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無意味な戦争の真実を描く~濫読日記 [濫読日記]

無意味な戦争の真実を描く~濫読日記


「亜鉛の少年たち アフガン帰還兵の証言」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著)


 ソ連のアフガン侵攻は1978年に始まり1989年まで続いた。きっかけは、アフガンに成立した共産主義政権と同国内のイスラム勢力との内戦激化だった。日本人にとっては、どちらかといえば遠い話だったが、1980年モスクワ五輪の西側国ボイコットによって一気に身近になった。イスラム勢力が勝利しソ連軍は撤退。時を経ずソ連は崩壊した。米欧の支援を受けたイスラム勢力はその後モンスター化し、アルカイダによる米国中枢同時テロへと発展したことは記憶に新しい。
 ソ連のアフガン侵攻はかつての米国によるベトナム戦争と並ぶ「愚かな戦争」だった。しかし、末期とはいえ全体主義国だけに国内の反戦運動は容易ではなかっただろう。権力者のプロパガンダに踊らされ、無意味に死んだ若者は少なくなかった。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが独自の手法による作品で脚光を浴びたのは、独ソ戦経験者を取材した「戦争は女の顔をしていない」(1985年)からだった。子供たちが見た戦争の記録「ボタン穴から見た戦争」を経て1988年にソ連侵攻下にあったアフガンを取材、「アフガン帰還兵の証言」をまとめた。著者自身はこの後、チェルノブイリ原発事故の関係者を取材した「チェルノブイリの祈り」や、ポスト社会主義を生きる人々の苦悩を浮き彫りにした「セカンドハンドの時代」へ向かう。

 「アフガン帰還兵の証言」はソ連兵、母親の傷跡や苦悩を浮き彫りにした。当事者への聞き取りだけでなく、スヴェトラーナによる証言の再構成によって文学的価値が高められた。戦場での恐怖、逡巡、罪悪感、母親たちの悔恨。これらがストレートに伝わる。

 しかし、現実を取材したうえで文学的加工を行うという手法(一般的にはノンフィクション・ノベルと呼ばれるが、ここではドキュメント文学と称している。同じものと認識するが、両者に差異があるならご教示願いたい)。取材された側からは、発言どおりに書かれていないとの声が上がり、多くの裁判が提起された。もちろん、アフガン侵攻を国家的正義としなければ気が済まない権力者の思惑が背後にあることは容易に想像がつく。
 事実から真実に迫ろうとするなら、取材した事実をそのままの形で掲載するなど、ありえない。兵士たちはみな死を恐れない英雄であり、母親は喜んで子を戦場に送り出す愛国者ばかりになってしまうからだ。しかし実際は、兵士たち(その多くはまだ少年)は死を恐れ、無意味な殺し合いに絶望し、母親は子を戦場へ送らなければよかった、と悔やむ。そうした真実を描き出すためには、言葉の裏側を読み取ったうえでの文学的加工が必要になる。

 ここで「戦争は女の顔―」と「アフガン帰還兵―」の違いについて簡単に触れる。ポイントは二つ。
 「戦争は女の顔―」は取材時点で、40年前の事実についての証言である。個人史としては、半生を過ぎている。「アフガン帰還兵―」は現在進行中の事実についてだった。もう一つはテーマ性の違い。「戦争は女の顔―」は戦争に従事した女性に特有の苦痛を浮き彫りにした。「アフガン帰還兵―」は愛国者の仮面の下にある恐怖や疑問を暴き出した。前者は証言者の理解を得やすく、後者は反発を招きやすい。このあたりに、二つの作品の世間での受け止めの違いの遠因があるようだ。

 戦場からソ連へ送り返された棺は亜鉛メッキされた鋼板で裏打ちされていたという。戦場の秘密を守るため開かないように、と工作された結果だった。戦場で非人間的な行為を目撃し、自らも手を染めた少年兵たちは心に深い傷を負った。スヴェトラーナはそうした彼らの精神風景を描き出し「亜鉛の(心を持つ)少年たち」と名付けた。
 兵士、母親たちとの訴訟記録を加え、当初より大幅に分厚い一冊になった。訴訟記録は真実とは、ノンフィクション(ここではドキュメンタリー)とは、ノンフィクション・ノベル(ドキュメンタリー文学)とは、といった問題を考えるうえで極めて有意である。

 ここにある「アフガン」を「ウクライナ」と置き換えてみれば、書かれたことが過去の一時期のことと言ってしまえないことが容易に想像できる。悲しいことだが。
 岩波書店、3200円。訳は奈倉有里。



亜鉛の少年たち: アフガン帰還兵の証言 増補版

亜鉛の少年たち: アフガン帰還兵の証言 増補版

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2022/06/30
  • メディア: 単行本



 


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美しくも哀しい「喪失」の物語~映画「柳川」 [映画時評]

美しくも哀しい「喪失」の物語~映画「柳川」


 過ぎ去った過去は美しく切ない。その美しさの裏に張り付いているのは、喪失体験がもたらす哀しさである。哀しさが美しい輝きを放っている。映画「柳川」は「喪失」をめぐる4人の物語である。

 北京に住むドン(チャン・ルーイー)はある日、末期がんを告げられた。余命を悟り、兄のチェン(シン・バイチン)に日本の柳川に行こうと誘った。兄のかつての恋人リウ・チアン(ニー・ニー)と同じ名前の場所だから、という理由だった。20年前に姿を消し、そこに住んでいるという。既に結婚し仕事もあるらしいチェンは戸惑うが…。

 柳川市内のゲストハウスらしきところに二人は立っている。美しい風景。どこかのライブハウスで歌うチアン。居酒屋のおかみ(中野良子)との何気ない会話。
 兄弟はチアンに、なぜ突然姿を消したのかを問う。チアンは家庭の事情でロンドンに行ったことを明かした。それぞれ、チアンの部屋を訪れ関係の復活を目指すが、ともに挫折する(ここで、ドンにも恋心があったことが明らかになる)。
 彼女が柳川を訪れたのは、ゲストハウスのオーナー中山(池松壮亮)の存在があった。ロンドンで知り合った。中山には15歳になる娘がいたが、家出? をして今は不在。ここにも喪失の物語があった。
 1年後。チェンのアパート。チアンが訪れ、ドンが住んでいた部屋を見せて、という。ベッドは思いのほか狭く小さかった。思い出に浸るかのように、丸くなって横になったチアン。チェンは小さな何か(マイクロリコーダー?)を渡した。ドンの遺品だろう。「きれいさっぱり、何も残さないって言っていたのに…」とつぶやくと、彼女はアパートを出ていった。

 柳川を舞台に、かつての青春の美しい光景が思い出として語られる。喪失の、まだ去らぬ痛みとともに。抑制のきいた画調に余情漂う映画である。監督は中国のチャン・リュル。ほかに「慶州」「福岡」と、アジアの街を描いた作品がある。


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重なる精神の飢餓~映画「渇水」 [映画時評]


重なる精神の飢餓~映画「渇水」


 群馬県内と思われる、ある市の水道局職員が主人公。料金滞納の家庭を訪ね歩き、水道法15条第3項による停水措置を実行している。止められる方は反発するが、規則に従い淡々と作業する。

 岩切俊作(生田斗真)がある日、同僚の木田拓次(磯村勇斗)と訪れた家庭は母・小出有希(門脇麦)と小学生の姉・恵子(山崎七海)、妹の久美子(柚穂)がいた。父は消息が知れなかった。一度は見送ったものの2度目の訪問では母も出奔。やむなく幼い姉妹の前で停水を行った。
 岩切は妻・和美(尾野真千子)と子との関係がうまくいかず、一人暮らしを強いられていた。時折、実家を訪れても会話はぎくしゃくするばかり。孤独を内に抱え、滞納家庭の水道を止めて歩く生活…。
 収入のあてもなく水まで止められた姉妹は困窮した。公園や近所の庭の水道を盗んだものの、それもかなわなくなってスーパーで飲料水を万引き。店長にとがめられるところを偶然見た岩切の心の中で何かが崩れた。

 ここまで書けば分かるが、水のない生活という現実をベースに、岩切や幼い姉妹の愛のない生活が招く精神の飢餓が、後半に描かれる。

 ついに、姉妹の家庭の水道を開放する岩切。それだけでなく、公園で思い切り姉妹と水をかけあって戯れる。見とがめた水道局の上司にも抵抗、「このままではダメなんだ」と叫び、警察に留置される。
 しかし、こうした精神の決壊が、岩切の家庭を思わぬ方向へと導いていく。

 「渇水」という社会状況と「精神の飢餓」という内面の危機を重ねる構図がベタで、中盤あたりから結末が見えるところが難だが、まずまず良くできた作品といっていい。
 2023年、監督髙橋正弥、白石和彌プロデュース。原作は河林満。芥川賞候補作。

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日常の隣に潜む不条理~映画「怪物」 [映画時評]


日常の隣に潜む不条理~映画「怪物」


 小5の息子と学校のトラブル。日常生活でありそうな出来事を緻密に描く。母親、学校側、そして子どもたち。三者の視点は微妙に食い違う。真実を言っているのは誰か。黒澤明「羅生門」(原作は芥川龍之介「藪の中」)のテーマがよみがえる。当事者間の視点の「ずれ」を描いた作品では「三度目の殺人」(2017年、是枝監督)はじめ、海外では英米合作「最後の決闘殺人」(2021年、リドリー・スコット監督)やイラン「別離」(2011年、アスガー・ファルファディ監督)があった。ただ、正面から「食い違う真実」を見つめたものはそんなになく(「羅生門」以来?)、精巧さにおいても記憶にないほどの出来だ。

 始まりは火事のシーン。繁華街のビルが炎上、消防車が向かう。マンションの部屋から眺める麦野早織(安藤サクラ)と息子の湊(黒川奏矢)。突然、湊が「豚の脳を移植した人間は豚?それとも人間?」と問う。学校の先生がそう言ったという。
 父は死別した。シングルマザーの早織はクリーニング店で働き、湊を育てている。そんな息子に最近、異変が相次いだ。水筒に詰められた泥、片方だけのスニーカー、耳の小さな傷。
 夜になっても帰らない湊を必死に捜した。今は使われていないトンネルにいた。廃車となった電車が置いてあった。優しく、と気を配りながら帰りの車で問いただす早織に、湊はドアを開けて飛び降りた。

 何があったのか、学校に出向き問いただす早織。校長(田中裕子)や担任の保利道敏(永山瑛太)は「誤解を招いて申し訳ない」と謝るばかりだった。表情は鉄仮面のよう(と、早織には見えた)。「そうじゃない、本当のことが知りたい」と迫るが、謝罪を繰り返すばかりだった。守るべきは子どもではなく組織と体面だといっているようだった。話は大きくなり、PTA総会で担任が謝罪。新聞に「学校で体罰」と報じられた。これは真実なのか…。

 このエピソードが早織、保利、湊ら子どもたちの視線で描かれる。保利は、恋人(高畑充希)との時間では当然ながら人間的な表情をしていた。子どもたちとも普通に接し、体罰教師には見えなかった。
 湊は、同じクラスの星川依里(柊木陽太)をいじめているといううわさがあり、そこから「怪物」と呼ばれた。しかし、星川は湊を親友と思っていた。少なくともそうした複雑な感情があった。二人は冒頭に出てきた古い電車内で遊び始めた。
 単純に見えた「事件」の構図は、当事者の視線の絡み合いによって複雑さを増した。教師の「体罰」はあったのか、クラス内の「いじめ」はあったのか、学校側はそれらを隠そうとしたのか…。
 それぞれの言動の裏側に理解できないものの存在がうかがわれる。湊や星川、保利にとっての真実とは。学校側の真実とは。日常のすぐ隣に潜む不条理を描いた。

 星川に関して、いくつか回収されないエピソードがある。持ち歩いていた発火用ライターは一連の放火と関連するのか。風呂場で溺死しかけたり、廃車内で自らのセクシャリティへの自覚を暗示したりする行動は何を意味したのか。そんな枝葉が影のように物語の怪物性を増幅している。
 ただ、最後のシーンをどう受け取るか。大人たちの思惑や打算によってゆがめられた真実。しかし、子どもたちはあくまでピュアな世界を生きている…ということが言いたいのであれば、最後の最後で作りが少し緩んだかな、という気がしないでもない。

 2023年、監督是枝裕和、脚本坂元裕二、音楽坂本龍一。


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暗転するひと夏の思い出~映画「アフターサン」 [映画時評]

暗転するひと夏の思い出~映画「アフターサン」


 小津安二郎は、肝心の場面を映さないことで知られた。老夫婦が上京する物語では汽車に乗るシーンがなく、娘が結婚する作品では相手だけでなく結婚式も出てこない。それらは観るものの想像に任せた。
 「アフターサン」は、作品の色合いこそ違うが肝心な場面を見せない、という点で小津作品に似ている。

 トルコの避暑地。父と娘がひと夏の忘れがたい日々を過ごす。ソフィ(フランキー・コリオ)は思春期真っ盛りの11歳。地元の同年代の子や若者と遊んでいる。そこには邪念などない。一方のカラムは31歳。妻が同行していないところから、離婚したと思われる。娘と母の、それらしい電話での会話もある。
 20年前にホームビデオで撮ったという、いくつかのシーンが挿入される。もちろんそれだけではない。ダイビングを楽しむシーン。カラムはインストラクターに「この年まで生きているとは思わなかった。40歳まで生きているかは分からない」とつぶやく。心に死の影が宿る。一方のソフィは、あくまでも純真だ。
 しかし彼女は、あのころの父親と同じ年になって避暑地のビデオの中に、父親が残した物語のフレームのようなものを見出す。
 太陽が降り注ぐ避暑地での、二人の残酷なまでに対照的な視線。光が強い分、影が濃くなる。しかし、父親に何があったのか。何を悩んでいたのか。妻と別れたのはなぜか。悲嘆にくれる背中は映しても、そこにある「事情」は語らない。父親の生死さえ明らかではないのだ。そこが逆に心に刺さる。

 2022年、監督シャーロット・ウェルズ。初の長編作品というスコットランドの新鋭。アメリカでこんな繊細な作品がつくれるとは。


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