足し算をするか引き算をするか~映画「オッペンハイマー」 [映画時評]
足し算をするか引き算をするか
~映画「オッペンハイマー」
オッペンハイマー。核物理学の先端を行き、同時に文明論者としても知られた。女性好きの私生活も一風変わっていたという。この特異なキャラクターが映画化された。公開とともに、さまざまな観点から賛否両論が渦巻いた。なぜか。第二次大戦中、米国「マンハッタン計画」を率いて原子爆弾を完成させた。20世紀は二つの大戦を経て「戦争の世紀」と呼ばれたが、オッペンハイマーの「仕事」は、さらに戦争のかたちを変え「核の時代」の始まりを告げた。一人の科学者の栄光と葛藤、内面の物語にとどまらず多様な読み方、解釈のもとに語られたのは、こうした「悪魔の仕事」の側面を持ったからだった。
広島の試写会では、元広島市長の平岡敬、詩人で米国社会に独自の批評眼を持つアーサー・ビナード、映像作家でノンフィクションライターの森達也の3氏がコメントした。平岡氏は被爆地の惨状がほとんど描かれていない、ビナード氏はインサイダーの視点から見た核開発の残酷な流れ、森氏は間接話法として読み取るものがある、とポイントを語った(3月14日付朝日新聞、中国新聞記事による)。
広島、長崎で何があったかはスルーされ、米国側の視点でのみ「原爆」が語られている、とする声は、被爆地で多かったように思う。しかし、あえて言えば、どこまで惨状に触れたら被爆者の納得する作品になっただろうか。そもそも一人の科学者の煩悶と核の恐怖と、どちらが重く大きなテーマなのか。それは被爆者(日本人だけではない)が語るしかないのではないか。
そうであれば、3世紀にわたる核物理学の集大成を現実的な形にしたいという野心と、非人道的な兵器を使うべきではないという良心とのはざまでもがく姿など卑小といえる。そこにビナード氏が言う「インサイダーの視点(の限界)」、森氏が言う「間接話法」という定義づけの根拠を見ることができる。
小津安二郎の手法に「最も言いたいことは映像にしない」というのがある。老夫婦が上京する物語では汽車に乗るシーンがなく、老教授が娘を嫁がせる映画では結婚式のシーンがない。クリストファー・ノーラン監督も同じ手法を使ったのではないか。「科学者の葛藤」は遠眼鏡のようなもので、その先に広島・長崎に始まる「核の時代」の恐ろしさが見えるのではないか。
オッペンハイマーは「核の時代」との向き合い方について、科学者と政治家のそれを明確に分けた。では、政治家はどう対応すべきだったか。求めたのは原爆製造技術の公開と共有であり、その先に原爆不使用につながる国際的取り決めの実現だった。しかしトルーマン、アイゼンハワーという凡庸な大統領と、スターリンという独裁的一国主義者が支配する世界では、マッカーシー旋風のもと保安委員会の聴聞に神経をすり減らすばかりだった。
「核エネルギー言説の戦後史」(2012年、人文書院)など、有用な著作を残す山本昭宏・神戸外大准教授が、この映画について以下の指摘をしている。
――この映画は、広島・長崎の惨状と被爆者と周囲の人びとの長きにわたる苦しみを、私たち自身で補って理解するための余地をあえて残している。従って、この映画は映画館だけで終わらない(4月13日付中国新聞)。
ナチスとの開発競争に勝った米国が、戦争遂行能力がないことが明らかだった日本の都市に、なお二つの原爆を落とす必要があったのか。ロスアラモスの核実験場をネイティブアメリカンから収奪し、度重なる核実験の末に深刻な放射能汚染をもたらしたことへの痛みは感じないのか―。
そうしたことを思いつつ、ないものを指摘するより、補助線を引いてなにを読み取れるかを考える。そうした映画にも思える。残された余白部分に、あなたなら足し算をするか、引き算をするか。
映画には多くの人物が登場するが、ほとんど説明がない。原作(早川書房)は必読。