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「国葬儀」大騒ぎはしたけれど…~三酔人風流奇譚 [社会時評]

「国葬儀」大騒ぎはしたけれど…~三酔人風流奇譚


菅元首相の「弔辞」
松太郎 安倍晋三元首相の「国葬儀」が927日、行われた。78日に襲撃事件があり14日に岸田文雄首相が実施表明。珍しく即断即決だった。これが裏目に出て国論を二分する議論があったが噛み合わず、当日も賛成、反対両派が国会議事堂前などで気勢をあげた。
竹次郎 葬儀の形式の是非は後に回すとして、安倍政権で官房長官を務めた菅義偉元首相の弔辞が話題になった。これをどう見るか。
梅三郎 ポイントはいくつかあった。一つは、季節の移り変わりに託した安倍氏への「思い」。一つは、政治家としての評価。最後に、伊藤博文に先立たれた山県有朋の心情を引いたこと。一般的な葬儀ならありかな、と思うが、国が主催する儀式としては疑問がある。
松 引っ掛かったのは、安倍氏に対して「命を失ってはならない人」と述べたこと。裏返せば、世の中には命を失ってもいい人とそうでない人がいるように聞こえる。安倍という政治家が、常に「こちら側」と「向こう側」という分断的手法をとってきただけに、なおさらそう思う。
竹 「あなたという人がいないのに、時は過ぎる」なんて、日本的無常観というより気持ち悪さが先に立つ。
梅 特定秘密保護法や平和安全法制などを強行成立させたことで世論に深い分断を招いたが、そのことを「あなたの判断はいつも正しかった」と言い切ってしまう。もともとそういう儀式だったわけだが、やっぱり「ああ、やってよかったな」とは思えない。
松 あの日以来、岡義武の「山県有朋」が売れているそうだが…。
竹 世論の浅薄さが見えていやな気分だ。山県も伊藤も安倍氏と同じ山口県出身で、特に山県は維新以降の藩閥政治と、その結果としての政党政治の軽視の元凶だった。石橋湛山は「(山県の)死もまた社会奉仕」と書き、佐高信が「さすがに私もそこまでは」といったというエピソードもある。そのあたり冷静に見るべきで、一時の心情に流されないことだ。

「独裁性」と国民不在の儀式
梅 菅氏の「思い入れ」に対して岸田首相の「無色透明」「無味乾燥」ぶりが批判の的になったが、これまでの議論を見ると、むしろそうした内容こそ今回の儀式にはふさわしかった、とも思えるが…。
松 そうした視点はあるかも。テレ朝「モーニングショー」で玉川徹コメンテーターが「菅氏の弔辞には電通の演出が入っている」と述べ翌日訂正したが、そういいたくもなる。
松 玉川発言は確かに暴走気味だったが、「訂正すれば済むのか」といった強硬意見もある。一方で安倍氏を「国賊」と語った自民党議員に「離党すべきだ」という党内意見もある。こうした強硬論の台頭こそ薄気味悪さを感じる。「モノ言えば唇寒し」の時代が来ないことを祈りたい。
竹 安倍-菅ラインの政権は「官邸一強」と言われた。皮肉なことだが、菅氏の弔辞は、半径2、3㍍の中の人間関係では最強であり、そこから外側に向かっての防護壁もまた最強であると、言い換えれば独裁性のよって来るところを見せつけたように私には思えた。
梅 なるほど。官房長官時代の菅氏は最強の門番だった。
松 岸田首相は「国葬」でなく「国葬儀」だと、最後まで言っていた。あれは何だったのか。
竹 930日付朝刊に二つの寄稿が載った。一つは橋爪大三郎さんの(朝日)、もう一つは大沢真幸さんの(中国、おそらく共同配信)。二人とも社会学者だ。橋爪さんは「国葬」でなく「国葬儀」(=国葬まがい:asa注)だという論旨で民意と三権の長の合意を欠いている、とした。大沢さんは世論の深刻な分裂ぶりに焦点を当て、今回の儀式が日本人にとっての単一の主体を立ち上げることに成功しなかったため時間とともに忘れ去られるだろう、とした。二人とも入り口は違うが出口ではほぼ一致している。行われた儀式では、単一のアイデンティティー形成はおろか、共通のプラットフォームさえ見出すことはできなかったからだ。大沢さんは賛成、反対両派がそれぞれ相手の意見に驚きを持っており「最小の橋が架かっていない深い溝がある」と述べている。橋爪さんは「国民が敬意と感謝を表すのにふさわしい葬送儀礼を練り上げておこう。そうすれば(吉田茂元首相、安倍氏の:asa注)二度の国葬儀は国葬でなかったことがはっきりする」と、逆説的な表現で国葬に値する国民合意などどこにもなかった、と言っている。

英国葬と日本のメディア
松 エリザベス英女王が9月8日に亡くなり、19日にロンドンで国葬があった。米国では24時間中継をするチャンネルもあり世界的に関心が高かったが、安倍氏の国葬は反対派の動きも含めて短時間触れられただけだった。儀式の在り方と反響は日英でずいぶん違っていた。
竹 女王即位は第二次大戦の直後。以来70年間王位にあった。第二次大戦までは英国は帝国主義と植民地の国であり、結果として「七つの海を支配する」海軍を持った。戦後、植民地は放棄したものの15の国の元首としての地位にあった。植民地政策は搾取が基本だから、血なまぐさいエピソードもある。「脱帝国主義」「ポスト植民地」の時代をどう切り開くかが使命だった。世界史的な位置づけをしないと女王の死と国葬の意味は語れないはずだが、そうした視点を提供したメディアはほとんどなかった。見聞の限りでは、925日放映のTBS「サンデーモーニング」がわずかに触れた。
梅 確かに、英国葬はイングランド国教会が式を司り、日本の無宗教方式とはかなり違った。そうした雰囲気だけを取り上げて感心するのはミーハー的視点と言わざるを得ない。今からでも遅くはない、日本のメディアは世界史的な見地に立った補足意見を掲載すべきでは。そうしないと、英連邦の一角でもない国の新聞が女王の死や国葬を一面で報じた意味が分からない。

日本の「国葬儀」は記憶されるのか
松 もう一度日本の「国葬儀」に戻る。あの儀式が国民的な記憶として残るだろうか。
竹 残念ながら国民的な記憶としては残らないだろう。間違いなく国民の間に深い溝があることを示したが、それは大沢さんが言うように今日の政治制度に容易に反映されるものではないのではないか。儀式の是非論よりもっと深いところに不可視の国民的断層があるように思える。そのことへの指摘は重い。
梅 その通りだと思う。その断層を誰がどうやって掘り下げるかだ。


 


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BUN

英国が植民地にしていた多くの国や地域、その惨状に思いをいたさず、テレビは英国の国葬に素晴らしいの連呼。日本が戦争を終えるまでは、日本以外ほとんどのアジア諸国はヨーロッパの植民地だった。
管さんの弔辞は、愛してるの連呼だったわけだけど、拍手は流石に引いた。普通葬儀で拍手する?
by BUN (2022-10-02 00:33) 

asa

BUNさん
珍しく意見があったようです。
by asa (2022-10-02 15:40) 

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