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ウソの日常と格闘する初老の男~映画「逃げきれた夢」 [映画時評]


ウソの日常と格闘する初老の男
~映画「逃げきれた夢」


 定年目前の教師が主人公。仕事はそつなくこなす。周囲への気配りも怠らない。しかし、妻や娘から一定の距離を置かれ、旧友から胡散臭がられる。ウソの日常を泳いでいるようで、耐えられなくなる。「オレ、仕事辞めようか…」。そんな初老の男の心理を追った。

 タイトルの意味、実はよく分からない。この日常から逃げたいと思い、ついに逃げ切れたという意味なのか。それともそれはただの夢だった、という意味なのか。ほかの意味なのか。見終わった後も謎は解けなかった。作品自体も、何を言いたかったかよく分からなかった。ただ、「だからダメ」とはならない気がする。

 封切り初日ということもあり、予想以上に席は埋まっていた。ほとんどが高齢者だった。定年近い男の悩み多き日常、というあたりが気にかかるらしい。

 北九州市の定時制高校で教頭の末永周平(光石研)は、台所に立つ妻の彰子(坂井真紀)の腰に手を回し「なに?」と嫌がられ、スマホいじりに夢中の一人娘・由真(工藤遥)に「彼氏がいるなら紹介しろ」と軽口をたたいて嫌われる。出勤前の定食屋では清算せずに店を出て、教え子だった店員の平賀南(吉本実優)に呼び止められる。記憶に障害が出始めたのか。自転車屋を営む旧友・石田啓司(松重豊)にも、如才なく嘘くさい態度に切れられてしまう。
 本当の自分が出せない。そんな日常を延々と描く。
 ある日、周平は「学校を辞めたい」と妻と娘に告げる。「何かやりたいことがあるの?」と問われ、口ごもる。やりたいことなどない。ただ逃げたいだけだ。周平はそう思っている。

 平賀南から相談を持ち掛けられた。店を辞めて中洲で働くという。金をためて外国で暮らしたいらしい。思いとどまるよう言うと「退職金を頂戴。それならやめる」という。結局、そのまま別れた。

 周平は学校を辞めたのだろうか。南は中洲の繁華街に行ったのだろうか。答えは出てこない。ただ、周平は「これからは正直に、あるがままに生きよう」と思っているらしいことは伝わる。それ以上は作り手ではなく、見るものが考えること。そう言っているようだ。でもやっぱり気になる。この映画のタイトルの意味するところ。
 監督・脚本二ノ宮隆太郎。2019フィルメックス新人監督賞グランプリ受賞とある。新鋭の作品。


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悔恨と復讐~映画「カード・カウンター」 [映画時評]


悔恨と復讐~映画「カード・カウンター」


「タクシードライバー」(1976年)のマーティン・スコセッシ監督が総指揮をとり、脚本のポール・シュレイダーが脚本・監督。25年ぶりタッグを組んだ結果は…。

 カード・カウンターと呼ばれるウィリアム・テル(オスカー・アイザック)はギャンブラーらしからぬ日常を送る。カジノを回り安ホテルに泊まる。持参のシーツで家具を覆い、壁の絵も取り外す。小さくかけて小さく勝つ。勝負は堅実だ。カードの出た目と出ていない目を脳裏に刻み、確率を計算する。
 その能力はどこで養われたか。自ら「自分に合っている」という10年近くのムショ暮らしで身に着けた。イラクのアブグレイプ収容所で捕虜拷問の特殊任務に就いたが、虐待が問題になり軍刑務所へ送られた。命令したジョン・ゴード少佐(ウィレム・デフォー)は不問だった。
 寡黙で目立たず、修行僧のような男に二人が近づいた。一人はギャンブル・ブローカーのラ・リンダ(ティファニー・ハデッシュ)。彼女はポーカー世界大会参加を持ちかけた。一人はカーク(タイ・シェリダン)。彼の父親もゴードの部下で、捕虜虐待を問われ自殺した。カークは父の復讐をもくろんでいた。
 ウィリアムはある町で偶然、セキュリティについて講演するゴードを見かけた。復讐を達成するため一転、ポーカー世界大会へ参加を決める。3人のチームが成立した。
 ウィリアムがカークに、ギャンブラー生活の感想を聞く。「毎日同じことの繰り返しだ」とカーク。「そうだ。ひたすら回っている」とウィリアム。修行僧の顔がのぞく。結局、カークには学生ローン(大学を中退していた)や母親の借金返済にと15万㌦を渡し、家に帰るよう促す。しかし、向かったのはゴードの自宅だった。
 ニュースでカークが射殺されたことを知ったウィリアムは、ゴードの自宅を訪れ「再現ドラマをしよう」と、あの時のように拷問を仕掛けた。

 刑務所に戻ったウィリアムに、リンダが面会する。このシーン、どう読むか。私には、刑務所を出て再び舞い戻り、リンダと再会するまでが輪廻の一回りのように思える。「ムショ暮らしが合っている」というウィリアムは服役を終えると、さらに腕を磨いたカード・カウンターとして全米のカジノを「ひたすら回る」のではないか。
 「タクシードライバー」では、ベトナム帰りの元兵士(ロバート・デ・ニーロ)が街の退廃と堕落を見かね、一人のテロリストとして怒りをぶつけるが「カード・カウンター」では自らの過ちへの悔恨を内に秘め、寡黙にひたすら生きる。静かな中に社会悪を浮き彫りにしたスコセッシのカラーは健在。
 2021年、アメリカ、イギリス、中国、スウェーデン合作。


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愛憎のドタバタ、あなたの評価は?~映画「苦い涙」 [映画時評]


愛憎のドタバタ、あなたの評価は?~映画「苦い涙」


 「婚約者の友人」(2022年)は、第一次大戦で負った若者の心の傷を繊細に美しく描いた作品だった。監督はフランソワ・オゾン。そのオゾン監督作品ということで、見ないわけにいかなかった。ところが…。

 酒浸りの映画監督と俳優を目指す青年の愛憎劇。RW・ファスビンダー監督の「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」(1972年)を翻案した。元の作品は見ていないので比較しようがないが、調べたところではファッションデザイナーが映画監督に置き換えられたらしい。
 ピーター・フォン・カント(ドゥニ・メノーシェ)は朝からジンを浴びるほど飲んでいる。用があるたび助手のカール(ステファン・クレポン)を呼びつける。執事のように振る舞うカール。それをいいことにピーターは高圧的になる。今ならパワハラ。
 ピーターが映画監督でいられるのはシドニー(イザベル・アジャーニ)の功績が大きい。3年ぶりに訪れた彼女が連れてきたアミール(ハリル・ガルビア)に、ピーターは一瞬で恋に落ちる。彼をアパートに置き、映画界デビューを画策する。アミールはしたたかにピーターをあしらい、映画界の階段を登り始める…。これ、セクハラかどうかは、二人の力関係による。このアミール、三島由紀夫的「アポロン」のようであり、松田優作のようであり…。
 突然、破局が訪れる。ピーターの愛の押し付けが煩わしくなったアミールはアパートを出ていく。誕生日パーティーにも彼は来ない。失意のピーター。夜が明ける頃、アミールから電話。「今から行こうか」。なぜかピーターは断る。アミールの横にシドニーがいる。
 エゴと虚飾、単純な愛憎劇、ドタバタ劇、セクハラとパワハラ。それ以外に見るべきものがあるのか。イザベル・アジャーニもさすがに歳だな。ピーターがアミールをテスト撮影するシーン、現代のデジタルカメラではなく70年代当時の(と思われる)フィルムカメラが出てくる。旧作を踏襲したとすれば、公開時の72年にオゾンは5歳。リアルタイムの記憶はないはずで、ここは「遊び」と思われる。
 「遊び」といえば、この作品自体がそれ以上のものか、よく分からない。見終わって、残ったのは「困惑」の2文字。
 2022年、フランス。


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日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記 [濫読日記]


日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記


「サークル村の磁場 上野英信・谷川雁・森崎和江」(新木安利著)


 「サークル村」は、標題の3人を中心に企てられた文化運動。拠点は1950年代後半、エネルギー革命の現場だった九州・筑豊。その運動は何だったかを、それぞれの思想のかたちを見る中で浮き彫りにしたのが本書である。
 「サークル村」については、水溜真由美の労作「『サークル村』と森崎和江」がある。発行年と著者の生年を押さえると以下になる。
 「サークル村の磁場」2011年、「『サークル村』と森崎和江」2013年。新木1949年、水溜1972年。
 なぜこんなデータを出したか。「サークル村」が歴史上の事実というほど古くはなく「いま」というほど生々しくもない、という「中途半端さ」に理由がある。福岡県生まれの新木に、筑豊の闘いは幼いころの記憶の端にはあったはずで、一方の水溜は大阪に生まれ、物心ついたころは1980年代。三井三池の闘いを直接には知らないと思われる。
 二つの著書はほぼ同時期に刊行されたがアプローチには相当の違いがある。理由の一端が、上記のような時代性にあると考えられる。水溜はまず森崎の思想と文体の独自性にひかれ、そこから「サークル村」へ、さらに時代論へと行き着いた(著作自体は順番を逆転させ、時代論から入っている)。対して新木は、3人の思想の原点と展開(転回)をそれぞれ追う形で著書を構成した。あくまで森崎論にこだわった水溜に対して、3人をほぼ同格に見たのが新木だった。
 そこで、新木に対してある違和感が生じる。3人への距離感が微妙に違っている点である。端的な例が、上野と谷川の「死」をめぐる記述であろう。谷川は「谷川雁の東京」の章の末尾2行のみ。上野は「上野英信と晴子」の1章を立て、二人の死地への旅立ちを細かく追った。もっとも、詩「東京へゆくな」で「水仙いろした泥の都」と嫌悪をぶつけた東京へさっさと向かい、1960年代後半に「テック」重役に収まった後半生は書きにくかったかもしれない。
 上野と谷川に対する温度差の謎は「あとがき」を読むとかなり氷解する。新木は松下竜一の「草の根通信」を1975年から手伝い始めた。松下を通じて師である上野を知り、森崎と谷川を知った。そこで、まず「上野英信と松下竜一」を竜一忌のために書き、森崎と谷川を加筆したと明かしている。
 暗喩と逆説に満ちた谷川の詩を「理解できない」(102-103P、【注】)と率直に言う新木にとって、谷川は3人(松下を入れれば4人)の中で最も遠い存在だったのだろう。「サークル村」とは谷川、森崎、上野の異なった思想の形を持つものが相対した「磁場」としてある時期成り立ったとみられるが、新木が05極として松下を加えているのも理解できる(松下がいるなら石牟礼道子も、と考えられるが、それは別の議論かもしれない)。
 「大正のたたかいが崩壊し、何もしないために東京へ去った」。新木は渡辺京二の言葉を引き、谷川の「東京ゆき」を説明している。谷川の後を追い筑豊に来た森崎は、海峡を挟んで近代日本の長い精神史の旅路に出、上野は古い炭住を買い取って筑豊文庫とし、集会所を兼ねて拠点としたが病魔に勝てず死去した(1987年、64歳。谷川は1995年、71歳、森崎は2022年、95歳で亡くなった)。
 日本が近代から現代へと脱皮する中、思想戦の前線に立って光芒を放ったものたち。光は、地底から今も放たれていると信じる。
 海鳥社刊、2200円。

【注】「しかし、正直に言うけど、素僕な田舎者である僕は谷川の詩が多分一行も理解できない。(略)言葉が言葉を相殺し、どんなイメージも湧き起こってこない(彼自身なったことがあるという)失読症になったのかと思った」―かなり辛辣であるが、一般的な理解だったと思う。ただ、同じ「田舎者」として谷川の詩に接したとき「分からなさ」の中に惹かれるものを、私は感じていた。今となってみれば、新木のように分からないものは分からん、という態度がまっとうだと思う。



サークル村の磁場―上野英信・谷川雁・森崎和江

サークル村の磁場―上野英信・谷川雁・森崎和江

  • 作者: 新木 安利
  • 出版社/メーカー: 海鳥社
  • 発売日: 2011/02/01
  • メディア: 単行本



 


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「教育」と「南北」軽妙なタッチで~映画「不思議の国の数学者」 [映画時評]

「教育」と「南北」軽妙なタッチで
~映画「不思議の国の数学者」


 164年前にドイツの数学者が素数の並び方について推論を立てた。ところが、正しさを証明できなかった。そのリーマン予想を証明した数学者が北朝鮮から韓国へ脱出、身分を隠したまま、私立高校の警備員をしていた…。
 念のため言っておくと、リーマン予想はいまだ証明されていない。この部分はフィクションである。それはさておき。

 舞台は韓国内の上位1%が入る超難関高。ただ、母子家庭などの特例入学枠があるらしく、ハン・ジウ(キム・ドンフィ)もその一人。成績は芳しくなく、特に数学は苦手。一般高校へ転校を迫られ悩んでいる。
 無愛想で取り付く島のない警備員イ・ハクソン(チェ・ミンシク)は、勤務の合間に難解な数式と取り組んでいた。素顔は北朝鮮トップの数学者。しかし、研究実績が兵器開発に利用されることに疑問を持ち、学問の自由を求めて息子と脱北した。父の行動についていけない息子は北へ再入国を図り(越北というらしい)、韓国軍に射殺された。
 北の現実に失望したハクソンは、出世の道具にされた韓国の学問の在り方にも疑問を持つ。そんなとき出会った落ちこぼれジウに、本物の数学とは何かを教える。解答を効率的に求めるのではなく、問そのものが正しいかを確かめること。大切なのは思考の過程であること。こうしてジウの成績は急速にアップしたが、受験対策にこだわる教師と対立する。
 そんな折り、韓国内で横断的に競われる数学賞(ピタゴラスアワード)の問題が漏洩。自身の数学論文の出力のためPC室に入ったジウが疑われ、一般高校への転校が避けられない情勢に…。息子を亡くした悔悟から脱北の事実を隠し続けたハクソンは、窮地のジウを助けるため、ついに身分を明かす。

 超学歴社会・韓国の教育事情を背景に、朝鮮半島の南北問題をうまく取り込み軽妙なタッチで仕上げた。ラストへなだれこむ筋書きは芝居がかっているが、そこは韓国ならでは。インテリといえばインテリ、労働者と言えば労働者、という微妙な役どころを、チェ・ミンスクはうまく演じている。
 2022年、韓国。監督パク・ドンフン。


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