大きな政治から小さな政治へ…~三酔人風流奇譚 [社会時評]
大きな政治から小さな政治へ…~三酔人風流奇譚
奇妙な真空状態
松太郎 7年8カ月続いた安倍晋三政権が閉幕、菅義偉政権が誕生して10日たつ。この政治状況をどう見るか。
竹次郎 菅首相は国会で施政方針演説もしていないし全体像が見えない。評価のしようがない。そんな中で次々と新しい施策を打ち出し、やってる感は出している。
梅三郎 「やってる感」は安倍政権の得意技で、そこは継承しているようだ。
松 安倍政権は「美しい国へ」をキャッチフレーズに戦後レジームからの脱却を唱えて危険なナショナリズムのにおいを振りまき、それが逆風にもなり順風にもなった。いまのところ菅政権は無味無臭で、そこは違う。
竹 各メディアの世論調査をみると、菅政権は軒並み支持率が60%を超している。中には70%を超すものもある。それに比べて不支持率が低い。
梅 安倍政権の特徴は、強固な不支持層が存在し、一方で「ほかに選択肢がない」といった消極的支持が多数存在した。その結果が40~50%の支持というかたちになっていた。それにしても、退陣が決まってからの安倍政権支持60%は理解しがたい。
松 永年政権を担当してご苦労さん、といったことだろう。日本人はこういう場合、優しいから。
梅 その結果、菅政権では踊り場的というか奇妙な真空状態が生まれている。
ナンバー2の美学
竹 政治に限らず、世間には「ナンバー2の哲学」「ナンバー2の美学」というのがある。思い起こされるのは中曽根康弘首相と後藤田正晴官房長官の関係。後藤田長官は史上最も評価の高い官房長官と思うが、では後藤田首相はありえたかというと、それはなかった。伊東正義は首相を打診され、表紙を変えても中身が変わらないと意味がない、と断ったという【注1】。表紙が変わればおのずと中身も変わるというのが政権のトップたるものだと思うが、言葉を変えれば、この時の伊東は自身、官房長官としてナンバー2ではあってもナンバー1に立つ人間ではないと思っていたのでは。
梅 まあ、この時は糖尿病に悩んでいたから、という説もある。
松 ナンバー2の美学といえば、中国の周恩来首相。毛沢東主席に仕えたが逆はありえなかった。
竹 こうした歴史を振り返ってみて、菅はナンバー2としてのおさまりはよかったがナンバー1としてはどうなのだろう。
松 既に言われているが、安倍政治の継承を言いながら安倍のような国家観は見えない。
岸→池田に似る
竹 安倍政治の総括はこれから行われるが、ナショナリズムとか国家とかのありようを掲げ、そこから防衛、教育、経済の大枠に手を突っ込んだ。特に経済は巨額の国費をつぎ込み、大企業を潤し、雇用環境の一定の改善をもたらした。一方で経済格差は拡大した。外交はナショナリストの側面が災いし、中韓との関係は悪化した。梅 その辺の見方が最大公約数だと思うが、安倍政治の継承をいう菅政権は、特に安倍政治の負の部分、これをどう総括していくかが問われる。
竹 ところが、現時点の菅政権はそうした点をスルーし、スマホ料金の値下げとかハンコ廃止とか、目先の得点を稼いで政権を浮揚させようとしているように見える。
松 安倍政治が「大きな政治」を目指したとすれば、菅政権は「小さな政治」を打ち出している。60年安保の後、国論を二分した安保改定を強行した岸信介首相が退陣、池田勇人首相が跡を継いだ時に似ている。池田は所得倍増と低姿勢を訴え支持率回復に努めた。「大きな政治」から「小さな政治」だった。
竹 菅という政治家は権力の冷酷な使い手とみられている反面、「ふるさと納税」や「スマホ値下げ」「ハンコ廃止」といった国民に分かりやすい政策を打ち出す。いわばアメとムチ。
松 「ふるさと納税」は受益者負担という税制の基本からすればおかしい。その点を批判した総務省の幹部を左遷したことはよく知られている。一つの政策がアメとムチの両面を持っていた事例だ。
梅 沖縄・辺野古基地建設をめぐる対応でも、権力者としての冷酷ぶりが出ている。この辺はもう少し情のある対応があってもいいのでは。
竹 安保法制などの「大きな政治」に辟易していた国民世論は、目先の利得を提示する菅政権に高評価を与えている。それが先ほどの高支持率に結び付いた。
「菅」という政治家
松 頂点に立つと思われていなかったせいか、菅という政治家の評伝はあまりない。読んだのは「影の権力者 内閣官房長官菅義偉」【注2】だけだが、最近再読した。世間で流布する、父親が満州からの帰還者→秋田の豪雪地帯の農家の生まれ→貧しさ故の集団就職→底辺から政治の頂点へ、という説を確かめたかったからだ。父親は確かに満洲に渡ったが、いわゆる満蒙開拓団ではなく満鉄勤務だった。自宅に家政婦を置くほどで、決して貧しい生活ではなかったようだ。帰国後はイチゴ栽培に成功、生産者組合を立ち上げ組合長についた。さらに町議を4期、副議長も務めた。貧農というより地域の名士といったほうがふさわしい。菅が上京したのは高校を出てからで「金の卵」と呼ばれた中卒の集団就職とは違う。そこから見えてくるのは、家業を継げばそれなりの生活ができたはずなのに、一旗あげたいとの気持ちから親の反対を振り切って上京した若者の姿。それ自体は当時よくあった光景で否定も肯定もする必要がないが、ただ、こうした菅の軌跡がどこかで脚色され、成功物語に仕立てられているという気がする。
竹 この本は読んだが、著者は岩手の出身で小沢一郎に関心があり、菅と小沢の比較論という構成にもなっている。当然、小沢を育てた田中角栄にも触れており、3人の評価が興味深い。菅が徒手空拳で政治の世界に飛び込んだのはおそらくその通りで、生まれた時から「大臣の子」だった小沢とは違った。境遇において菅はむしろ田中に近いが、田中ほど壮絶な貧困は体験していない。
梅 菅は「政局」と呼ばれる舞台で荒業を使ったことが2度ある。一度は梶山静六が派を出て総裁選に出馬した時【注3】。菅も行動を共にし、梶山の支持に回った。もう一度はいわゆる加藤の乱【注4】の時。特に梶山は、菅自身が「政治の師」と仰ぐほどだった。今回の菅の総裁選出馬のいきさつをみると、かつての梶山の動きに似ている。
竹 梶山が敗因を語るとき「梶山には梶山がいなかった」【注5】といったとされるが、今日「菅に菅がいない」といわれるところも似ている。実は梶山の時も加藤の乱の時も、敵対したのは野中広務だったが、野中と菅の方が地方議員上がりという軌跡といい、権力の妙味を知っている点といい、似ている。
梅 しかし、沖縄米軍用地特別措置法改正案上程の衆院本会議で野中が特別委員長として行った演説【注6】は、菅はできないだろう。野中にも梶山にも、自らの戦争体験に基づく「戦争はしてはならない」という深い思いがあるが、菅には感じられない。
松 その辺が、目前の政策ではない大きな次元の国家観、平和観なりを感じさせないところだろう。
【注1】1989年、竹下登首相の後継に推された際の言葉。
【注2】松田賢弥著、講談社+α文庫、2016年
【注3】1998年、橋本龍太郎政権の退陣を受けて行われた。梶山のほか小渕恵三、小泉純一郎が立ち、小渕総裁が誕生した。
【注4】2000年、野党が森喜朗政権に不信任案提出の動きを受け、加藤紘一、山崎拓が同調し倒閣を企てたが、最終的に腰砕けになった。5人組の密儀によって誕生した森政権の出自に疑義を唱えたものだった。
【注5】「死に顔に笑みをたたえて」553P(田崎史郎著、講談社、2004年)
【注6】1997年。「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」
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