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知は地下茎を持つ竹林~濫読日記 [濫読日記]

知は地下茎を持つ竹林~濫読日記


「評伝 立花隆 遥かなる知の旅へ」(高澤秀次著)


 2021年4月に亡くなった一人のジャーナリストを、メディアはさまざまに形容した。中でも多かったのは「知の巨人」だった。確かに、専門知の境界を軽々と飛び越え多くの著作をものにした。しかし、少し違うような気もした。スタティスチック(静的)過ぎるのだ。80歳で亡くなるまで、おそらく立ち止まることをしなかった立花にふさわしい衣装とは言えないのではないか。そんな思いを抱いた。

 高澤秀次も同じ思いだったらしく「評伝 立花隆」の表紙に「知の巨人」は見当たらず「遥かなる知の旅へ」「不世出の万能知識人(ゼネラリスト)」とある。この辺りの事情を「あとがき」で以下のように語る。

 

――卓越した知的フットワークの持ち主である彼(立花:asa注)に、「巨人」というレッテルを押し付けるのは、いかにもその有機的、動態的な知性の運動を静止させることでしかない。「知の巨人」である以前に、彼は大いなる旅の人であった。

 

 立花の「知の旅」のすべてをカバーしたとはとても言えないが、私は「田中角栄研究」で正面衝突のように出会い「宇宙からの帰還」で宗教と文明の境界線を哲学し「脳死」をめぐる何冊かで「人間にとって死とは何か」を考えた。「田中角栄研究」はその後「田中真紀子研究」につながり、ロッキード裁判傍聴記や「同時代ノート」を生んだ。しかし、これだけのわずかな接点を見返しても、それぞれのテーマがどうつながるのか、一言では説明がつかない。立花が「知の旅人」であればこその軌跡なのだ。

 

 立花はある講演で、こうした「知的営み」の在り方を地下茎でつながった竹林に例えた(122P)。竹一本一本は一見自立しているようだが実は地下茎を通して一つの「植物」である。「知」も、この地下茎がなければ限りなく細分化されるという。このことを前提に著作を見ると、構成に込めた著者・高澤の思いも伝わる。香月泰男、宇宙、臨死、脳死、田中角栄といった「竹」とともに、「科学する頭脳」「情報のインプットとアウトプット」「アナログからデジタル」といった「地下茎」が張り巡らされている。

 「リベラル・アーツ」をめぐる立花の考察も興味深い。彼が分け入った分野を見ると、特徴の第一は文科系・理科系の区別がないことだ。分子生物学の論文を英語で読みノーベル賞学者にインタビューする。「宇宙からの帰還」も、科学と哲学を行き来してこそ成り立つ。航空宇宙工学の糸川英夫は「田中角栄研究」について「方法論はサイエンスの方法論と同じだ」と指摘した(141P)。政治とカネという最も俗なる分野にサイエンスのメス。宇宙と田中政治を同時に論じる立花の頭脳は、聖と俗の境界線をも軽々と飛び越えて見せる。

 

 「万能知識人」にも弱点はあった。二人の女性を巡って家庭には風雪が吹きすさんだ。詳しくは高澤の評伝に譲るが死後、取材ノートや生原稿の扱いをめぐって3人の息子(腹違い)が一致して全面廃棄を申し出、騒動になった。戦後を代表するジャーナリストの遺品である。社会的財産として残してほしいが、残されないとすれば、遺児に恨みを買った立花の禍根というほかない(163P)。このエピソードは「一つの家庭に表現者は二人いらない」と、妻・和子の俳人としての道を断った吉本隆明を想起させる。家庭に不幸を持ち込むのは「物書き」稼業の宿命であろうか。

 

 篠田一士の「ノンフィクションの言語」(1985年刊)で立花が取り上げられなかったことに、高澤は触れている。田中角栄との「闘い」が一区切りついたころ。沢木耕太郎、本田靖春、鎌田慧、石牟礼道子ら、フィクションとノンフィクションを巡って論じた中に立花は登場しない。高澤も「いかにも不自然」とする。ニュージャーナリズム全盛のころで、小説の手法でノンフィクションを書く作家が注目を浴びた。立花は権力の中枢に切り込むため、あるいは高度な知と向き合うため、武器としての文体を磨いた。そのために言語から立ち上る色香を切り捨てた。立花の仕事は、そうした逆説をも秘めていた。

 法制上かなわなかったが、立花は自らの遺体について、コンポストによる自然循環への帰還を望んだという。「葬式にも墓にも全く関心がありません」と生前語った、ドライな死生観が伝わる。

 作品社刊、2700円(税別)。

評伝 立花隆: 遥かなる知の旅へ

評伝 立花隆: 遥かなる知の旅へ

  • 作者: 高澤 秀次
  • 出版社/メーカー: 作品社
  • 発売日: 2023/11/14
  • メディア: 単行本

 


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二つの日常の残酷な対比~映画「関心領域」 [映画時評]

二つの日常の残酷な対比~映画「関心領域」


 10年ほど前になるが、アウシュビッツ強制収容所を訪れた際、ルドルフ・ヘス所長の邸宅を見た。瀟洒な白壁が印象的だった。驚いたのは、一日1万人ともいわれた遺体の焼却場と、わずか数百㍍しか離れていないことだった。焼却場の向かいにナチス将校専用レストランがあった。ヘスは焼却場の煙を見て暮らし、将校はワインと料理を楽しんでいたのだ。
 ハンナ・アーレントが「イェルサレムのアイヒマン」で明らかにしたように、法廷に立ったユダヤ人大量虐殺の指揮官は「命令に従っただけ」と主張する「凡庸な悪」に過ぎなかった(この日本版心理は丸山眞男著「軍国支配者の精神形態」でも触れている)。ヘスも、記録を読む限り常識的な教養人だったらしい。犯罪者としての自意識を持たず、600万人ともいわれる虐殺行為(ユダヤ人、ロマノ、心身障碍者)に手を染めたとすれば、これほど怖いことはない。
 この事実を、ヘスの邸宅の側から映像化したのが「関心領域」である。収容棟と壁一枚隔てて、ヘス(クリスティアン・フリーデル)と妻ヘートヴィヒ(サンドラ・ヒュラー)、5人の子が住む。庭には花が咲き乱れる。壁の向こうでは煙突から黒い煙が立ち上り、音響が悲鳴や泣き声を連想させる。二つの日常が流れる。しかし、交錯する瞬間がないわけではない。
 ヘスが川で釣りをしている。何かを拾い上げる。おそらく入れ歯だろう、ヘスは川べりの子供たちを陸に上げ、シャワーを浴びさせる。ユダヤ女性を部屋に入れたヘスはその後、おそらく自分の性器を洗っている(後ろからなので、はっきりと分からない。当時、ドイツ人とユダヤ人の性行為は禁じられていたはずだが…)。いずれも、日常に入りこんだ遺物を排除する動きに見える。
 全収容所の副検査官としてベルリン近くに転勤する話を妻に打ち明ける。昇進人事だが、妻は同行を拒む。「ここが私の生きる場所」と。ユダヤ人の生存を奪う場所が、自分の生きるべき場所、という。妻にとって、収容所と自宅に流れる時間は全く違っている。時に焼却炉の更新を電話で指示するヘスは、そうはならない。突然嘔吐するシーンが、そのことを明示する。やがて現代のアウシュビッツ博物館(ポーランド国立オシフィエンチム博物館=アウシュビッツ・ビルケナウ国立博物館)へと場面転換する。この問題はいまだ決着がついていないと暗示するように。
 人類史に残る犯罪行為を、音響と煙で暗示する。ヘスの家族の平穏な日常との残酷な対比。構成はシンプルだが、それだけに訴える力は強い。
 2023年、アメリカ・イギリス・ポーランド合作。監督ジョナサン・グレイザー。クリスティアン・フリーデルは「白いリボン」「ヒトラー暗殺、13分の誤算」、サンドラ・ヒュラーは「落下の解剖学」でおなじみ。

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見えてくる「傲慢なデンマーク」~映画「GOD LAND」 [映画時評]

見えてくる「傲慢なデンマーク」~映画「GOD LAND


 不思議な映画である。
 遠藤周作の原作をマーティン・スコセッシ監督が映画化した「沈黙 Silence」は17世紀、キリスト教弾圧が激しかった日本に潜入したイエズス会(カソリック)宣教師の苦悩を描いた。この「GOD LAND」も一見似た設定だが、展開されたドラマはまったく別物であった。
 まず時代設定。19世紀後半、デンマークから独立する前のアイスランドが舞台。スカンジナビア半島の西、白夜と火山の島。日本とは自然条件がかなり違う。16世紀にデンマークがルター派を強制導入したため、登場する宗教者は「牧師」と呼ばれ、プロテスタントと分かる。「沈黙」のような内省的な描写はほとんど出てこない。

 ルーカス(エリオット・クロセット・ホーヴ)は、司教(ワーゲ・サンド)からアイスランドの辺境に教会を建てるよう指示される。「沈黙」のような禁制の地ではないが過酷な地には違いなく、前半は探検ドキュメントのようなシーンが続く。ガイドのラグナル(イングヴァール・E・シーグルズソン)はデンマーク人が嫌いらしく無愛想で言葉も通じず(このことは、デンマーク人が傲慢である証でもある)、ルーカスは、ほうほうの体で目的地にたどり着く。
 村人の反応は複雑である。ルーカスの言動を、独善的で傲慢と受け取るカール(ヤコブ・ローマン)ら(彼の敷地内で教会建設が進む)の一方、彼の娘アンナ(ヴィクトリア・カルメン・ゾンネ)やイーダ(イーダ・メッキン・フリンスドッティル)のように、洗練された考え方の持ち主と憧憬を持つものも。ラグナルを含め、反発渦巻く中でルーカスの心は平衡を失っていく…。

 映画は、こうしたルーカスの心に寄り添うわけではなく、高みから見下ろしている。
 冒頭、興味深いスーパー。「デンマーク人牧師による写真が見つかった。アイスランド南東部を写した初めての写真である。これらの写真にインスパイアされてできた映画である」-。

 荒涼とした風景とは場違いに大きなカメラを担いで旅をする(時代からすると、幕末期に坂本龍馬らが収まったカメラとほぼ同型)。布教活動というより撮影旅行のようだ。このことも、ルーカスと村人の埋めがたい溝を表している。写真を撮ってほしいとガイドに懇願されたルーカスがにべもなく断るシーンがあるが、彼を巡る人間関係を象徴するエピソードだ。
 原野に放置されたルーカスの遺体は、やがて土に帰っていく。周りの自然はあくまでも美しい。人間のいさかいなど小さなものといわんばかりに悠久である。
 原題「Vanskabte Land」(デンマーク語?)はgoogleで「変形した土地」。邦題とはかけ離れている。エンドマークあたりで流れるデンマーク賛歌(強烈な違和感)を重ねると、アイスランドに対する当時のデンマークの傲慢、偏見、差別意識が見えてくる。これが、自己批判的に描きたかったことだろう。
 監督フリーヌル・パルマソン。2022年、デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作。

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矜持に生きる男~映画「碁盤斬り」 [映画時評]

矜持に生きる男~映画「碁盤斬り」

 

 大人たちがどんどん優しく、物分かりよくなっている。なぜか。原因の一つに「〇〇ハラスメント」なる警句への過剰反応があるように思える。結果、世の中は無色透明、ホワイト化した。一方で仕事に矜持や誇りを持って取り組もうという輩は口を閉ざし、若者にサービス業並みの対応をする利口な輩が大きな顔をする。

 こうした風潮と真逆の男が登場する「碁盤斬り」。武威の誉れ高い彦根藩士・柳田格之進(草彅剛)は、藩主の掛け軸がなくなった事件の罪を着せられ追われた。妻は入水自殺を遂げた。貧乏長屋に娘の絹(清原果耶)と暮らす。

 唯一の趣味は碁である。打ち筋は性格通り、正攻法でけれんみがない。糊口をしのぐため篆刻彫りで得たわずかな金を、大店の主人萬屋源兵衛(國村隼)との賭け碁につぎ込んだ。最終局面で勝負を投げだした格之進を、源兵衛は不審がる。清廉潔白な性格からの行動と理解した源兵衛は、碁の指南役を依頼する。

 月見の夜、源兵衛は店で格之進と碁を打った。興に乗ったころ、50両がなくなる事件が起きた。大番頭は格之進を疑い、手代の弥吉(中川大志)を長屋に向かわせた。怒りが収まらぬ格之進は腹を切ると言い、絹は父の命を救うため吉原に身を売る決意をする。

 藩からの使いが、掛け軸の一件の真相を告げた。柴田兵庫(斎藤工)の仕業で、格之進の妻は兵庫に脅されて身を任せ、自死したという。出奔した兵庫を追って格之進は旅に出た。吉原に身を沈めた絹は、年が明ければ店に出なければならない。それまでに兵庫は見つかるのか。

 

 再会した格之進と兵庫は碁で決着を付けようとするが、結局は剣を交える。「碁」という盤上のゲームが命のやり取りの道具になり、碁盤というツールが源兵衛と弥吉の命の盾になる、というストーリーは魅力的だ。悪役として描かれた兵庫が、四角四面の格之進に藩内の者は息が詰まる思いだった、妻はそうした怨嗟の声を苦に死んだのだ、と語るあたり、勧善懲悪にとどまらない奥行きを見せる。世捨て人風の素浪人から復讐の鬼と化す草彅の振幅の大きい演技も見どころ。

 ラスト、絹と弥吉の婚礼の日、格之進は旅に出る。兵庫の言葉を胸に、自らの矜持がそうさせたのであろう。余韻があっていい終わりだ。

 2024年、監督は「孤狼の血」「凶悪」の白石和彌。初の時代劇とは思わせない安定感。

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家庭も孤独のリングだった~濫読日記 [濫読日記]

家庭も孤独のリングだった~濫読日記


「隆明だもの」(ハルノ宵子著)

 世に「吉本主義者」なる言葉がある。「吉本」とは、戦後最大の思想家といわれる吉本隆明のこと。全共闘世代の私自身、学生時代に読んだ勁草書房「吉本隆明全著作集」のうち、講演・対談集と初期作品集を除く13巻を今も持つ。晶文社が刊行中の「吉本隆明全集」も34巻までそろう。こういうのを「吉本主義者」と呼ぶのだろうか。

 晶文社刊の全集に付く冊子に、ハルノ宵子が父・隆明の追想記を連載した。こんなのを丹念に読む方ではないので気づかなかったが、評判がよいらしく単行本になった。

 

 徹底的に論理を重ねていく。時に力技で結論を手繰り寄せる。論争の名手。というより、バトルになればやはり力業で相手をねじ伏せる。「転向」や「ファシズム批判」で、おのれの傷口をえぐり相手を切りつける舌鋒の鋭さは、読むものを引きずり込む。そんな吉本が、家庭でどのような顔をしていたか。

 吉本は知人の妻と抜けられない関係になり、最終的に結婚した。今でいう略奪婚である。その後、二人の娘が生まれた。姉は宵子(漫画家)、妹は吉本ばなな(小説家)。妻は俳人としても知られた。

 我々は活字を通してしか、吉本を知ることがなかった。その結果形成された(神格化された?)人物像を、宵子は崩壊させる。巻末にばななとの対談も掲載、偶像は木っ端みじんになる。辛辣な皮肉も込められるが、肉親の情あればこそ。つまりは娘でなければ書けないともいえる。

 

 体の弱かった妻に代わり、家事のかなりの部分(宵子は「8割方」と書く)は隆明が受け持った。娘の弁当もつくった。中身はおおざっぱでユニークだったという。それはそれで、出来合いのイメージを覆す。作品を見ると完全主義者に見えるが、それはむしろ妻(宵子から見れば母)だったという。

 知られたエピソードでもあるが「表現者が二人いたら家庭は成り立たない」と、妻に俳人の道を断念させた。宵子は、その俳句を見たことがある。生と死、幻想と現実の境がない。第一句集「寒冷前線」が出たが父(隆明)は怒り、目にすることはなかった。

 ある雑誌、ばななとの対談で、隆明が家庭の話題に触れた(この書では具体的な内容は書いてない)。目にした妻が、自死を考えるほど激怒したという。普通の家庭ではありえないが、宵子は「表現者としての深度」の問題ととらえる。

 「対談とは果し合いなのだ。家庭をブッ壊してもいい覚悟がなければ親子同士でやるもんじゃない」と書く宵子は「(父の存命中、自分は)リングに上がる資格ナシ」だったという。父にとって家庭は癒しの場ではなく、緊張と譲歩を強いられる場所であり、それは父が過剰なまでの闇と孤独を抱えていたからだ、家庭もまた「孤独のリングだった」とする。「党派ぎらい」で通し「群れるな、ひとりが一番強い」という隆明をほうふつとさせる。

 

 1996年夏、西伊豆の海水浴場で溺れかけたことも、吉本家には大きな出来事だった。「一介の物書きジジイが溺れたと新聞のすみっこに載る程度」という予測は外れヘリは飛ぶわ、ニュース速報は流れるわ。翌日にはマスコミ数社、その後は読者が続々と宿を訪れた。幸い息を吹き返し事なきを得たが、この体験が本番(2012年)への予備知識となった。

 

 原稿の返却を求めず「いらなかったら捨てちゃってください」としたのも意外だ。書き終えた原稿を渡すことで自分の身体と精神を手放す。「父には物欲、所有欲がなかった」。これも宵子の証言である。腕時計や財布を持たず、靴はつぶれるまで履く。夏はTシャツ、冬はセーター3着を着回す。

 宵子はばななとの対談で「(父は)結婚すべき人格ではなかった」と言い切る。「妻を支えてとか、まったく期待できない」とも。家庭は風雪吹きすさぶ闘いの場だった。その中で固定した収入を得ることなく、二人の娘を育てた。これが真実かもしれない。

 晶文社刊、1700円(税別)。

隆明だもの

隆明だもの

  • 作者: ハルノ宵子
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2023/12/12
  • メディア: Kindle版


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否めぬ分かりにくさ~映画「無名」 [映画時評]

否めぬ分かりにくさ~映画「無名」

 第二次上海事変(1937年)から終戦直後(1946年)までの中国が舞台。ほぼ同時期を扱ったチャン・イーモウ監督のスパイ・ノワール「崖上のスパイ」が面白かっただけに、期待した。大掛かりな物語だったが各所で説明不足が目立ち、分かりにくさは否めない。

 

 この時代、中国大陸では共産党(毛沢東=八路軍)、国民党(蒋介石)、さらに日本の傀儡である汪兆銘政権が三つ巴の抗争を行い、1931年建国の満州国もあった。まさに四分五裂状態。こうした時代を背景に裏切りと忠誠を描くには丹念なストーリー運びが不可欠と思えるが、ほとんど見えなかった。

 汪兆銘政権の政治保衛部主任フー(トニー・レオン)が日本料理店で日本軍諜報部門トップ渡部(森博之)と会食をしている。渡部は満州建国の黒幕・石原莞爾の心酔者で、東条英機首相を「政敵」と批判する。同席したフーの部下イエ(ワン・イーボー)はワン(エリック・ワン)と諜報活動に従事していた。

 フーは、共産党から転向するというジャン(ホアン・レイ)から幹部の情報を聞き出していた。イエは、任務に失敗した国民党の女性スパイ(ジャン・シューイン)をひそかに救い、上海の日本人主要リストを手に入れた。渡部の信頼が厚く、戦後は日本に来ないかと誘われる。イエの婚約者ファン(チャン・ジンイー)もスパイとして日本と戦うことを決意、イエに別れを告げる。

 

 これが大まかな構図である。

 ファンはある夜、殺害される。犯人は同僚のワンだった。突き止めたイエに銃口を突き付けられ、ワンは「彼女は共産党員だった」と答える。

 この後、最後のどんでん返しがあるが、そこまで書けば興ざめだろう。結局、主要人物のほとんどが共産党のスパイ、という究極のプロパガンダ映画。タイトルから、無名の戦士が歴史を作ってきたというコンセプトがうかがえるにしても、名無しの権兵衛ばかりではストーリーは分かりにくい。イエとフーの延々と続くアクションシーンも、意味がつかめない(死んだかと思ったフーは生きていた)。

 一方で森の演じる渡部は石原と辻政信を足して二で割ったような(敗戦を受け、日本へ帰ったら何もしないと語っているところは石原に近い)キャラクターだし、その他の日本兵も、かつてに比べれば事実に近く、見どころはいくつかある。

 2023年、中国。監督チェン・アル。

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唐突なラストの持つ意味は~映画「悪は存在しない」 [映画時評]

唐突なラストの持つ意味は~映画「悪は存在しない」

 自然保護をめぐる住民と開発業者の対立。そんな話と思ったらラストは唐突に訪れる。観るものは放り出された気分だ。しかし、考えてみる。私たちはジェットコースターに乗った気分で軌道上を走り、どこかへ連れて行ってくれるのを期待している。ストーリーがうまく着地し、物語が完結するのを待つ。それは、近代社会が作り上げた慣習や常識ではないか。ひょっとするとこの映画は、そうした枠を突き抜けてはいないか。

 

 少し丹念に展開を追ってみる。舞台は長野県の水挽町(架空)。豊かな自然に囲まれ、巧(大美賀均)と花(西川玲)は湧水を汲み、薪を割って暮らす。そんな町に、グランピング計画が持ち上がった。開発を担当する芸能事務所から高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が派遣され、説明会を開いた。浄化槽の設置場所、常勤の管理人の配置など疑問に答えられず、二人は立ち往生する。すがる思いで巧に仲立ちを依頼する…。

 本業とは違う部門でもともと乗り気でなかった高橋と薫は計画中止を提案するが、国の補助金をもらっている社長は難色を示す。

 こんなストーリーが、どこか不気味さをたたえる深い森の景色の中で展開する。

 

 高橋、薫、巧が交わす印象的な会話があった。

 「あそこはシカの通り道だ」と巧。「じゃ、柵を作れば」と高橋。「シカは2㍍も跳ぶ。3㍍の柵を作って、そんなところにだれが来るんだ」と巧。「シカと触れ合えるってどうでしょう」と薫。「野生のシカはどんな病気を持っているかわからないんだ」と巧。

 

 自然と人間社会の融合、といえば聞こえはいいが、しょせんは人間の都合で物事が運ばれている。この対立構造がラストシーンのベースになる。

 一人で森の中を歩くのが好きだった花がある日、行方不明に。日暮れて濃い霧が漂うころ、花は発見された。巨大なシカを前に、花はなぜか帽子をとる。何か対話をしているのだろうか。シカは手負いだった。襲われ、倒れる花。目撃した巧は、高橋に対して衝撃の行動をとる…。

 ラストは、見るものにさまざまな解釈を許す。言い換えれば、作品の評価のためには思索が必要である。冒頭に書いたように、ストーリーが完結し結論が目の前に提示されることはない。そうした近代的思考を突き抜けている。タイトル「悪は存在しない」もまた、近代的思考を突き抜けている。自然保護の観点から開発は悪であるとも、殺人は必然的に悪であるとも、この映画は語っていない。すべて観るものの思考にゆだねられている。

 2023年製作、監督は「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介。

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戦中派の心情と死生観~濫読日記 [濫読日記]

戦中派の心情と死生観~濫読日記


「おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像」(前田啓介著)


 いきなりだが、極私的記憶をたどる。映画「肉弾」を見たのは、当時いた大学構内での集会だった。後に歌手・加藤登紀子と結婚した藤本敏夫氏がメーンスピーカーで、映画はその一環だった。今思えば、なぜこの二つがセットだったか不思議で、記憶の混線があるかもしれないが確かめようがない。19681012日公開。藤本氏は当時、赤ヘル部隊2000人動員可能といわれた同志社ブント指導者として知られた。しかし、一大学のリーダーが他大学で講演会とは考えにくい。ネットで調べると、68年に反帝系全学連の委員長。この肩書での講演と思われる。この年の国際反戦デー(10.21)で六本木の防衛庁に突入、翌月逮捕。69年6月まで拘留され、運動から離れた。すると「肉弾」を見たのは6810月と特定できる。記憶が正確ならば。

 

 半世紀以上も前に見たきりだから、覚えている場面は少ない。このときデビューした大谷直子の初々しい雨中の全裸とラストのドラム缶に残された白骨体ぐらいだ。しかし、この二つこそ、岡本喜八が込めたメッセージが濃厚に伝わるシーンだったように思う。

 岡本喜八(本名・喜八郎)は1924(大正13)年2月、米子市に生まれた。昭和の年と年齢が同じ世代である。アジア・太平洋戦争の始まりを16歳で、終戦を20歳で迎えた。青春期を戦火のもとで過ごした彼らは「戦中派」と呼ばれた。そうした世代の心情はどのように形成されたか、丹念に探ったのが「おかしゅうて…」である。

 1943(昭和18)年、明治大学専門部を卒業した喜八は東宝に入り、助監督になる。かねての映画好きが選んだ道だった。この年10月には、神宮外苑で徴集学生2万5千人の雨中の壮行会が行われた。いわゆる「学徒出陣」である。早生まれの喜八は「送られる側」でなく「送る側」だった。このころ戦況は悪化、戦地に向かった多くの若者が散った。喜八にとって、生年が70数日違うことで生じた運命の分岐だった。この書で何度も触れているが、結果として同学年の半数の死を目の当たりにする。このことが彼の死生観、人生観を形成した。生死が紙一重であったこと、理不尽な死を強いられたものの無念。「なんのために死ぬのか」を問い続けた。その延長線上に喜八の映画があった。けっして天才肌ではなく、助監督15年というキャリアからもわかる職人肌(アルチザン)の感覚があいまった。

 

 そうはいっても、戦争もしくは戦争体験を描いた西部劇調の「独立愚連隊」や戦中派の独白「江分利満氏の優雅な生活」、そして「日本の一番長い日」「肉弾」へと続く作品群は、つながるようでつながらない部分もある。「日本の一番長い日」と「肉弾」はほぼ同時期で、監督自身も語るように【注】、戦争遂行の仕組みを俯瞰したのが「日本の…」とすれば、一個人の視点で戦争を見つめたのが「肉弾」といえる。では「独立愚連隊」「江分利満氏の優雅な生活」「血と砂」、あるいは時代劇としての「吶喊」「赤毛」や「侍」はどんな位置にあるのか。

 この問いの答えをいちいち書く余裕がないが、書の中で「赤毛」(「肉弾」の翌年製作)の一幕が紹介されている。幕末、幕府側の武士が「一矢報いて死にたいのだ。葵は枯れゆくときでも美しくありたい」という。これに対して元旗本武士・半蔵(高橋悦史)は「死ぬのに美しいも醜いもありますか」とつぶやく。「吶喊」では土方歳三(仲代達也)に「理屈に合わないものへ歯向かいてえだけよ」と言わせる。このあたりに「戦中派」喜八の本領がありそうだ。

 そういえば「肉弾」は主人公の「あいつ」(寺田農)が「なんのために(誰のために)死ぬか」の問いを胸に少女(大谷)と出会い「これで死ねる」と叫ぶ映画だった。

 

【注】「あれ(「日本の一番長い日」=asa注)には庶民が出ないだろう、じゃ俺の体験から、庶民の側の戦争というか敗戦を描きたい」と考え、「肉弾」に着手していた(「キネマ旬報」1983年1月上旬号)という。(307P
 集英社新書、1350円(税別)。

おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像 (集英社新書)

おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像 (集英社新書)

  • 作者: 前田 啓介
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2024/01/17
  • メディア: 新書

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