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日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記 [濫読日記]


日本の曲がり角で放たれた光芒~濫読日記


「サークル村の磁場 上野英信・谷川雁・森崎和江」(新木安利著)


 「サークル村」は、標題の3人を中心に企てられた文化運動。拠点は1950年代後半、エネルギー革命の現場だった九州・筑豊。その運動は何だったかを、それぞれの思想のかたちを見る中で浮き彫りにしたのが本書である。
 「サークル村」については、水溜真由美の労作「『サークル村』と森崎和江」がある。発行年と著者の生年を押さえると以下になる。
 「サークル村の磁場」2011年、「『サークル村』と森崎和江」2013年。新木1949年、水溜1972年。
 なぜこんなデータを出したか。「サークル村」が歴史上の事実というほど古くはなく「いま」というほど生々しくもない、という「中途半端さ」に理由がある。福岡県生まれの新木に、筑豊の闘いは幼いころの記憶の端にはあったはずで、一方の水溜は大阪に生まれ、物心ついたころは1980年代。三井三池の闘いを直接には知らないと思われる。
 二つの著書はほぼ同時期に刊行されたがアプローチには相当の違いがある。理由の一端が、上記のような時代性にあると考えられる。水溜はまず森崎の思想と文体の独自性にひかれ、そこから「サークル村」へ、さらに時代論へと行き着いた(著作自体は順番を逆転させ、時代論から入っている)。対して新木は、3人の思想の原点と展開(転回)をそれぞれ追う形で著書を構成した。あくまで森崎論にこだわった水溜に対して、3人をほぼ同格に見たのが新木だった。
 そこで、新木に対してある違和感が生じる。3人への距離感が微妙に違っている点である。端的な例が、上野と谷川の「死」をめぐる記述であろう。谷川は「谷川雁の東京」の章の末尾2行のみ。上野は「上野英信と晴子」の1章を立て、二人の死地への旅立ちを細かく追った。もっとも、詩「東京へゆくな」で「水仙いろした泥の都」と嫌悪をぶつけた東京へさっさと向かい、1960年代後半に「テック」重役に収まった後半生は書きにくかったかもしれない。
 上野と谷川に対する温度差の謎は「あとがき」を読むとかなり氷解する。新木は松下竜一の「草の根通信」を1975年から手伝い始めた。松下を通じて師である上野を知り、森崎と谷川を知った。そこで、まず「上野英信と松下竜一」を竜一忌のために書き、森崎と谷川を加筆したと明かしている。
 暗喩と逆説に満ちた谷川の詩を「理解できない」(102-103P、【注】)と率直に言う新木にとって、谷川は3人(松下を入れれば4人)の中で最も遠い存在だったのだろう。「サークル村」とは谷川、森崎、上野の異なった思想の形を持つものが相対した「磁場」としてある時期成り立ったとみられるが、新木が05極として松下を加えているのも理解できる(松下がいるなら石牟礼道子も、と考えられるが、それは別の議論かもしれない)。
 「大正のたたかいが崩壊し、何もしないために東京へ去った」。新木は渡辺京二の言葉を引き、谷川の「東京ゆき」を説明している。谷川の後を追い筑豊に来た森崎は、海峡を挟んで近代日本の長い精神史の旅路に出、上野は古い炭住を買い取って筑豊文庫とし、集会所を兼ねて拠点としたが病魔に勝てず死去した(1987年、64歳。谷川は1995年、71歳、森崎は2022年、95歳で亡くなった)。
 日本が近代から現代へと脱皮する中、思想戦の前線に立って光芒を放ったものたち。光は、地底から今も放たれていると信じる。
 海鳥社刊、2200円。

【注】「しかし、正直に言うけど、素僕な田舎者である僕は谷川の詩が多分一行も理解できない。(略)言葉が言葉を相殺し、どんなイメージも湧き起こってこない(彼自身なったことがあるという)失読症になったのかと思った」―かなり辛辣であるが、一般的な理解だったと思う。ただ、同じ「田舎者」として谷川の詩に接したとき「分からなさ」の中に惹かれるものを、私は感じていた。今となってみれば、新木のように分からないものは分からん、という態度がまっとうだと思う。



サークル村の磁場―上野英信・谷川雁・森崎和江

サークル村の磁場―上野英信・谷川雁・森崎和江

  • 作者: 新木 安利
  • 出版社/メーカー: 海鳥社
  • 発売日: 2011/02/01
  • メディア: 単行本



 


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