「向こう側」という分断的手法をとってきただけに、なおさらそう思う。
竹 「あなたという人がいないのに、時は過ぎる」なんて、日本的無常観というより気持ち悪さが先に立つ。
梅 特定秘密保護法や平和安全法制などを強行成立させたことで世論に深い分断を招いたが、そのことを「あなたの判断はいつも正しかった」と言い切ってしまう。もともとそういう儀式だったわけだが、やっぱり「ああ、やってよかったな」とは思えない。
松 あの日以来、岡義武の「山県有朋」が売れているそうだが…。
竹 世論の浅薄さが見えていやな気分だ。山県も伊藤も安倍氏と同じ山口県出身で、特に山県は維新以降の藩閥政治と、その結果としての政党政治の軽視の元凶だった。石橋湛山は「(山県の)死もまた社会奉仕」と書き、佐高信が「さすがに私もそこまでは」といったというエピソードもある。そのあたり冷静に見るべきで、一時の心情に流されないことだ。
「独裁性」と国民不在の儀式
梅 菅氏の「思い入れ」に対して岸田首相の「無色透明」「無味乾燥」ぶりが批判の的になったが、これまでの議論を見ると、むしろそうした内容こそ今回の儀式にはふさわしかった、とも思えるが…。
松 そうした視点はあるかも。テレ朝「モーニングショー」で玉川徹コメンテーターが「菅氏の弔辞には電通の演出が入っている」と述べ翌日訂正したが、そういいたくもなる。
松 玉川発言は確かに暴走気味だったが、「訂正すれば済むのか」といった強硬意見もある。一方で安倍氏を「国賊」と語った自民党議員に「離党すべきだ」という党内意見もある。こうした強硬論の台頭こそ薄気味悪さを感じる。「モノ言えば唇寒し」の時代が来ないことを祈りたい。
竹 安倍-菅ラインの政権は「官邸一強」と言われた。皮肉なことだが、菅氏の弔辞は、半径2、3㍍の中の人間関係では最強であり、そこから外側に向かっての防護壁もまた最強であると、言い換えれば独裁性のよって来るところを見せつけたように私には思えた。
梅 なるほど。官房長官時代の菅氏は最強の門番だった。
松 岸田首相は「国葬」でなく「国葬儀」だと、最後まで言っていた。あれは何だったのか。
竹 9月30日付朝刊に二つの寄稿が載った。一つは橋爪大三郎さんの(朝日)、もう一つは大沢真幸さんの(中国、おそらく共同配信)。二人とも社会学者だ。橋爪さんは「国葬」でなく「国葬儀」(=国葬まがい:asa注)だという論旨で民意と三権の長の合意を欠いている、とした。大沢さんは世論の深刻な分裂ぶりに焦点を当て、今回の儀式が日本人にとっての単一の主体を立ち上げることに成功しなかったため時間とともに忘れ去られるだろう、とした。二人とも入り口は違うが出口ではほぼ一致している。行われた儀式では、単一のアイデンティティー形成はおろか、共通のプラットフォームさえ見出すことはできなかったからだ。大沢さんは賛成、反対両派がそれぞれ相手の意見に驚きを持っており「最小の橋が架かっていない深い溝がある」と述べている。橋爪さんは「国民が敬意と感謝を表すのにふさわしい葬送儀礼を練り上げておこう。そうすれば(吉田茂元首相、安倍氏の:asa注)二度の国葬儀は国葬でなかったことがはっきりする」と、逆説的な表現で国葬に値する国民合意などどこにもなかった、と言っている。
英国葬と日本のメディア
松 エリザベス英女王が9月8日に亡くなり、19日にロンドンで国葬があった。米国では24時間中継をするチャンネルもあり世界的に関心が高かったが、安倍氏の国葬は反対派の動きも含めて短時間触れられただけだった。儀式の在り方と反響は日英でずいぶん違っていた。
竹 女王即位は第二次大戦の直後。以来70年間王位にあった。第二次大戦までは英国は帝国主義と植民地の国であり、結果として「七つの海を支配する」海軍を持った。戦後、植民地は放棄したものの15の国の元首としての地位にあった。植民地政策は搾取が基本だから、血なまぐさいエピソードもある。「脱帝国主義」「ポスト植民地」の時代をどう切り開くかが使命だった。世界史的な位置づけをしないと女王の死と国葬の意味は語れないはずだが、そうした視点を提供したメディアはほとんどなかった。見聞の限りでは、9月25日放映のTBS「サンデーモーニング」がわずかに触れた。
梅 確かに、英国葬はイングランド国教会が式を司り、日本の無宗教方式とはかなり違った。そうした雰囲気だけを取り上げて感心するのはミーハー的視点と言わざるを得ない。今からでも遅くはない、日本のメディアは世界史的な見地に立った補足意見を掲載すべきでは。そうしないと、英連邦の一角でもない国の新聞が女王の死や国葬を一面で報じた意味が分からない。
日本の「国葬儀」は記憶されるのか
松 もう一度日本の「国葬儀」に戻る。あの儀式が国民的な記憶として残るだろうか。
竹 残念ながら国民的な記憶としては残らないだろう。間違いなく国民の間に深い溝があることを示したが、それは大沢さんが言うように今日の政治制度に容易に反映されるものではないのではないか。儀式の是非論よりもっと深いところに不可視の国民的断層があるように思える。そのことへの指摘は重い。
梅 その通りだと思う。その断層を誰がどうやって掘り下げるかだ。
安倍元首相殺害事件をめぐって [社会時評]
安倍元首相殺害事件をめぐって
A 安倍晋三元首相が7月8日、殺害された。奈良市内で参院選候補の応援演説中、衆人環視の中で手製の銃を持った男に襲われた。衝撃は列島を駆け巡った。
B ドクターヘリなどで橿原市内の病院に運ばれ、治療を受けたがほぼ即死状態だったようだ。夕刻、夫人が東京から駆けつけ、死亡が確認された。心臓に銃弾による穴が開いていたようで、蘇生する見込みはなかった。
C 外国でも事件は報じられた。すべてを見たわけではないが、日本では「撃たれ死ぬ」の見出し表現が多かったようだ。多くの外国メディアは「暗殺」を使った。
B 「暗殺」は謀略→謀殺のにおいがある。今回の事件に限っては、容疑者の自供をみても個人的動機の色彩が強く暗殺や謀殺はそぐわない。
◇政治家・メディアの対応に違和感
C 若干の違和感があったのは、政治家やメディアがそろって「民主主義への挑戦」とか「言論はひるんではならない」といった主張や論調を掲げたことだ。現場で逮捕された山上徹也容疑者は、母親が特定の宗教にのめりこみ家が破産状態になったため、この宗教団体とつながりがあると思いこんで元首相を襲ったと自供している。これがそのまま正しいとすると、特定の政治家の言論に対する反感ではなく個人的な怨恨が動機となり、先にあげた政治家やメディアの主張とはすれ違っている。
B 被害者は政治家だし、襲われたのも選挙の遊説中だった。外形的事実だけ見れば「民主主義への挑戦」と受け止められるのは、ある程度妥当なのかなと思う。ただ、民主主義や言論を揺るがすのは、直接的な暴力だけではない。権力による抑圧的な政策や貧困、差別なども言論や民主主義を揺るがす。
◇民主主義の守り神?
A 事件の報じ方にも問題があったように思う。元首相に対する暴力をそのまま民主主義の破壊ととらえることで、裏返しとして安倍氏は民主主義の守り神であったかのような報道も見られた。森友学園、加計学園問題や桜を見る会疑惑、そして近畿財務局職員の自死を招いた一連の動きは、民主主義の破壊につながるものだった。事件を民主主義の破壊行為という構図に押し込めることで元首相を美化してはならない。数々の疑惑を招きながら真相解明を求める声にも一切答えてこなかった、という事実をきちんと報じてこそ民主主義を守ることにつながる。
B その通りだと思う。事件直後の報道を見ていて、この点に最も留意していたのはTBSの「報道特集」だった。もっとも、すべてを網羅的に見ていたわけではないが。
A コロナ禍やウクライナ戦争の影が人心を覆ったせいで、もともと今回の参院選は自民党に追い風が吹いているといわれた。そこに、投票日2日前というタイミングで事件が起きたから自民有利はさらに加速した。
B 新聞の見出しを見ると「自民大勝」と捉えたものが多かったようだ。ただ、事件がどれだけ追い風になったかは今後の分析を見ないと分からない。もともと「コロナ」や「ウクライナ」といった自民にとっての好条件はあったわけだし。
◇「タクシードライバー」か朝日平吾か
C けさ(7月11日)の「羽鳥モーニングショー」で、玉川徹コメンテーターが事件を「タクシードライバー」に通底するものと見ていた。ロバート・デ・ニーロ扮するベトナム帰りの元海兵隊員が荒み切った精神を抱えて社会になじめず、次期大統領候補を襲う(映画では未遂に終わる)というマーティン・スコセッシ監督の1970年代の名作だ。なるほどと思う反面、少し違う感じもする。どこが違うのか、うまく言えないが…。
A 容疑者は、高校生あたりまでは普通の、というよりむしろ恵まれた家庭環境にあったようだ。ところが建築会社を経営する父親が他界し、後を継いだ母親が宗教にのめりこんだあたりから、その日の食事にも困るほどの極貧生活に陥ったようだ。20歳のころ海上自衛隊に入ったのも、貧困が背景にあったともいわれる。そうしてみると、1921年に安田善次郎を暗殺、「死ノ叫声」という遺書を残した朝日平吾に思想的に近いのではないか。中島岳志や橋川文三が彼に関する文章を残しているが、明治維新後のいわゆる志士仁人的ではなく、大正デモクラシーの思想を踏まえた人間主義的な怒り―貧困や不平等に対する怒り―をベースにしたテロリストだった。
B うーん。これもしっくりこないな。事件直後には5.15事件や2.26事件を連想するという声も聞かれたが、これは論外だろう。いずれにしても、手作りといわれる長さ40㌢の銃身(砲身?)を持った、まがまがしい武器。容疑者が夜を徹して(と思われる)作りあげた異様な数丁は、少なくとも安倍氏個人にではなく社会全体に向けられていた、と考えるべきだ。その思想の闇の底には貧困や不平等への言い知れぬ怒りがあったことも確かだろう。そのあたりはこれから解明されるだろう。
- 作者: 橋川文三
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/10/25
- メディア: Kindle版
独立不羈の民を滅ぼすな~ウクライナ情勢 [社会時評]
独立不羈の民を滅ぼすな~ウクライナ情勢
「プラハ」や「ハンガリー」を想起
A ロシア軍がウクライナに侵攻したのが2月24日。きょうで5日がたつ。専門家は、軍事力に圧倒的に差があり1日か2日で首都は制圧されると見ていた。しかし、ロシア側の思惑通りに行かず、ウクライナ国内で制圧した都市は一つもない。今の状況をどう見るか。
B ロシアの行動は明らかな暴挙だが、見ていて思い出したのは、ハンガリー動乱やプラハの春でのワルシャワ条約軍の動きだ。あの時は戦車部隊が出動しただけで動乱や民主化の動きは止まった。もちろん表面的にだが。プーチン大統領が想定したのは、それと同じ結果だったのではないか。散発的な戦闘はあるかもしれないがすぐ収まる、と。ところがそうはならなかった。
C これほどあからさまな侵略行為は、第二次大戦の始まりとなったナチスドイツの電撃作戦以来ではないか。プーチンはウクライナをネオナチ政権と非難するが、その言葉はそのまま本人に返さなければならない。ただ、短慮で視野は狭く、それが誤算につながっている。兵站作戦を全く組んでいなかったとも伝わり、その辺も誤算を裏付けている。
A ロシアの狙いは何か。
B 当初から言われているが、ウクライナが民主化され西欧化されていくのが気に入らないのではないか。そこで、NATO加盟を公然といい始めたゼレンスキー政権を転覆させ傀儡政権を作ろうとした。ウクライナがそうした狙い通りになるかどうかもだが、その後に何を狙っているかも気になる。
C バルト三国が次の侵攻の対象では、ともいわれる。西隣にはカリーニングラートというロシアの飛び地があり、重要な役割を果たしそうだ。バルト海に面した港町で、プーチン夫人(現在は離婚)の出身地でもあることから一時は経済発展が進んだ。
B バルト三国はいまNATOに加盟している。簡単には手が出せまい。
A たとえ巧妙に傀儡政権を作ったとしても、ウクライナ国民はもう二度とロシアに服従しないだろう。その意味でもプーチンの戦略は破綻している。
帝国主義のやり方そのもの
A ロシアを見て想起されるのはアジア・太平洋戦争での日本のやり口だ。朝鮮民族が望んだことにして朝鮮半島を併合し(今でもこの説を唱える右寄りの人もいる)、後背地に満洲を建国、傀儡政権を置いた。ロシアはこれと同じことをまずクリミア半島でやり、隣接するウクライナ東部2州でロシア系住民が虐殺されているとデマを流して自衛のためと称しウクライナに攻め込んだ。日本は満洲事変の際、柳条湖事件(1931年)という大掛かりな爆破テロをでっち上げたが、それに類するのが東部2州での住民虐殺というデマだった。
B アジア・太平洋戦争との類推でいえば、当時の日本は朝鮮民族や中国大陸の人々を「他者」と見ていなかった。つまり、Aに対するBではなくAダッシュである、という認識だった。そこから、独立でなく服従すべき存在であるとの発想が出てきた。これはプーチンが言っているロシアとウクライナは同じ民族、という発想と同じ。そのうえでウクライナはまともな国家は作れないからロシアに服従すべき、といっている。
C ウクライナを力で属国にしようとするやり方は、第一次大戦や第二次大戦のころの帝国主義のそれだ。歴史を100年前に戻そうとしている。それに対して米欧は有効な手段が打てないでいる。
B プーチンは、核のボタンを片手に隣国を蹂躙している。ダイナマイトを手に銀行強盗を働いているのと大差ない。最近読んだ「戦争の文化」でジョン・ダワーは、非戦闘員である市民を人質にとる原爆こそテロ行為だと強調しているが、核で脅しながら住民を殺害するプーチンのやり方もまた、テロ行為そのものだ。
一帯一路構想にも影響
A 誰が見ても正当化できないプーチンのやり方に、ロシア国民はどう反応するだろうか。既に国内ではデモが散発的にではあるが起きていて、数千人が拘束されている。社会主義ソ連の時代には考えられなかった。
B SWIFTからロシア主要銀行を排除する金融制裁が発動される。これがどの程度きいてくるか。プーチンも対応は考えているだろうが、それでもルーブルが暴落し、インフレが国民を襲うことは目に見えている。そんな中で4000とも5000ともいわれるロシア兵の棺が戦場から帰ってきたとき、国民は何を思うか。情報操作だけで乗り切れるのか。
A ロシア革命の前段となった戦艦ポチョムキンの叛乱(1905年)というのがあった。舞台は黒海。エイゼンシュテインが映画化し、乳母車が転げ落ちる有名な虐殺シーン「オデッサの階段」があった。発端は粗末な艦内の食事だった。いま、ロシア国民は叛乱の鉾先をクレムリン、それもプーチンに向けるべきだ。
C 中国がどう動くかだが、さすがに一蓮托生とは考えないのでは。一帯一路構想では、ウクライナは欧州とアジアを結ぶ重要な役割を担う。ロシアをとってウクライナを斬るという判断をすれば構想はとん挫しかねない。中国は微妙な立場にある。
A ところで、3月4日から予定されているパラリンピックはやるのだろうか。さまざまなスポーツ大会がロシアでの開催を取りやめている。
B ウクライナ選手団は派遣が難しいとも、参加するともいわれ不透明だ。ロシア選手は、出れば世界からの批判にさらされる。ロシアとの対戦は嫌だという選手や、ロシアが参加するなら、とボイコットする国もあって不思議はない。逆にウクライナは、困難を乗り越えて参加すれば、これ以上ない政治効果を生む。いくらスポーツと政治は別、といっても、さすがにこれは切り離すのはむつかしいのでは。国際パラリンピック委員会の見識が問われる。
ロシアに流れる「力への信仰」
A プーチンの今回の行動の原点には、1989年のベルリンの壁崩壊に立ち会ったことがあるといわれる。民衆が自由を求めて立ち上がり、無政府状態に陥った時の恐怖体験がPTSDとしてあるのではないか、という。
B その体験を単なる恐怖体験としてではなく、なぜ民衆は立ち上がったのか、ウソの体制によって抑圧された民衆の怒りが爆発した、という視点がプーチンにはない。
C 無政府状態に陥らないためには、力で民衆を抑え込むしかない、抑え込めば民衆はついてくる、という思想。「力」への信仰。これがプーチン思想の核心だろう。振り返ってみればロシアという国は力への信仰で貫かれてきた。イワン雷帝、ピョートル大帝、そしてレーニン、スターリン。みんな力への信仰者だった。ウクライナはそうではなかった。武装した農民をルーツとするコサック、ナチスドイツやソ連と戦ったパルチザン。独立不羈の精神を持った草原の民族だった。それだけに、ロシアのような大国への道を歩まなかった。こうした国を、力への信仰者をトップに置く国の属国にしてはいけない。
A あらためて、ウクライナの国旗はいい国旗だなと思う。上半分が青で下が黄色。空と、小麦が実る麦畑を表すという。
B あの国旗を見ると映画「ひまわり」を思い出す。青空の下、揺れるヒマワリ畑。あのヒマワリは、第二次大戦で最も凄惨といわれた独ソ戦で亡くなった多くの兵士の魂だといわれる。そういえば、侵攻してきたロシア兵に「ヒマワリの種をポケットに入れて死んでしまえ」と詰め寄ったおばあさんの動画を見た。多くの兵士の屍の上にヒマワリのように咲いたウクライナの平和が戦車によって蹂躙されるのを見るのは悲しい。
(データは3月1日現在)
自前の政治ができるか~三酔人風流奇譚 [社会時評]
自前の政治ができるか~三酔人風流奇譚
岸田政権、地味なスタート
松太郎 岸田文雄内閣が10月4日、発足した。新聞各紙が実施した支持率調査【注】を見ると、思ったより低空飛行だ。
竹次郎 ただ、数字に微妙な幅がある。それに毎日を除いて不支持の数字が低い。
梅三郎 閣僚の顔ぶれを見ると20人中、初入閣が13人と多く、しかも若手が多い。知名度の低さから地味、薄味、ひ弱の印象がある。その辺をどう見るかが、数字の幅になって表れている。その分、反発を呼ぶ要素もないので不支持率も低いのでは。世論もどう見たらいいのか戸惑っているようだ。
松 それと関連するか分からないが、株価もご祝儀相場とはいかなかった。もっともこれには中国経済や原油高騰など不安定要因が絡んでいるが。
竹 いずれにしても、首相の見た目どおり地味なスタートとなった。
梅 そこであらためて思うが、菅義偉内閣はなんであんなに発足時の支持率が高かったんだろう。いったい何が期待されたのか。
松 うーむ。分からんねえ。
竹 発足時の支持率が低く、後で上がった例はないわけではない。記憶に残るのは小渕恵三内閣。発足時は米国から「冷めたピザ」と酷評された。中曽根康弘内閣も当初は「田中曽根内閣」と批判を浴びたが、闇将軍田中角栄支配から脱却することで支持率を上げた。宮澤喜一内閣は、ずっと低空飛行だったような…。
梅 政権のかたちでいうと、竹下派支配で発足した宮澤政権、田中派支配の中曽根政権あたりが、今度の岸田政権に近い。宮澤政権は竹下派支配を脱却できないまま竹下派自体が分裂したことで55年体制の幕引き内閣となった。中曽根政権は田中派支配から脱却したが、そのために「死んだふり解散」など壮絶な権力闘争を仕掛けている。要は、最終的に自分の足で立てるかどうか。
「甘利幹事長」の意味
松 自民総裁選で派閥の論理が言われ、内閣発足時も安倍晋三、麻生太郎、甘利明の3Aの影響が強いとされた。その辺をどう見るか。
竹 甘利幹事長は岸田、安倍、麻生の間を取り持ったことへの論功行賞。高市早苗政調会長、萩生田光一経産相、松野博一官房長官あたりが安倍氏の影響かと思われるが、安倍氏から見れば微妙にストライクゾーンから外れている。その辺は岸田氏の抵抗力と思いたいが。麻生副総裁は、これからの運用を見ないとわからない。中二階に上げたということなのか…。少なくとも、波風立てずに財務省から麻生氏を外すにはこの方法しかないとは思う。はじめからケンカを売るつもりなら話は別だが。
松 岸田政権のかたちは、かつての田中派、竹下派支配に似てはいるが、当時ほど派閥の圧力が強いとは思えない。背景にあるのは選挙制度の違いだろう。
竹 甘利幹事長については、いろんな見方が可能だ。政治とカネの象徴的人物で野党が手ぐすね引く中、火中のクリを拾う必要があったか。もう一つは、萩生田経産相とセットで考えると、強力な原発推進ラインが見えてくる。
梅 自民総裁選は、河野太郎という原発廃止論者対安倍を筆頭とする原発推進論者のせめぎあいだった。そう見ると、政権を制したのも甘利―萩生田という原発推進論者ということになる。
核政策のねじれと新・資本主義の行方
竹 それほど簡単に物事が動くだろうか。原発推進論が政権の中枢を押さえたからと言って、原発再稼働は容易ではないだろう。まして新増設など不可能だ。核燃サイクルも、どんどんやりましょうとはならない。世界の大勢を見てもそうだ。
梅 岸田氏は戦後初の被爆地選出国会議員だ。その点からも、核兵器廃絶に言及せざるを得ない。菅首相が「読み飛ばし」事件を起こした平和祈念式典にも出る。核兵器廃絶と原発推進を同時に唱える首相、という批判は避けられない。
松 いずれにしても10月中に総選挙がある。それを乗り切ったとして来年夏には参院選。その後は、よほどの失政がない限り3年間は選挙をしなくていい。その間に、自分の色を出した政治ができるか。
竹 麻生副総裁の間は、財務省の公文書改ざん問題は手を突っ込まない、というメッセージ。それと歩調を合わせてモリカケ・桜問題も棚上げ、ということになる。その辺りを国民がどう見るか。「自前の政治」と「疑惑棚上げ」の連立方程式の中で、岸田政権の命運が定まる。
松 8日には所信表明演説があった。
竹 衆目の一致するところでは、目玉は「新しい資本主義」を打ち出したところだ。大風呂敷を広げたなあ、というのが第一印象。
梅 確かに。野党はさっそく「美辞麗句ばかりで内容はない」と突っ込みを入れた。
松 「新しい資本主義」は近年、哲学者や経済学者から言われ始めた概念だ。社会主義の自壊によって資本主義の一人勝ちかと思いきや、ナオミ・クラインが「ショック・ドクトリン」で書いたように、新自由主義自体が資本主義の行き詰まり形態であることが明らかになってきた。脱・資本主義か新・資本主義かは問われるべき課題ではあるが、そこに手を突っ込むのは容易ではない。
竹 所信表明を素直に見れば、税制改革などで企業や金持ち階級から資産を供出させ、中間層や下級層に再配分とも読めるが、岸田政権にそんな体力、腕力があるとは思えない。
松 その辺はお手並み拝見、ということ。もし国民に失望感が広がれば、政権は短命かも。
梅 総裁選で言っていた所得倍増は姿を消したようだ。さすがに、当時の池田勇人内閣は高度経済成長下でなしとげたが、今の時代にとても現実的とは思えない。
竹 宏池会の創始者である池田のほか、大平正芳、宮澤らが掲げた政策目標がちりばめられている。田園都市構想とか生活大国とか…。
松 まさに「美辞麗句」政権に終わらないことを願いたい。
【注】共同通信55.7、23.7 朝日45、20 毎日49、40 読売56、27 日経59、25(単位%、支持・不支持の順)
五輪辞任・解任劇、社会の空洞化こそが問われる~三酔人風流奇譚 [社会時評]
五輪辞任・解任劇、社会の空洞化こそが問われる~三酔人風流奇譚
松太郎 東京オリンピック関係者の辞任・解任が続いている。電通出身のCMクリエーター佐々木宏氏が、女性タレントの外見を嘲笑する演出案を提示、週刊誌にすっぱ抜かれてやめた(3月)。開会式の音楽を担当した小山田圭吾氏が、過去に雑誌で障がい者へのいじめを武勇伝のように語ったことが問われ、やはりやめた(7月)。直後に、絵本作家ののぶみ氏が過去の行状(逮捕歴など)を理由に辞任(7月)。今度はショーディレクターの小林賢太郎氏が、ユダヤ人虐殺をやゆしたネタを書いたことで解任された(7月)。
竹次郎 これに女性蔑視発言のJOC会長・森喜朗氏の辞任(2月)を加えると、共通項として見えるのは人権感覚のなさだ。特に弱者への思いやりが決定的に欠けている。それが女性であったり、肉体的な外観上のことであったり、障がいであったりする。小林氏の場合、人類史上例のない悲劇を笑いのネタにしているのだから、逃れようがない。
梅三郎 深刻なのは、これらの事例が日本社会で問題になってこなかったことだ。あらためて見てみると、とうに社会的に抹殺されていて当然と思われることばかりだ。
松 なぜ社会で取り上げられなかったのだろう。
漂流と喪失の30年
竹 一言でいえば、日本の「社会力」が落ちている。社会が空洞化している、といってもいい。
梅 それはどういうこと?
竹 社会が自然に持つエートスのようなものがなくなってきている。倫理観といってもいい。社会全体が共通して持つ物語のようなものが最低限のルールとか倫理とかを作る。そういう力が、今はない。
梅 そういえば1964年の東京オリンピックは、さまざまな物語を日本国民に提供して、それが横断的な力となり戦後社会を築く力になった。いま2度目の東京オリンピックを間近にして、そういう力が日本社会にないことに気づかされるとは、皮肉なことだ。
竹 与那覇潤が「歴史なき時代に」で怒りを込めて指摘していたのも、そういうことかもしれない。社会が歴史意識を失ったことで、重厚さもなくなった。
松 現代史を振り返るとき、よく指摘されるのは冷戦後の日本社会の空洞化ぶりだ。特に平成の30年。経済は停滞し、人々は目標を見失い、アイデンティティーを喪失し…。
竹 象徴的な事例として挙げられるのが1980年代末、つまり平成の冒頭にあった宮崎勤事件とオウム事件。一見違う現象に見えるが、実はアイデンティティーの喪失と、ヴァーチャルとリアルの境界線の曖昧さ、という点で通底する。こうした時代の風潮が、エートスとかモラルとかの喪失を招き、むしろそのことを笑いの種にするようになった。
善悪の参照点を持たない日本社会
松 ユダヤ人虐殺に関する発言が問題になっているが、この問題の第一の当事者はヒトラー。そのヒトラーについてメディア史の佐藤卓己が見識を述べている。もともと絶対善の存在である神からの距離によって人間の行為は価値づけられてきたが、ニーチェが「神の死」を宣言して以来、つまり絶対善の消滅以来、人間の価値を計る参照点は絶対悪としてのヒトラーになった(「流言のメディア史」)。もちろん「絶対悪」が「絶対善=神」にいつか置き換わるかもしれない、という危険性に留意する必要はあるが、日本社会は戦後、絶対善なり絶対悪という参照点を持ちえなかった、そのことがいま問われている。これまで言動が問われた五輪関係者に共通するのは、ゆるがせにできない価値の絶対基準が存在するという意識の欠如だ。
竹 ユダヤ人虐殺問題に関して、ある情報番組で日本人の戦争体験を被害体験として語るコメントがあったが、非常に違和感があった。アジア・太平洋戦争で日本人の死者は公式発表で310万人だ(非戦闘員含む)。これに対して中国をはじめアジアで亡くなったのは1500万人ともそれ以上ともいわれる。この数字だけ見ても、決してあの戦争は日本人の被害の物語としてのみ語るべきではない。つまり、そこでしてはならないこと(=絶対悪)は何だったのかが、これまで厳しく問われてこなかったことが、まわりまわって高度経済成長後の日本社会の屋台骨のなさにつながっている。
で、東京五輪はやっぱりやるの?~三酔人風流奇譚 [社会時評]
で、東京五輪はやっぱりやるの?~三酔人風流奇譚
菅政権のやり方はどうなのか
松太郎 東京五輪まで1カ月ちょっとになった。
竹次郎 世論調査では中止や延期を求める声が半数以上あったが、本当にやるんだろうか。
梅次郎 もう、そういう段階は過ぎたんじゃないの。G7で菅義偉首相も「やる」と明言したことだし。
松 G7での表明を受けて一部メディアは、国際公約でもあるし立派にやらなければ、というトーンに変わりつつある。
竹 なんとも不愉快な動きだ。菅首相は一貫して世論に目を向けなかった。その人が国際的な会議で約束したからと言って、なんで国民が従わなければいけないのか。民主主義の手続きを踏みにじる行為だ。
松 IOC幹部の言動と日本政府の動きは妙にシンクロしている。原点は、民主主義を無視するという一点だ。もっとはっきり言えば、両者の共通点は独裁政権の手法そのものであるということだ。
竹 それは感じる。もともと民主主義は複雑で面倒な手続きだが、独裁政権はそこをすっ飛ばして予定調和で物事を進める。最終的に調和しなかった場合、カタストロフに陥る。
松 民主主義では、少数意見も含めて多様な意見を吸い上げ、最終的に多くの人間が納得できる地点に着地するよう努力する。この、多様な意見を踏まえて着地点を見出すという作業を一人の「有能な」人間に任せれば極めて効率的ではないか、というのが独裁体制の由来であろう。菅政権のやっていることもそういうことだ。多様な意見の合意点は私が決める。五輪後には国民は誰が正しかったかを知ることになる…。
梅 ただ、現実と違うのは、菅首相は国民の様々な意見の調和点を見極めるほど有能とはだれも思っていない。それに国民はそこまで「バカ」でもない。
竹 今の政権のやり方は愚民政治だ。国民はバカだと言っているに等しい。
かつて見た光景
松 実際に見たわけではないが、近現代史を踏まえると今の状況は既視感がある。米国と戦争しても勝てるわけがない、とみんな思っていた。それはデータでも明白だったにも関わらず、支配層の一部が独走して真珠湾攻撃があった。
竹 近代日本の分水嶺はノモンハンにあったと思っている。日本とソ連が満州国境地帯で一触即発状態にあったとき、辻正信は「寄らば斬る」と前線に檄を飛ばした。その結果惨敗した。戦車、航空機、火力いずれをとっても10倍以上の格差があったから当然だった。しかし、日本の支配層はこのときの日ソ衝突を「事件」として扱い「戦争」とはしなかった。明治以降をみると、実は日本が最初に遭遇した近代戦はこのノモンハンだったが、そこから教訓を得ることをしなかった。それが日米戦争という愚挙につながった。
梅 丸山真男のある分析を思い出す。「軍国支配者の精神形態」の中で、戦争責任を問われた被告たちが行った自己弁解の特徴として二つのことを挙げた。一つは「既成事実への屈服」、もう一つは「権限への逃避」。このことが「無責任の体系」につながっていくのだが、今の状況にも奇妙なほど当てはまる。「既成事実への屈服」とは「もう決まったことだから」であり、「権限への逃避」とは「私は全体の責任者ではない」ということ。まさに今、菅首相らが言っているのはそういうことで、つまりは無責任の体系につながっている。
松 そういえば、丸山の有名な言葉に次のようなのがある。
――大義と国家活動はつねに同時存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それと共に行動することが即ち正義とされるのである。「勝った方がええ」というイデオロギーが「正義は勝つ」というイデオロギーと微妙に交錯しているところに日本の国家主義論理の特質が露呈している。(「超国家主義の論理と心理」)
これなど、菅首相が常に口にする、安心安全な対策を講じているから五輪は安心安全だ、だからやるんだ、という言葉に似ている。それでも感染状況が深刻化すればどうするんだ、という野党の問いかけへの答えになっていない。対策を徹底するから安全だ、これは正義を遂行すれば必ず勝つ、という論理と同じだ。かつて原発建設で流布された安全神話とも同根だ。
歯切れ悪いメディア
松 5月26日付朝日新聞が「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」と社説で訴えた。今のところ、これ以外に明快な中止論は見られない。
竹 テレビ朝日「羽鳥モーニングショー」のコメンテーター玉川徹氏が比較的明快に述べている。
梅 未知のウイルスの感染下でのオリンピックということからいえば、中止か開催か、もっと喧々囂々あってもいいように思うが…。
松 朝日は東京五輪の公式スポンサーになっている。社説掲載後は「二枚舌」とか「ダブルスタンダード」とか、ずいぶん批判された。これだけでなく、このまま開催されたら競技結果の報道をどうするか、という問題もある。全世界で数十億人が見るという五輪を、1紙だけ、1局だけ報道しないという選択肢があるのか。そこを考えると、簡単に「中止せよ」とは言えない。
竹 主張と報道は別物と考えればいいが、世間がそれで納得しないかも。やはり「二枚舌」といわれかねない。
梅 五輪放映権の一切を握っているNBCのトップは、早くも史上最も利益を生む五輪だといっている。観客を入れるのか入れないのかまだ決まっていないが、どちらにしても観客数には制限がつく。それならテレビの視聴率は上がるという計算だろう。
そもそも「オリンピック」って…
松 今のオリンピックはフランスの貴族クーベルタンがヨーロッパ、ロシアの貴族に呼びかけ、1894年にIOCを作ったことに始まった。東京五輪をめぐってIOC幹部らの上からの物言いが随分癇に障ったが、IOCはもともとそういう体質だ。
竹 冷静に見ればIOCは民間団体。民意の反映がどこにもなされていない。そういう団体の一言一言に国家や都市のリーダーが一喜一憂するという構図が理解できない。
梅 民主的な手続きを経てできた団体でないから、国家や都市の民主主義の手続きに価値を見出さないのではないか。特権意識が強く、冒頭でもあったように独裁やファッショと極めて親和性が高い。実際、IOC会長を務めたサマランチはスペイン・フランコ党の幹部だった。第二次大戦中、ベルリンから東京へと開催都市が決められたが(東京は中止)、これも偶然の出来事ではない。近年、特に言われるのが汚職まみれの体質と商業主義。こんな団体がスポーツと平和をいい、日本の政治家たちがそのまま口にしている。
松 国会の党首討論(6月9日)で菅首相が長々と、1964年東京五輪の思い出話を語ったが…。
竹 時間が限られた中で、あのような薄っぺらな話をするのがどうなのか、という問題はさておき、64五輪を「成功体験」として語るのは無理がある。64五輪の背景には当時の社会状況が大きく影響している。戦後すぐで高度経済成長の機運が満ちていた、人口構成がピラミッド型で生産力、消費市場の伸びが見込めた、それに合わせて高速道、新幹線、住宅団地が整備された…。当時はそうした社会条件があったが、高齢化社会の現在、それらは望めない。さらにパンデミックという負の条件がかぶさっている。ヘーシンクの美談を語っている時か、そんな首相はいらない、ということだ。
松 やめたらいいのに、とみんなが思っているが、決まってしまった路線は変えられない。どうやらかつての戦争と同じ道だ。せめて亡国的な「敗戦」を見ないですめばいいが。
沈没する日本丸~三酔人風流奇譚 [社会時評]
沈没する日本丸~三酔人風流奇譚
松太郎 コロナ対応をめぐる政府の迷走やら、東京オリンピック組織委員会会長の辞任劇やら、菅義偉首相の長男による接待問題やら…と、世相を斬るための素材が後を絶たず、このコーナーも追いつけない状況だ。まずはコロナ対応から。
竹次郎 この問題については3人の閣僚が対応している。まず、田村憲久厚労相。そして西村康稔経済再生担当相、これに河野太郎ワクチン接種担当相が加わった。官僚はいちいち、この問題は誰に相談するか、と悩んでいるという。船頭ばかり多くて船は前に進まない感じだ。
梅三郎 本来なら政府のスポークスマンである加藤勝信官房長官がすべて仕切って発信すべきだろう。しかし、そうなってはいないようだ。河野大臣が発信力はありそうだが、ワクチン輸入がうまくいってないこともあり発言がぶれている。
竹 ワクチンは、感染者数が世界最多の米国が囲い込みを図っており、EUも域外へは積極的に出さないようだ。間隙をついてロシア、中国が安価でばらまこうとしている。
松 まさしくワクチン外交が世界を席巻している。その中で日本はワクチン入手が困難な現状を嘆くばかりでのんきなものだ。
竹 このところロシア開発ワクチンが高評価で、EU加盟国も輸入を検討しているようだ。
松 ロシアはソ連時代の遺産があるから。かつて古井喜実厚相がポリオワクチンをソ連から緊急輸入する政治決断をしたことがあった。もう60年前の話だ。きな臭いことを言えば、ソ連は生物化学兵器研究の一環としてワクチン開発を考えていたのかもしれない。
梅 ワクチン開発は国の安全保障そのものだ。日本は感染症対策だけでなく食糧、エネルギー分野も安全保障問題としてとらえる意識は低い。例えば食糧自給率は、2018年度カロリーベースで37%。OECD加盟30カ国中27位で、人口1億人を超す国では最下位だ。石油に頼るエネルギー分野は今さらいうまでもない。ホルムズ海峡、マラッカ海峡を封鎖されれば日本経済の息の根は止まる。一時期、シーレーンが議論されたが、それよりエネルギー自給をどうするかを考えたほうがいい。再生可能エネルギーへの転換だ。
松 中国もロシアも安保問題には敏感だ。ロシアがクリミア半島を占領したり、中国が南沙諸島を実質占領したりする背景にもそれがある。ワクチンも、国の安全保障に直結すると考えるから開発に熱心に動く。一方で、なぜ日本はこれほど鈍感なのだろうか。
竹 米国一辺倒の外交をやっていればなんとかなる、と戦後一貫して思考停止してきたからではないか。ワクチン問題も、そのつけを払わされている。これをいい機会として米国一辺倒から離れるべきだが、できるかどうか。
松 いまミャンマーがクーデターによって揺らいでいるが、この国にも日本がどう対応するか問われている。米国はクーデター政権に反対の意思表示をしたが、日本も追随するのか。かといってタイやカンボジアなど周辺国は中国を向いている。その中国は、今のところミャンマーに対して静観の構えで、事実上クーデター政権を追認している。日本の対応はとても難しい。
政治ムラの原風景
松 ワクチンの話から少しずれてしまったようだ。オリンピック組織委員会の森喜朗会長辞任劇について。
竹 なんだか数十年前の政治ムラの原風景を見ているようだった。金丸信とかが暗躍していた時代がまだ続いているのかと思った。
梅 森批判が高まったとき、功績もあったとする声があったが首をかしげざるを得ない。密室の談合、根回しという永田町の古い手法でやってきただけではないのか。もっと他のやり方はあったように思う。
松 後継として、いったんは川淵三郎元Jリーグチェアマンにお鉢が回ったが、おそらく官邸から横やりが入って橋本聖子五輪担当相に決まった。組織委が候補者検討委員会を立ち上げ一本化したが、結局、検討委のメンバー8人も正式に発表はなく、どういう議論で選ばれたのかも明らかになっていない。やっぱり永田ムラで繰り広げられた光景が続いている。
竹 そういう経緯で決まった橋本組織委員会の会長~本当はこの言い方も変えたほうがいいのだが。委員長でいいのでは。おそらく森氏の意思が入って会長となったのだろう~に期待はできるのか。
梅 橋本氏がスポーツ選手以上のものをこれまで出してきたかというと、そんなことはないので、やっぱり森氏のパペット以上にはならないのでは。
松 そもそもを言いだすときりがないが、コロナ禍の現状ということを差し引いても、今オリンピックを東京で開く意味はあるのか。1964年の東京五輪は、絶妙のタイミングだった。52年に独立を果たし、56年に経済白書で「戦後は終わった」とうたい、60年安保で良し悪しは別として国の針路が決まった。そんな時にオリンピックがあり、選手村の建設技術が各地の住宅団地建設に生かされ、新幹線や自動車道の社会インフラが整備された。高度経済成長の推進エンジンが東京五輪だった。コロナ禍で国民が疲弊しているいま、それほどの意味が五輪にあるのだろうか。莫大な借金だけが後世に残るのではないか。
梅 島根の丸山達也知事が聖火リレーに異議を唱えたのも、そうした思いが底流にあるのでは。
庶民の常識からかけ離れて
竹 菅義偉首相の長男、正剛氏が勤める東北新社が総務省幹部に接待攻勢を仕掛け、国会で問題になっている。
梅 今の官僚はここまで腐っているのか、と思わされる事例だ。放送行政の元締めが放送事業の一会社の接待を受けてはいくら何でもアウトだろう。
竹 野党に追及されて総務省の官僚は「利害関係者とは思わず」と答えている。何とも白々しい。一方で首相は「長男とは別人格」と答弁、失笑を買った。
梅 当時はまだ首相ではなかったが、総務相から官房長官になった政治家の長男から声がかかれば、断りにくいだろう。一方で東北新社側も、そのことを織り込んで接待攻勢をかけている。双方に下心があるのは見え見えだ。
松 菅首相は総務相時代に放送法を使ってNHK、民放を締め上げた。方針に沿わない官僚は問答無用で左遷したという。ふるさと納税も菅総務相のアイデアだが、受益者負担の原則からすれば外れている。そのことを直言した官僚も直ちに外された。いま接待疑惑を問われているのは、山田真貴子内閣広報官(元総務官僚)も含め、菅総務相によって外されなかった人たちだ。その人たちは、菅氏の長男から声がかかれば出かけていった。「ちょっとそれは…」といえなかったのだろう。
松 もう20年以上前になるが大蔵省接待事件というのがあった。官官接待というやつだ。なんだかそれを思い起こさせる。
竹 常識で考えれば分かりそうなものを、官僚としての矩はその常識とは別のところにある、と考え違いをした人たちがはまる落とし穴がある。これまで多くの官僚がはまったが、今回もだ。
松 日本という船、前に進んでいるとは思えない。ゆっくりとだが沈没しかかっているのではないか。
梅 米国ではトランプ政権からバイデン政権へ移行し、あらゆる政策が180度転換されようとしている。民主主義体制下では、どの政権が100%正しく、どの政権が100%間違っているとは判断しにくい。もっとも、トランプは例外的に100%ダメな政権かもしれないが。言いたいことは一定の幅の中のブレこそが民主主義の正統性を保証するのではないか、ということ。日本に置き換えて言えば安倍、菅と続いた自民党政権も長期化ゆえの腐敗やほころびが目立ってきた。不満や不安があるにせよ、ここらで政権交代をしてみてもいいのではないか。今はそのことによるデメリットよりメリットが明らかに大きいと思える。
松 一度、政治状況を刷新して正すべきは正す、それもいい。
どこへ行きつく「アメとムチ」…~三酔人風流奇譚 [社会時評]
どこへ行きつく「アメとムチ」…~三酔人風流奇譚
公共空間へのリスペクトがない
松太郎 菅義偉政権がスタートして1カ月余り。いろいろあったが、どうとらえたらいいか。その前に一つ言いたいのは、前回の座談会で安倍晋三の「大きな政治」に対して菅の「小さな政治」という評価をしたが、間違っていた。学術会議の任命拒否に関する問題で顕著だが、高圧的な姿勢が目立つ。官房長官会見での木で鼻をくくったような対応ぶりはさすがに政権トップになれば変わるだろう、と思ったら、相変わらずの高圧ぶりで一切説明がない。前回、例に出した池田勇人政権の「小さな政治」は「低姿勢」とセットで、岸信介政権下、安保改定を強行した際の国民の分断を修復しようとの努力が見られた。今回も、安倍政権で深まった亀裂を修復すべく低姿勢で臨むのでは、と思ったが眼鏡違いだった。
竹次郎 その辺は同感だ。学術会議問題が菅政権を特徴づけるものとなった。権力を行使する際の乱暴さが目につく。学術会議の在り方を変えたいならその旨国会で議論すればいい。緊急課題でもないこの問題、なぜこれほど荒っぽく処理したのだろうか。
梅三郎 学術会議の問題は既にいろんな見方、考え方が出ており、新しい視点での意見を出しにくいが、一つ痛切に思うのは、菅政権には公共空間への意識、リスペクトがあるべきだが、それがないように思う。政治的空間では目先のことを課題とし、私的な利益が尊重される。いわばエゴとエゴがぶつかり合う私的な空間で、その限りで権力が発生するが、もっと大きな、時間的にも長いスパンを見通す空間があっていい。それが公共空間であり、そこへのアプローチの一つとして学問がある。そこを考えたら、今回の政権の対応に対する学識者や多くのメディアの批判は当然だ。
松 いまだに疑問なのは、菅政権はこの問題がこれほど議論を呼ぶと思って下した判断だろうか。言い換えれば確信犯として問題に対応したのだろうか。
竹 これほどの反発、批判を覚悟してのことではないのではないか。NHKをはじめメディアに対して行ったように、最初にガツンとやれば相手がひるむという成功体験に基づいてのことだろう。
強権政治が神話を形成する
梅 菅政権のこの1カ月は、冷徹な権力行使の一方で国民受けしそうな政策を次々と出してくる、いわゆるアメとムチが色濃く出ている。
松 菅政権の現状を見ていて一冊の本が頭に浮かんだ。戦時中、「日本のヒムラー」と恐れられた鈴木庫三を取り上げた佐藤卓己の「言論統制」(中公新書)。言論界ににらみを利かせたというこの将校について詳細に検討してみると、実は「ヒムラー」像は被害者の仮面をかぶるため言論界自体が作りあげたもので、鈴木自体は暴力的でもないインテリだったという。菅と、この鈴木という将校が同じとは思わないが、学術会議問題で見られるように、権力を行使するが説明はしない、という菅のやり方は、必然的に周囲を恐れさせ、一つの「神話」を形成する。
梅 ユダヤ人虐殺の執行人だったアイヒマンの裁判を傍聴したハンナ・アーレントが、アイヒマンをただの小役人と喝破したことと似ている。権力は神話によってつくられる。
竹 官邸が人事権を握り霞が関を震え上がらせたように、今度はアカデミズムの世界を操作しようとしているのか。
梅 まあ、でもそんなにうまくいくかねえ。官僚は基本、上ばかり見ているヒラメ人間だが、学者は必ずしもそうとは言えない。でも、メディアの世界もこの方法でうまく行ったからねえ。
松 学者の中にも、菅方式に反発するものもいればお追従をいう輩もいるだろう。巧妙に分断してアカデミズムを強権的に従わせ、一方で国民にはアメを与える。ふるさと納税という名の住民税引き下げ、そしてこれから行われる携帯料金引き下げ。ハンコをなくす、というのは本来どうでもいいことだが、ハンコという人的コスト、つまり手間をなくすという効果がある。
ドラスチックな転換が必要なとき
竹 菅はバスの運転手としてはとても優れている、しかし、バスの行き先が見えない。こんなことを田中秀征が毎日新聞で論評していた。
松 菅を政治家として評価する、もちろん保守政治家としてだが、そういう向きは多い。でも、菅という政治家は思想というものの持ち合わせがあるのだろうか。とても疑問だ。安倍は「戦後レジームからの脱却」をうたっていたので、戦争法など一連の行為はわからないでもない。もちろんこれは良しとして言っているわけではないが。これに対して、菅という政治家は「戦後」に対してどう向き合うかさえも分からない。そんな中で、戦争への反省から生まれた学術会議に強引に手を突っ込むというのは、とても不気味だ。
梅 小泉純一郎、安倍、菅と続く自民党政治、間に短期の政権がいくつか挟まっているが、これがどんどん細って硬直化していく気がする。今の日本が抱えるいくつかの課題、例えば少子化、沖縄、原発、いずれも日本社会の構造的な問題だ。少し視野を広げれば対米一辺倒の外交、歴史認識の問題を克服できない対中、対韓関係、そして安保体制。いずれもドラスチックな見直しを図る必要があるのに、現政権で取り組むとは思えない。
竹 この文脈でいえば、菅首相が盛んに口にする「自助・共助・公助」も気になる。どんな社会を目指すのかも示さずに、いきなり「まず自助を」という。「自助・共助・公助」自体、特に意味ある言葉ではないという向きもあるが、そうは思えない。一国の首相、「公助」に最も責任のある地位の人間が言えば、公助の前に自助を、と自助の部分が強調されてしまう。そこは、町内会長あたりが言うのとは違う。
梅 政治が目先のことに集中するばかりで、過ちを修復する瞬発力が失われている。その意味では、党内に五つか六つの有力派閥があり、窮地に陥れば主流から反主流へと権力が移行するかつての自民党の方が修復力はあったように思う。もっとも、派閥政治とか政治とカネとか批判もされたが。今の官邸独裁とどちらがいいのだろう。
松 多様性と復元力こそ民主主義という樹の幹部分。そこがどんどん細っていき、一元性と硬直化が幅を利かす。政治の現状かもしれないね。
大きな政治から小さな政治へ…~三酔人風流奇譚 [社会時評]
大きな政治から小さな政治へ…~三酔人風流奇譚
奇妙な真空状態
松太郎 7年8カ月続いた安倍晋三政権が閉幕、菅義偉政権が誕生して10日たつ。この政治状況をどう見るか。
竹次郎 菅首相は国会で施政方針演説もしていないし全体像が見えない。評価のしようがない。そんな中で次々と新しい施策を打ち出し、やってる感は出している。
梅三郎 「やってる感」は安倍政権の得意技で、そこは継承しているようだ。
松 安倍政権は「美しい国へ」をキャッチフレーズに戦後レジームからの脱却を唱えて危険なナショナリズムのにおいを振りまき、それが逆風にもなり順風にもなった。いまのところ菅政権は無味無臭で、そこは違う。
竹 各メディアの世論調査をみると、菅政権は軒並み支持率が60%を超している。中には70%を超すものもある。それに比べて不支持率が低い。
梅 安倍政権の特徴は、強固な不支持層が存在し、一方で「ほかに選択肢がない」といった消極的支持が多数存在した。その結果が40~50%の支持というかたちになっていた。それにしても、退陣が決まってからの安倍政権支持60%は理解しがたい。
松 永年政権を担当してご苦労さん、といったことだろう。日本人はこういう場合、優しいから。
梅 その結果、菅政権では踊り場的というか奇妙な真空状態が生まれている。
ナンバー2の美学
竹 政治に限らず、世間には「ナンバー2の哲学」「ナンバー2の美学」というのがある。思い起こされるのは中曽根康弘首相と後藤田正晴官房長官の関係。後藤田長官は史上最も評価の高い官房長官と思うが、では後藤田首相はありえたかというと、それはなかった。伊東正義は首相を打診され、表紙を変えても中身が変わらないと意味がない、と断ったという【注1】。表紙が変わればおのずと中身も変わるというのが政権のトップたるものだと思うが、言葉を変えれば、この時の伊東は自身、官房長官としてナンバー2ではあってもナンバー1に立つ人間ではないと思っていたのでは。
梅 まあ、この時は糖尿病に悩んでいたから、という説もある。
松 ナンバー2の美学といえば、中国の周恩来首相。毛沢東主席に仕えたが逆はありえなかった。
竹 こうした歴史を振り返ってみて、菅はナンバー2としてのおさまりはよかったがナンバー1としてはどうなのだろう。
松 既に言われているが、安倍政治の継承を言いながら安倍のような国家観は見えない。
岸→池田に似る
竹 安倍政治の総括はこれから行われるが、ナショナリズムとか国家とかのありようを掲げ、そこから防衛、教育、経済の大枠に手を突っ込んだ。特に経済は巨額の国費をつぎ込み、大企業を潤し、雇用環境の一定の改善をもたらした。一方で経済格差は拡大した。外交はナショナリストの側面が災いし、中韓との関係は悪化した。梅 その辺の見方が最大公約数だと思うが、安倍政治の継承をいう菅政権は、特に安倍政治の負の部分、これをどう総括していくかが問われる。
竹 ところが、現時点の菅政権はそうした点をスルーし、スマホ料金の値下げとかハンコ廃止とか、目先の得点を稼いで政権を浮揚させようとしているように見える。
松 安倍政治が「大きな政治」を目指したとすれば、菅政権は「小さな政治」を打ち出している。60年安保の後、国論を二分した安保改定を強行した岸信介首相が退陣、池田勇人首相が跡を継いだ時に似ている。池田は所得倍増と低姿勢を訴え支持率回復に努めた。「大きな政治」から「小さな政治」だった。
竹 菅という政治家は権力の冷酷な使い手とみられている反面、「ふるさと納税」や「スマホ値下げ」「ハンコ廃止」といった国民に分かりやすい政策を打ち出す。いわばアメとムチ。
松 「ふるさと納税」は受益者負担という税制の基本からすればおかしい。その点を批判した総務省の幹部を左遷したことはよく知られている。一つの政策がアメとムチの両面を持っていた事例だ。
梅 沖縄・辺野古基地建設をめぐる対応でも、権力者としての冷酷ぶりが出ている。この辺はもう少し情のある対応があってもいいのでは。
竹 安保法制などの「大きな政治」に辟易していた国民世論は、目先の利得を提示する菅政権に高評価を与えている。それが先ほどの高支持率に結び付いた。
「菅」という政治家
松 頂点に立つと思われていなかったせいか、菅という政治家の評伝はあまりない。読んだのは「影の権力者 内閣官房長官菅義偉」【注2】だけだが、最近再読した。世間で流布する、父親が満州からの帰還者→秋田の豪雪地帯の農家の生まれ→貧しさ故の集団就職→底辺から政治の頂点へ、という説を確かめたかったからだ。父親は確かに満洲に渡ったが、いわゆる満蒙開拓団ではなく満鉄勤務だった。自宅に家政婦を置くほどで、決して貧しい生活ではなかったようだ。帰国後はイチゴ栽培に成功、生産者組合を立ち上げ組合長についた。さらに町議を4期、副議長も務めた。貧農というより地域の名士といったほうがふさわしい。菅が上京したのは高校を出てからで「金の卵」と呼ばれた中卒の集団就職とは違う。そこから見えてくるのは、家業を継げばそれなりの生活ができたはずなのに、一旗あげたいとの気持ちから親の反対を振り切って上京した若者の姿。それ自体は当時よくあった光景で否定も肯定もする必要がないが、ただ、こうした菅の軌跡がどこかで脚色され、成功物語に仕立てられているという気がする。
竹 この本は読んだが、著者は岩手の出身で小沢一郎に関心があり、菅と小沢の比較論という構成にもなっている。当然、小沢を育てた田中角栄にも触れており、3人の評価が興味深い。菅が徒手空拳で政治の世界に飛び込んだのはおそらくその通りで、生まれた時から「大臣の子」だった小沢とは違った。境遇において菅はむしろ田中に近いが、田中ほど壮絶な貧困は体験していない。
梅 菅は「政局」と呼ばれる舞台で荒業を使ったことが2度ある。一度は梶山静六が派を出て総裁選に出馬した時【注3】。菅も行動を共にし、梶山の支持に回った。もう一度はいわゆる加藤の乱【注4】の時。特に梶山は、菅自身が「政治の師」と仰ぐほどだった。今回の菅の総裁選出馬のいきさつをみると、かつての梶山の動きに似ている。
竹 梶山が敗因を語るとき「梶山には梶山がいなかった」【注5】といったとされるが、今日「菅に菅がいない」といわれるところも似ている。実は梶山の時も加藤の乱の時も、敵対したのは野中広務だったが、野中と菅の方が地方議員上がりという軌跡といい、権力の妙味を知っている点といい、似ている。
梅 しかし、沖縄米軍用地特別措置法改正案上程の衆院本会議で野中が特別委員長として行った演説【注6】は、菅はできないだろう。野中にも梶山にも、自らの戦争体験に基づく「戦争はしてはならない」という深い思いがあるが、菅には感じられない。
松 その辺が、目前の政策ではない大きな次元の国家観、平和観なりを感じさせないところだろう。
【注1】1989年、竹下登首相の後継に推された際の言葉。
【注2】松田賢弥著、講談社+α文庫、2016年
【注3】1998年、橋本龍太郎政権の退陣を受けて行われた。梶山のほか小渕恵三、小泉純一郎が立ち、小渕総裁が誕生した。
【注4】2000年、野党が森喜朗政権に不信任案提出の動きを受け、加藤紘一、山崎拓が同調し倒閣を企てたが、最終的に腰砕けになった。5人組の密儀によって誕生した森政権の出自に疑義を唱えたものだった。
【注5】「死に顔に笑みをたたえて」553P(田崎史郎著、講談社、2004年)
【注6】1997年。「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」