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末期症状だが、代わる政党がない。トホホ…~三酔人風流奇譚 [社会時評]

末期症状だが代わる政党がない。トホホ…~三酔人風流奇譚

 

安倍政治の功罪

松太郎 安倍晋三政権が幕を閉じる。それにしても7年8カ月、長かった。

竹次郎 メディアは政権の功罪をめぐってかまびすしい。

梅三郎 功の部分ってあるのか。罪の部分ばかり頭に浮かぶが…。

松 安保法制(戦争法)やそれにつながる特定秘密保護法をどう評価するかだ。これを政権の「レガシー」だという人もいる。

梅 安保法制は将来、日本が戦争に首を突っ込んだときに間違いなく歴史的起点として語られる。あくまでも「負のレガシー」だ。

竹 政権の総括として外せないのは、森友学園や加計学園をめぐる疑惑、桜を見る会での支援者優遇(買収)疑惑。ひとくくりでいえば権力の私物化の問題だ。あったのかなかったのか、いまだに不透明だ。そして財務省近畿財務局職員の自死。彼は公文書改ざんを強制されたと遺書を残した。

松 数々の疑惑の中で最も大きいのは公文書改ざん問題。世間でいわれていることが事実だとすれば、霞が関の官僚は政権を守るためなら何でもする、ということになる。官僚が守るべきは国民のはずなのに。

竹 経済政策、外交についてはメディアでさんざん取り上げられているのでここでは簡略化したいが、経済については円安株高を維持するため日銀を取り込み、年金資金を株式市場に投入することまでした。これらはとても今のままですむとは思えない。

梅 株高を維持するために多額の公金をつぎ込んだが、結局それは企業の内部留保となり、トリクルダウンで中小企業を潤すということにはならなかった。一方で生活保護者への支給基準が引き下げられるなど露骨な弱者切り捨てが行われた。結果として経済格差(ジニ係数)は先進国でも下位に位置する。

竹 公文書改ざん疑惑は安倍政権の特徴的な出来事だが、背景にあるのは言葉と信義を軽んじる政権の姿だ。国会では野党に無意味なヤジを投げつけ、街頭演説では「あの人たちに負けるわけにはいかない」と憎悪を剥き出しにした。たしかに日本はGDP世界第3位、防衛力も5位か6位という、それだけ見れば大国だが、その割に世界から「大国」とは見られていない。内田樹氏のブログを引用すれば「知性と倫理性を著しく欠いた首相が長期にわたって政権の座にあったせいで、国力が著しく衰微した」という総括になる。

梅 けさ(9月4日)の朝日新聞に世論調査結果(調査日9月2、3日)が載っており、濃淡はあるが安倍政治を評価するという声が7割あった。

竹 病で政権の座を降りた安倍氏への同情票だろう。こんなとき、ロジックより心情で動く日本国民の特性がよく表れている。

 

永田町のドタバタ劇

松 安倍首相の退陣表明が8月28日夕。自民党総裁選は9月8日告示、党員投票なしで両院議員総会を14日に開き選出。16日の臨時国会で首班指名される。退陣表明からわずか半月で次期首相が決まる。

竹 いかにも手っ取り早いという感じだがそれは置くとして、問題なのは決まるプロセスだ。今のところ菅義偉官房長官、岸田文雄政調会長、石破茂元幹事長の争いだが、党内5派閥が菅氏支持を表明、9割がた「菅政権」が決まってしまった。1日に出馬表明した岸田、石破両氏はこれまでなんとなくそれぞれの見識を述べる機会があり、ぼんやりとだが政見らしきものは推測がついた。しかし、菅氏についてはどんな政見の持ち主なのか見当がつかない。2日の出馬会見でようやく政見らしきものを述べたが、ほとんどは安倍政治の継承というものだった。

梅 記者から安倍路線とどこが違うのかと聞かれ、色を成して縦割り行政をぶち破る、と答えていたが、縦割り行政の弊害をなくすというのは政治目標でなく手法の問題。菅氏は参謀役としては有能だったかもしれないが、そのまま政治リーダーとして通用するとは思えない。このやり取りにもその点が出ている。

竹 特に外交。安倍政権では北方領土問題、拉致問題は進展なし、日韓関係は戦後最悪、といわれた。トランプ米大統領とは良好な関係を築いたといわれるが、F35などの防衛装備を米国の言い値で買ったからに他ならない。沖縄問題を解決するには自立的な対米関係を築くしかないが、できていなかった。これらをどう打開するのか。安倍政治を継承するというだけでは展望は見えない。

松 そんな中で3日、東証終値がコロナ前の水準に戻った。菅政権が確実になり、アベノミクスが継承されるとの見通しを好感したためだろう。今まで安倍政治でうまい汁を吸ってきた人たちも安堵している。

竹 その意味では、いち早く「菅担ぎ」に走った二階俊博幹事長、麻生太郎副総理、細田博之元幹事長、竹下亘元総務会長ら派閥領袖も同じ事情だ。みんな安倍政権下で吸ってきたうまい汁をこれからも吸いたいと思っている。

松 菅会見の直後に行われた3派領袖の合同会見は異様だった。二階氏を含め永田町の妖怪を見ているようだった。映し出されたのは、目先の利益を求めてうごめく政治家の醜態だ。国民の幸福を案じるなどという姿勢はかけらも見られない。

梅 あるいは、長老たちが密室で自分たちの長を選ぶムラの論理。今回も選出方法をめぐって若手議員の不満が随分あったようだが、いい加減こうした組織のありようは若手が蹶起して打倒しなければ。

竹 今後、菅首相会見のたびに国民は永田町の妖怪が背後でうごめくのを感じる。永田町ドタバタ劇も、ここまで来たかという思いだ。

松 見過ごしてはならないのは、なぜ菅氏は総裁選出馬を決めたかだ。テレビコメンテーターが言っていたことで真偽はわからないが、当初「岸田後継」を決めていた安倍氏は「岸田は石破に勝てるのか」と漏らしていたという。これが事実なら、岸田は石破に取り込まれて2人の連合政権ができ、結果としてモリカケ、桜、公文書改ざん問題などの真相が暴かれると警戒したのでは。それを防ぐには菅政権しかなかった。

竹 安倍政治の継承といえば聞こえはいいが、数々の疑惑にフタをする政権、疑惑隠し政権というわけだ。もともと「石破つぶし」が最優先されたのも、疑惑を暴露されかねないという危惧が大きかったからだ。

 

忘れ去られた政治の原点

梅 政治の原点は何か、ということが次期政権のトップを選ぶ過程で語られなければならないが、そんなものはどこかに行ってしまった。政治とは経世済民、世を治めて民を救う、そのために富の再配分に心を配ることにあるが、安倍政治にはみじんも感じられなかった。そこをどう軌道修正するか、経済、外交、防衛はどうなるのか。少なくともそこは語るべきなのに。

竹 コロナ禍は人間の安全保障の問題であり、本来の意味での政治の力量を図る典型的な事例だったが、安倍政権は無能だった。

松 菅氏は官房長官、政権の門番としてはある意味「鉄壁」だったかもしれないが、政権トップとしてはそれでは持たない。

竹 号砲が鳴った時点でトップを走るランナーはテープを切っていた、あるいは読み始めたら結末が既に明らかにされていた、そんなミステリーを読まされている感じだ。

梅 かつて小渕恵三首相が誕生した時、米国メディアだったと思うが「冷めたピザ」と評した。このまま菅政権が誕生すれば、国民はピザところか「冷めたラーメン」を食わされる思いがする。

松 こういう事態に陥ったときには政権交代可能な政党がもう一つあってただちに交代する、それを生み出すのが小選挙区制=二大政党制であったはずだが。こんな腐りきった政党が政権にしがみつく姿をいつまで見なければならないのか。

竹 年後には確実に総裁選がある。そのときどうなっているかだ。菅政権はショートリリーフか先発完投型かが見えてくる。そのとき、まともな政治論議があるか。

梅 そう願いたいが可能性は低い。今回と同じドタバタ劇が繰り返されるのでは。

松 その前に、菅首相による解散総選挙があるかどうかだ。先ほど安倍氏への同情票が世論調査結果に表れている、といった分析があったが、そうだとすれば自民党にとっての勝機は今だといえる。今秋解散はあるのではないか。

竹 それもあるが、自民党議員の心理から推し量るほうが分かりやすい。今のままだと菅政権は談合政権と呼ばれ、安倍政治の数々の負債も抱えて議員としてはやりにくい。それなら解散総選挙に打って出て、勝てば政権の正統性が得られる。負ければさっさと首を挿げ替える。早く白黒つけたほうがやりやすい。これが議員心理では。

梅 もし総選挙で勝ってしまうと、菅政権を作り出した談合の当事者たちは相対的に政治的影響力が低下する。それは困るという思惑もあるだろう。中曽根政権ができた時、田中派の金丸信氏だったと思うが、担ぐ神輿は軽いほうがいい、とうそぶいた。そうした事情も絡んでくる。

松 いずれにしても、国民生活は置き去りにされてしまうわけだ。



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安倍晋三は裸の王様~三酔人風流奇譚 [社会時評]

安倍晋三は裸の王様~三酔人風流奇譚

 

安倍動画の「気持ち悪さ」

松太郎 ネットで奇妙な動画を見てしまった。星野源の歌に合わせて、安倍晋三首相が犬を抱いて紅茶を飲んでいる。見てはいけないものを見てしまった、という嫌な気分だった。

竹次郎 僕も見た。「うちで踊ろう」というコラボ動画を星野が流しているというので検索したらあたってしまった。

梅三郎 僕は見ていないが、今の話でだいたい想像がつく。

松 ずいぶん反応があったようだ。もちろん、ほとんどが批判的だった。

竹 逆に言うと、この動画で「いいね」を押す人たちってどういう人たちなんだろう。菅義偉官房長官によると、多くの人が「いいね」を押したようだが。

梅 ちょっと、想像がつかない。

松 動画で抱いた違和感とはなんだろうか。

竹 一言でいえば、星野が自分の表現のツールである歌によって多くの人とつながり合おうとしたのに、安倍首相はそれをただ政治的に利用した、ということだろう。

松 それはそうだ。その証拠に、星野は「踊ろう」とうたっているのに、安倍はソファに座って紅茶を飲んでいるだけだ。そして「友達と会えない。飲み会もできない/ただ、皆さんのこうした行動によって、多くの命が確実に救われています」という感傷的で軽薄なコメントをつけた。英語のタイトルは「Dancing on the Inside」で「Dancing at home」でないところも意味がありそうだし、歌詞も「生きて踊ろう」と、切実さがにじんでいる。

竹 たしかに、「家で踊ろう」ではなく「うちで踊ろう」だ。いま指摘したようなことが、安倍の動画とコメントからはまるで伝わらない。むしろ気持ち悪さが漂う。動画の構図とコメントも、いま必死で生き延びようとしている人たちの神経を逆なでしている。

梅 星野は、伝言ゲームのように自作の歌で人をつないでコロナ禍に立ち向かおうとした。その気持ちが、安倍という人間には皮相的にしか理解されていない。そのことは、今の話でよくわかる。

竹 もう一つ、重要だと思うのは、星野はプロなのだから、安倍の側から敬意をもって「使わせてほしい」と断らなければならないはずだ。芸能人、アーチスト同士だと同じ地平にいるから、この動画の場合は不要だと思うが、政治という全く違うレベルで使うのであれば、事前の断りは必要だろう。

松 この問題は「政治と芸術」という古くて新しい問題につながる。芸術、文学、絵画、音楽は、これまで表面のメッセージだけが政治的に利用されてきた。その代表がスターリンであり、ナチスドイツだった。今の時代に無神経にこのようなことが行われるのはとても不可解だし不愉快だ。

竹 安倍がこの問題に浅い理解しか持ってないことは、自粛問題の経緯を見てもわかる。コロナ禍で多くのイベントが自粛させられてきたが、その結果、多くのアーチストが収入減に追い込まれた。それに対して政権は全く冷淡だったが、星野の動画にはちゃっかり乗っかっている。

梅 そういえば、誰だったかアーチストが、同じ感想を言っていた。

竹 「政治と芸術」という大テーマに行かないまでも、日本の行政権力のトップが今しなくてはならないことは、家で紅茶を飲んでいる姿を見せてみんな家にいよう、と伝えることではないのではないか。

 

メルケル演説の格調

松 この点で、ドイツのメルケル首相の演説が心に残った。未曽有の危機をみんなで乗り越えましょうというものだが「苦労して勝ちとった旅行および移動の自由は、絶対に必要な場合以外は制限されるべきではない。そうしたことは、民主主義社会では決して軽々しく決められるべきではない。しかし今、命を救うためにそれは不可欠なのです」と訴え「思いやりをもって理性的に行動し、そのことで命を救うことを示さなければならない」と結んでいる。安倍の動画とえらい違いだ。

竹 ドイツは、詳細はまだわからないが文化芸術分野についても支援を重視すると言っている。日本はこの分野での自粛による損失が500億円余りと推定(415日付朝日)されるが、緊急経済対策に盛られた支援策は数10億円の微々たるものだ。

松 メルケルは東ドイツの出身で、東西二つの体制を生き延びてきたからこそ、民主主義社会での自由の意味と価値を知っており、苦渋に満ちた国民への訴えが響くのだと思う。その点から見れば、何度も言うようだが、なんと安倍動画の無内容で軽薄なことか。緊急事態宣言の際も、20分の演説はしたが心に響く内容ではなかった。今さら期待してもしょうがないが。

竹 ドイツはいま感染者13万人に対して死者が3000人余り。死亡率は2%ぐらいで、数字で見る限り医療崩壊には至っていない。イタリア、スペイン、フランスとは違って、かなり頑張っている。

梅 ドイツには世界に冠たる医療という自負もあるだろう。

松 メルケルの演説は、民主主義社会や人間の存在の深いところでのつながりあいがコロナ禍を乗り越えるカギだ、と訴えている点で、むしろ安倍ではなく星野の歌とつながる。

 

コロナ禍での失敗の数々

松 日本の対応をみると、失敗の連続だった。双璧はクルーズ船での水際作戦の失敗とPCR検査を広げなかった判断だ。しかし、この判断ミスを「ミス」と認め、方向転換するという声がどこからも上がらない。

竹 かつて戦争へと突入した日本人の精神構造はちっとも変わっていないなとしみじみ思う。根拠のない楽観主義、そのうち神風が吹いてなんとかなるさ、という先送り主義。責任をとらなければならない局面になると、途端に自分を卑下する。これは、安倍が国会でよく使う手だが。丸山真男が「無責任の体系」ととらえた精神構造は今も生きている。

梅 コロナ禍がどうなるか分からないが、最終的に失敗した時、だれが責任を負うのか。

竹 緊急事態宣言の時、記者の質問に答えて安倍ははやばやと責任をとらないことを表明した。

梅 その割には、東京都の休業要請で国は随分口を出している。

竹 口は出すがカネは出さない、責任も取らないということだろう。

松 アベノマスクや星野動画への悪乗りも含めて言えば「首相、それはちょっと…」といさめる人間がいない。側近がイエスマンばかりだ。菅、加藤勝信、西村康稔…。安倍は裸の王様状態だ。こんな人間に、国民は命を預ける気にはならない。

竹 中曽根康弘首相は後藤田正晴を官房長官に起用した。二人はタカ派とハト派で、思想的にはまるで違う。それを承知で起用した。それがよかった。そこが中曽根と安倍の懐の深さの違いだろう。



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病原菌には文明を滅ぼす力がある~三酔人風流奇譚 [社会時評]

病原菌には文明を滅ぼす力がある~三酔人風流奇譚

 

松太郎 4月も間近。毎年この頃にはプロ野球が始まり、Jリーグもたけなわで心躍るが、今年はシーズン開幕の見通しさえ立たない。

竹次郎 最新の数字(3月29日現在)で全世界の感染者64万人、死者数万人超。これからアフリカ、中東がどうなるか。コロナウイルスよ、宇宙のどこかへ行ってくれ、という気分だ。世の中全体、盛り上がらない。

梅三郎 今回のコロナウイルスがもたらしたものは何か。地球上の最強の生物として君臨した人類が築き上げた文明がいとも簡単に崩壊しかねない、ということだった。

松 確かに。ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」には、スペインがなぜあれほど簡単にインカ帝国を滅ぼしたか、という考察があるが、要因としてタイトルにもある「病原菌」の存在が大きいとしている。ユーラシア大陸の家畜からヒトに移った10種類ほどの伝染病【注】が新大陸に伝播し、亡くなった人数は銃や剣によって殺された人数をしのぐ、と書いている。背景として新大陸にはほとんど家畜がおらず、似た病原菌がなかったため耐性がなかった、という。今日の状況と似ている。

竹 経済評論家・内橋克人の言だが、災害はそれに見舞われた社会の断面を一瞬にして浮上させる。病原菌についても同じことが言え、同時に一つの文明を滅ぼす力があるということだ。侮ってはいけない。

梅 侮ってはいけないのだが、日本での検査数の少なさをみると、侮っているとしか見えない。

松 安倍晋三首相は、28日の会見でも検査の促進を訴えた。それなのに検査の数は増えない。背景にどんな力が働いているのか。検査を進めて実態を把握することが第一歩だろう。

竹 疫学的に、一定の地域でサンプル調査をして潜在的な感染者がどのくらいいるか調べるべきだ、と主張する学者もいる。例えば東京の場合、この1週間で陽性化率は10倍になったが、奇妙なことに検査数はほとんど変わっていない。陽性化率が上がったということは感染者の絶対数が上がったということ。なのに検査数が増えないのは、どこかでせき止めているということになる。

梅 日に万単位の検査をしている国から見れば、日本は不思議な国と映るだろう。公表された感染数の100倍ぐらいは潜在的にいるのでは。

竹 ただ、日本での致死率は3%ぐらいで、全世界の平均5%と比べてもそう高くない。イタリアは10%ぐらい、スペインは7、8%ぐらいだ。

梅 医療崩壊が起きた国とそうでない国とで単純な比較はできない。医療崩壊が起きていない国としては、日本はむしろ高いほうだ。ドイツなど1%を切っている。背景には、日本での潜在的感染者数の多さがあるように思うが…。死後、あるいは重症化した後に感染が判明した数が多いのではないか。

松 そこは医学者でないので断定はできない。ただ、いえるのは日本では社会が合理性ではない何かによって動く、という不気味さだ。だれもが「やりたくない」と思っていた戦争を止められなかったあの時代と同じ空気だ。

 

強権発動を望む若者たち

 

竹 小池百合子知事が突然、首都封鎖をちらつかせた。ありうる措置だろうか。

梅 日本には強権を発動するための法的根拠がないので、強制はむつかしい。

松 官邸も、その辺りは慎重だ。しかし、それは「非常時には、やはり強権発動のための体制がなければ」というための布石にも見える。

竹 憲法に緊急事態条項がいる、という例の…。

松 「コロナ後」にはその主張が強まるかもしれない。

梅 テレビで都内のどこかの繁華街にたむろする若者へのインタビューがあり「強制でないということはそれほど深刻ではないということ。僕らに判断をゆだねるというのは無責任だ」という声があった。そう思っているとしたら、深刻に受け止めなければならない。外出禁止なのに外を出歩いて体罰を加えられたり、拘束されたりする外国の映像が流されているが、そういう国を望んでいるのか。強権的に規制されるより、行動はそれぞれで判断せよという方がよほど成熟した、ましな国のはずだ。

 

ご免こうむりたい悪夢のシナリオ

 

松 そうそう、オリンピックも延期になった。

竹 来年夏の開催が有力だが、結構な賭けだ。日本はともかく、世界をみるとそれまでに終息しているかは微妙では。

梅 既に言われていることだが、首相の任期が来年月に切れることと大いに関係がありそうだ。

松 首相は、自分がいる間にやりたいだろう。しかし、開催できなかったら退陣もある。

梅 逆に言うと、開催できたらもう一期ということになりかねない。コロナ禍克服と五輪開催の功績で…。

松 そうなると悪夢だ。そういうシナリオはご免こうむりたい。

竹 しかし、今回のことでつくづく思うが、日本人のなんと従順で忍耐強いことか。

松 公文書改ざんで自殺した近畿財務局職員の遺書に対する国会での対応ぶりをみても、これは人としてどうなのか、という気分になる。検察は手を付ける気はないので、民事に頼るしかないが…。

梅 東京高検のトップは、例の官邸お気に入りの人物だから。「桜を観る会」もそれっきりだし。

松 オリンピック関連では、聖火リレーがあるのかないのか。

竹 あれはギリシャとゲルマンのつながりを強調するためヒットラーが始めたもので、いまだに続いている。いい機会だからやめればいい。

梅 そういえば、ヒットラーは初の聖火リレー後、ベルリンからギリシャへ、まったく逆コースをたどって電撃侵攻をした。五輪開催の年後だ。聖火リレーは侵攻のための下調べだったのではともいわれる。

松 沢木耕太郎は「オリンピア ナチスの森で」で、その説に否定的な見方を書いている。ナチスは当時、世界最高水準のインテリジェンスを持っていたので、わざわざそんな回りくどいことをする必要はなかったという。私もそう思う。

 

消費税ゼロこそ最も効果的

 

松 コロナ禍はヒト自体にも痛手を与えるが、経済を弱らせ最終的に文明崩壊につながりかねない、ということを今回学びつつある。経済対策をどうするかも大きなテーマだ。

竹 米国は経済対策に200兆円を超す巨額をつぎ込むらしい。日本の予算の年分だ。日本も、28日の会見で首相がリーマンショック時を上回る規模と明言したので、事業規模56兆円以上は確実。ドイツの90兆円と同じ規模になるのでは。単年度の国家予算並みだ。

梅 それにしては、中身がお粗末だ。お肉券とかお魚券とか…。自らの支持基盤をにらんだ、完全に利権がらみの思惑だろう。そんな話、このタイミングでするか、という感じだ。

松 そもそも、経済対策なのか困窮者救済なのか。そこをはっきりしないと迷走する。どちらかをとるか、あるいは二択にできないなら両方を、意図をはっきりさせて対策を打つ。経済対策としてなら消費税をゼロにするのが最も効果的なのは分かっている。しかし、財務官僚が反対することも分かっている。そこで、官僚の代弁者にすぎない麻生太郎財務相が早々と否定して盛り上がらなかった。

竹 それにしても、ケンカ腰の猿のような顔で記者を威圧する麻生は、ニュース映像が流れるたび不愉快になる。どうにかならないものか。

梅 まあ、その話は置いといて、まず消費税をゼロにする。それが無理なら5%にする。2018年度の消費税収入は20兆円弱だから、その後の税率アップ分を計算にいれても不可能な額ではない。その上で、飲食店や観光業など困窮している人には状況に応じて現金、いわゆる真水を配る。もともと単純な話なのに、自民党内の事情で複雑なことになっている。

松 消費税を上げた時もいろいろ救済策が取られたが、ほとんど効果はなかった。消費税は消費のブレーキだから、ブレーキを外せば車の速度は上がる。ぜひそうしてもらいたい。ただ、財務官僚は再引き上げのことを考えて反対する。

梅 そこは、初めから期限を切っておけば問題ないのでは。

 

【注】インカ帝国とアステカ帝国を滅亡に導いたのは、ヨーロッパでローマ帝国時代に猛威を振るった天然痘とされている。J・ダイアモンドはこのほか、新大陸への「とんでもない贈り物」として、以下の伝染病を挙げている。麻疹、インフルエンザ、チフス、ジフテリア、マラリア、おたふく風邪、百日咳、ペスト、結核、黄熱病。

 


文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)

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  • 出版社/メーカー: 草思社
  • 発売日: 2012/02/02
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言語が力だった時代~映画「三島由紀夫vs.東大全共闘 50年目の真実」 [社会時評]

語が力だった時代~

映画「三島由紀夫vs.東大全共闘 50年目の真実」

 

 1969年5月13日、東大駒場である討論会が開かれた。保守系知識人としての地位を確立した作家・三島由紀夫(三島自身は「知識人」と呼ばれたくないだろうが)と、この年月に安田講堂攻防戦があったばかりの東大全共闘約1000人。記録映像がTBSで見つかり、豊島圭介監督のもと、当時の取材者や時代の空気を知る知識人らのインタビューを交え、再編集して公開された。三島はこの年半後に自衛隊市ヶ谷で隊員に蹶起を呼びかけ、受け入れられず割腹自殺した。豊島は1971年生まれ、三島の死後に生まれた世代である。

 サブタイトルに「50年目の真実」とある。「真実」とは何か、映像では判然とはしなかったが、それはひとまず置く。ただ、映像は50年後、つまり今の視点で編集されたものであることは頭の隅に置きたい。「50年」を強調することで「時代」という額縁をはめ、両者が漂わせる不穏さ(今の時代に決定的にないもの)を解毒する作業が結果的に行われているように思えるからだ。

 そのうえで言えば、三島は思ったより紳士的? に対応している印象だった。別の言葉を使えば、壇上で「忍耐の人」であった。三島は「大正教養主義から来た知識人のうぬぼれというものの鼻をたたき割った」と全共闘に共感を示したが、ある種の媚びにも聞こえる。内田樹がブログで書いていたが、後の「蹶起」を念頭に「楯の会」のリクルート活動を行っていたのかも、という見方も否定できないという印象だった。

 当時、別の大学にいた私がこの討論会の内容を把握したのは活字によってであった。たしか「美と共同体と東大闘争」とサブタイトルがついていた。大学を出る時に売ってしまった。映像を見たうえで言えば、もはや討論を一字一句追ってみても意味はないと思う。50年もたてば、さすがに時代が違う(先の「時代感の強調」の指摘と矛盾するかもしれないが)。

 そんな中で「今の時代」に射程を持つ主張をしていたのは芥正彦だった。乳児を肩車して壇上に登った「東大全共闘随一の論客」である。あらゆる権力と時間からの解放区を唱え、在学中も今も演劇集団を率いる。三島を「敗退者」と断じ、それは「内容が即形態であり、形態が即内容である」表現行動をとらないからだ、と批判した(つまり、自己と一体化した表現がそのまま現実に刺さらなければ意味がない、ということだろう)。

 「天皇」に関しては、両者にそれほど差があるとは思えなかった(これは当時から言われたことだ)。三島は現存する天皇ではなくイメージとしてのそれを言っており、芥の言葉「内容が即形態であり、形態が即内容である」に戻れば、全共闘のいうバリケード空間=解放区と、レーゾンデートルという点でどれほど違うのか、ということだ。

 討論を映像で紹介した後、何人かの証言あるいはコメントがつながれていた。興味深かったのは、全共闘のメンバーとされた人物の「その後」の生きざまである。高橋和巳が「憂鬱なる党派」で書いたように、運動は終わっても人生は続く。このことを受け入れたくなかったら自殺するしかない。卒業後に地方公務員になった木村修、除籍され、予備校講師を勤めながら在野の評論家になった小阪修平(故人)、学者になった橋爪大三郎らがいる中(内田樹はこの討論会の翌年に東大に入った)、だれの発言か思い出せないが「後ろめたさと向上心を抱えて」社会で生きてきた、というのが、実感がこもっていた(もっとも「向上心」は美化しすぎでは。目の前の梯子段をともかく登らねば、という動物的反応のように思う)。

 「全共闘運動は敗北と認めるか」の問いに、一人だけ笑って否定したのが芥だった。「あなたの国ではそうかもしれないが、私の国では違う」という理由だった。一貫して「王国を作り、そこに住んだ」から言えるセリフではある。しかし、多少の想像を交えて言えば、あの時代の空気を吸って生きてきた者は、多少なりとも「我が王国」を作り、時にそこで息をひそめてその後を生き延びたのではなかったか。

 これも芥の言葉だったと思うが「言語が媒体としての力を持ちえた最後の時代」とする総括があった。映像は討論会から市ヶ谷で演説する三島とそれを聞く自衛官に切り替わったが、言葉の射程は確実に自衛官より全共闘の学生にあった。製作者がどこまで意識したか分からないが、三島にとっての痛ましいほどのアイロニーがそこにあった。

 今さらではあるが今の時代の、政治、社会、メディアに飛び交う空疎な、言葉らしきもの、を見るにつけ芥の言辞は響いてくる。そして、私の内側に一つの問いが立ち上がる。思想的に困難なのはあの時代だったか、それとも今か。

 

三島と全共闘.jpg

 


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社会システムの脆弱性あらわに~三酔人風流奇譚 [社会時評]

社会システムの脆弱性あらわに~三酔人風流奇譚

 

「新型コロナウイルス」で見えたもの

 

松太郎 今年に入って新型コロナウイルス感染騒動が地球を覆っている。

竹次郎 中国・武漢を発生源とし、中国全土で万人の感染者を出したかと思えば、あっという間に日本、韓国、ヨーロッパへと飛び火した。

梅三郎 よく分からないのは、北朝鮮が「感染者ゼロ」としていること。表向きはともかく中国と人的交流があるのは間違いなく、それで感染者ゼロはありうるのか。感染者は強制隔離しているとか、処刑しているという極端な見方まで出ている。

松 まあ、感染者はいるが北朝鮮当局がひた隠しにしていると見るのが妥当だろう。ロシアも、感染者が2ケタ前半というのはちょっと信じられない。2つの国とも、表向きは強面だが政治システムとしては脆弱だ。だから隠さなければならないのでは。

竹 逆に、イタリアの感染者の多さと致死率の高さは異常だ。なぜだろう。

松 ベルルスコーニは毀誉褒貶の激しい政治家だが、彼が行った財政再建策で医療体制が犠牲になり、そのほころびが出たという説もある。

梅 米国は少し遅れてはいるが、これからどうなるか。爆発的に増えるとすれば米国ではないか。発生源の中国が収まりかけているだけに注目だ。

竹 確かに。米国はこれから日本と同じでスポーツシーズンに入る。米国の場合、テレビ放映権料というビッグビジネスが絡むから、日本のように無観客試合とは簡単にいかないだろう。大統領選候補者選びの集会も簡単には中止できない。

梅 地球上で人口の多い地域といえばアフリカ、中東。この地域でパンデミックが起きると怖い。

松 そんな中で、日本の対応は。

竹 さんざん言われているが、やはり後手後手に回っている感はぬぐえない。もっとスピード感ある対応はできなかったか。

梅 遅いとともに、極端から極端へぶれる印象がある。小中高の全国一律休業の「要請」もそうだ。

竹 もっとも首相サイドからすれば、あくまで「要請」なので従わなくてもいいという抜け道はある。

梅 戦時中の天皇の発言のようだ。無答責の天皇が感想めいたことを言えば、それが絶対的な命令のように受け取られる。後で問題になれば、周辺が「命令」であったことを否定する。そうして政治責任から免れる…。

松 やはり気になるのは、中国全土からの入国者を禁止したことだ。なぜこのタイミングで? というのはある。中国ではウイルス抑え込みが見えてきている。

竹 習近平国家主席の来日が延期されたことが、どう見ても直接の動機だろう。来日延期前に入国禁止措置は取りにくかったのでは。菅義偉官房長官は否定しているが。

 

政治システムと官僚

 

松 今回のウイルス騒動で顕著だったのは、官僚組織の脆弱性だ。それがそのまま日本社会の脆弱性につながっている。

竹 どういうことか。もう少し詳しく。

松 まず、厚労省が当事者能力を失っていた。「ダイヤモンドプリンセス」の隔離についても、初期対応を誤ったのは厚労省官僚の判断ミスのためだ。この件は神戸大医学部の岩田健太郎教授が鋭い指摘をしたが、あっという間に消された。おそらく指摘が的を射ていたために、どこからか圧力がかかったのだろう。

梅 ウイルス対策として水際作戦をとるなら、その「水際」はどこにあるかは、すべての人に見えていなければならないが、終始見えなかった。船内のどこかか、岸壁のどこかか。そのラインの内側と外側で当事者のウイルス対応は鮮明に分かれているはずだったが、見えてこなかった。岩田教授もそこを突いた。

竹 そもそも、専門家会議のメンバーがどんな構成なのか見えない。

松 メンバーは国立感染研の所長を座長として12人。これはネットで公開されている。感染症の専門家のほか弁護士が1人入っている。

梅 岩田教授は感染症の防護システムについての専門家のようで、経歴を見る限りだが、そちらの知見もありそうだ。こうした人は専門家会議にいるのか。

松 そこまでは分からない。

竹 専門家会議と銘打っているが、むしろ感染症というフィールド外の人材を入れるべきでは。メディアとか社会工学とかの専門家を入れればもっと違った提言ができるはずだ。

松 うーむ。それはどうかな。難しいところだ。科学とメディアをシステム工学的に結び付け最高水準のプロパガンダの仕組みを作ったのがナチスドイツで、遺産は戦後の米国に引き継がれた【注】。そこは賛否両論あるだろう。

竹 これまでの日本では、いわゆる専門家の知見を社会工学的に翻訳してきたのが官僚組織だ。その官僚組織が機能しなくなってきた。そのことがダイヤモンドプリンセスの失敗、PCR検査体制の立ち遅れという、如実な現象となって現れた。しかし、最後は政治が決断し責任を取るしかない。

 

脆弱性の源流は

 

梅 官僚組織の機能不全については同感だ。なぜこうなったのか。

松 官僚主導で戦後日本の高度経済成長が成し遂げられたが、成長も減速し社会構造が変わる中で政治主導が叫ばれた。そこで官邸による霞が関の人事権掌握がなされた。ここまでは流れとしてはよかったかもしれないが、それならそれで主導権を握る政治の側に高邁な理想、高い倫理性がなければならない。いわば社会の青写真だ。それがないために、いたずらに霞が関官僚を堕落、腐敗させるだけになってしまった。官邸さえ見ていれば上昇できるという…。

竹 国家公務員法の「解釈」変更による検事の定年延長も、この線上でとらえられる。なんとも情けないことだ。

松 今回のコロナ対策では、政治の側の脆弱性も見えた。例えば加藤勝信厚労相、萩生田光一文科相、新たにコロナ対策担当に任命された西村康稔経済再生担当相ら、いずれも安倍晋三首相の側近だ。多少政権に遠くても能力を見込んで登用した、という人事が見えない。こんなところにも政権の懐の浅さが見える。検事のごり押し定年延長と合わせて読めば、政治を脆弱にした政権の特質が見える。

梅 背景にあるのは小選挙区制度導入という国家的失敗だ。現職と与党が圧倒的に有利なこの制度下で、無知無能な安倍政権が長期化してしまった。少なくとも安倍政権は早く辞めさせないと、官僚組織だけでなく日本の根幹をなす社会システムまで破壊される。今回の新型ウイルス騒動は、感染者対策だけでなく日本の屋台骨を蝕むシロアリの脅威まで白日にさらした。

松 そうしたタイミングで「非常大権」による私権制限が可能になった新型インフルエンザ等対策特別措置法改正が3月13日にも成立する。ナチスドイツのようなワイマール体制の「アリの一穴」とならなければいいが。

 

【注】本ブログ「現代を生き延びるファシズム~濫読日記 『ファシスト的公共性 総力戦体制のメディア学』(佐藤卓己著)」参照。

 


ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学

ファシスト的公共性――総力戦体制のメディア学

  • 作者: 佐藤 卓己
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2018/04/05
  • メディア: 単行本

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自立した個人を認める社会に・映画「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を観て~社会時評 [社会時評]

自立した個人を認める社会に・

映画「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を観て~社会時評

 

 昨今の安倍晋三政権の腐敗ぶりは目に余る。森友学園、加計学園疑惑に続いて、今度は「桜を見る会」である。見境なく「お友達」に招待状を送る。後援会パーティーの会計は「なあなあ」、ばれれば子供だましの方便で言い訳をする。森友、加計に通じる体質が見え隠れする。国民の知る権利がないがしろにされる。国会における野党、社会におけるメディアの力が弱体化した(弱体化された?)結果の体たらくである。

 「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を見た。最近、話題に上ることの多い東京新聞社会部の望月衣塑子記者を追った。監督はオウム真理教を題材にした「A」「A2」、佐村河内守を追った「FAKE」の森達也。

 沖縄、森友、加計問題、前川喜平元文部事務次官問題を通じ政治権力と闘う望月記者に密着。彼女のタフネスぶりに驚嘆するが、一方で「森ドキュメンタリー」に共通するあるシーンに気づく。映像のフレームに、さりげなく森が入ってくる。第三者でなく、あくまで森の映像と主張する。

 このドキュメンタリーを、安倍政権対反・安倍政権の構図でのみとらえるのは、適当でないように思える。

 問題なのは組織ジャーナリズムの横並び意識であり、その上に乗った官邸のメディア操縦術である。結果として国民の知る権利はなおざりにされ、政権は専横な振る舞いに終始する。作中、籠池泰典氏の言葉だったか、安倍政権は、国民はバカだとタカをくくっている、嘘をついてもすぐ忘れてしまう、というのがあった。こうした政権の傲慢な態度がまかり通るのは、結局は国民の知る権利をないがしろにし、批判に耳をふさいだ結果であろう。

 しかし、繰り返される菅義偉官房長官とのバトルでも、望月記者は孤独である。だから、官邸は巧妙にそこをついてくる。では、どうすればいいか。望月記者を孤立させないことである。それは政党、市民運動、労組が支援すればよい、ということではない。

 森が言いたいことも、そこだと思う。組織ジャーナリズムが横並び意識を捨てること。記者が自立的に動くことをきちんと認めること。結果として、政権に不都合な振る舞いがあれば批判、修正の圧力が働くこと。右とか左とか関係ないのである。ドキュメンタリーの最後で、1944年8月25日のパリ解放の映像が挟まれていた。このとき、ナチスに協力した人々1万人が正当な手続きなしに命を奪われた、とのナレーションがかぶせられた。ナチスにしても反ナチにしても、集団が一色に染まることはいいことではない、とこのドキュメントは締めくくっていた。

 自立した個人を認める社会、一人称単数の主語を大切にする。その視点こそがいま問われているのではないか。タイトルにある「i」の意味もそこにあると思う。だから、森もフレームの中で背中を見せている。

 それにしてもこの映画、広島県内の上映館は尾道市内と広島市内の各1カ所。なんという寒々しさか。


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いま必要なのは政権交代だ~三酔人風流奇譚 [社会時評]

いま必要なのは政権交代だ~三酔人風流奇譚

 

◆原発をめぐる深い闇

A)関西電力の経営陣が、福井県高浜町の元助役(今年3月死亡)から3億円余り相当の金品を受け取っていたことが分かった。

B)国税当局の調査で発覚し、昨年夏に関電自身が調査したところ、社内の20人に渡っていたらしい。会長、社長が会見し、元助役の森山栄治氏が特異な個性の持ち主で、要するにすごまれて怖かったから返せなかったと子供の使いのようなことを言っていた。構図としては森山氏がもうこの世にいないので「死人に口なし」、森山氏にすべて罪を擦り付けようとしているように見える。

C)その後、関電の幹部が金品を受け取ったのは森山氏だけからではなく、原発関連工事を請け負った建設業者からもあったらしい。

B)元々の情報の出どころが関電自身の内部調査だから、自らの罪状はできるだけ小さく見せようとするだろう。外部の手が入れば、もっと話は大きくなるだろう。

A)そうなると、完全にこれは原発マネーの還流と受け取れる。贈収賄や特別背任罪の成立が濃厚では。

B)当初は、一方の当事者である森山氏が故人のため立件は難しそうとみられていたが、現存する業者が絡んでいれば追及の余地はある。

C)それにしても、国論を二分する、おそらく世論調査では過半数が反対するであろう原発をめぐってこれほどの闇を見せつけられては、原発政策を前に進めるのはもう無理だろう。

 

◆正義が正義でない時代

A)9月19日には東京地裁で、福島第一原発事故をめぐり東京電力トップの責任を問う裁判の判決があった。津波予見は困難だったと、3人に無罪判決が下った。

B)もともと15.7㍍の津波予測は出ており、東電内部でも検討されたがコスト面から対応策はとられなかった。カネがかかるからやめておこう、と判断したら直後に10㍍を超す津波が来たというわけだ。それなのに、そういう経営判断をした当事者は、なんら責任を問われなかった。

C)判決で、さらにおかしいのは「絶対的な安全確保を前提とすれば原発は稼働できない」としている点だ。「絶対的な安全」というのはあり得ないでしょ、といってきたのは原発に反対するグループの方で、いや原発に限っては絶対的な安全を守ります、といってきたのは原発を推進する側だった。判決は開き直りの論理で、それをいうなら原発やめましょう、となる。

A)「あいちトリエンナーレ」も奇妙な雲行きだ。愛知県知事が再開を目指すと言っているが、国が補助金を出さないと言い出した。

B)NHKのかんぽ報道をめぐっても、おかしなことが起きている。問題を取り上げた「クローズアップ現代+」に郵政側が抗議、NHK経営委員会がNHK会長に抗議したというものだ。おまけに郵政の副社長は元総務事務次官だった。現場そっちのけでパワーゲームが行われている。

C)いずれのケースも、目立つのは組織内の風通しの悪さだ。正しいことが正しいといえない雰囲気が見て取れる。最近、やたらと「ガバナンス」という言葉が飛び交うが、裏を返せばそれだけ組織が機能不全に陥っている。

A)最近、テコンドー協会が選手に総スカンを食って批判されているが、全く他人事とはいえない状況だ。似たようなもの、といっていい。

B)テコンドー協会に限らず、どこもが機能不全に陥っているようだ。

 

◆「日本病」だれが立て直す?

C)元号が平成から令和に変わり、平成の30年をそれなりに総括する試みが見られるが、ほとんどがこの30年を否定的に見ている。

A)吉見俊哉著「平成史」を読んだが、共鳴する部分が多かった。日本は明らかに空洞化し没落傾向にあるが、そのことをだれも声を大にして言わない。あるいは、そのことの認識がないのだろうか。経済指標を見ても、明らかに今の日本は30年前とは違う。違っていいのだが、ではそのことをきちんと認識して政治が行われ、民が暮らしているかといえば、違う気がする。日本の人口構成も、かつて人類が経験したことがないような異常な事態に直面しているが、あまり危機感がない。相変わらず、企業を優遇していればそのトリクルダウンが民のもとに届くという政策を取り続けている。それが幻想だととっくにばれているのにだ。

B)この30年を表すキーワードは失敗、漂流、空洞化、そして自己喪失だった。それらをひっくるめて「日本病」と呼んでもいいかもしれない。かつて「英国病」があった英国にはサッチャーがいたように、日本にも誰か新時代の政治家が現れなければならない。

C)それは小泉進次郎のような?

B)彼はとっくに馬脚を現した。あのクラスでは無理だろう。いま必要なのは、国のグランドデザインを変える力量と哲学を持った人間だ。人口構成にあった経済政策、地球が直面したエネルギー事情に見合う環境政策、そしてなにより、極東アジアにきちんとした足場を持てる国の針路図を描ける政治家。こうしたものが描ける政治家、政党がいなければ、日本は滅びるだろう。いつまでもトランプの「ポチ」で通用する時代ではない。

C)そういえば、北朝鮮がSLBMの大陸間弾道弾発射実験を行ったとき、日本海には自衛隊のイージス艦が1隻もいなかったという。アメリカ任せが招いた防衛の空洞化だ。

A)とりあえず必要なことは、安倍政権の現状を変えること。そのためには政権交代が必須条件だろう。安倍政治をそうざらえしてきちんと批判することから始めないと。

 


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参院選・吉本・京アニで思うこと~三酔人風流奇譚 [社会時評]

参院選・吉本・京アニで思うこと~三酔人風流奇譚

 

「投票に行こう」だけでいいのか

 

松太郎 最近の世相を映した三つの出来事は低調な参院選、吉本興業をめぐるドタバタ、それから、京都アニメーションで35人が亡くなった放火殺人事件、というところか。

竹次郎 参院選は投票率が50%を割り、史上ワースト2の48.8%。その中で自民、公明の与党勢力が過半数を維持。半面、改憲とみられた勢力が3分の2を割った。これが世相を映しているかどうか…。むしろ、世間の関心を呼ばない、世相を映していないからこその問題という気がする。

梅三郎 でも、立候補者の顔ぶれや政党を見ると、とてもどこかに入れようという気にはならない。メディアは盛んに「投票に行こう」とアピールしていたが、入れたいと思う対象がないのに、わざわざ投票所に足を向けないだろう。

松 注目されたのは山本太郎のれいわ新選組。旗揚げ3カ月余りで、党で200万票余、山本個人も99万票を集めた。このあたりに、政治の閉そく状況を突破するカギがありそうだ。

竹 朝日新聞だったか、保守と革新のイメージを世論調査で問うたところ、若者層では保守とは公明、共産、革新は維新、という結果だった。共産や立憲民主を革新、自民を保守と見る高齢者層とは全く違っていた。政治の変革を考える糸口がありそうだ。

松 参院選で1819歳の投票率は30%を少し上回るぐらいで、3人に2人は投票に行っていない。しらけているのがよくわかる。その中で、行き場のない票がれいわ新選組に流れた。

梅 れいわ新選組が、新しくできた比例特定枠を使って重度障碍者を国会に送りこんだのも、新鮮な手法だ。頭や口先だけでなく、ALS患者や脳性麻痺患者の置かれた立場を国会は否応なく考えなくてはならなくなった。
竹 公明が前回の参院選より比例で100万票減らしたことも転機を象徴する出来事。ただ、低投票率のおかげで議席は過去最高タイの14議席だったが。

松 こうなってしまうと、中途半端に「投票に行こう」ではなくて、「投票に行くな」という運動があってもいい。一度落ちるところまで落ちないと政治は変わらない。

梅 気持ちはわかるが、その時には民主主義とは何だろう、ということも併せて考える必要がある。

 

権力への風刺こそお笑いの原点では

 

竹 吉本興業をめぐる問題は、もともとタレントが反社会勢力からカネをもらっていて、そのことを隠していた、というところから出発した。それが吉本の経営体質や前近代的なタレント操作術への批判になった。

梅 おそらく、そうしたトラブルは昔からあったのだろうが、今はSNSがあるから、すべて世間に筒向けになった。

松 この話はワイドショーや情報番組でさんざんやっているからあまり繰り返したくないが、気になるのは、社長会見でも強調していた「うちの会社はファミリーだ」といういい方。ある集団が家族主義だのファミリーだのというとろくなことがない。不満があるときにそれを覆い隠す、フタの役割として「家族主義」というのは機能する。危機に陥ったときに集団や組織が保護する役割を担うのかもしれないが、それは1割。あとの9割は弱者を集団に従属させるための方便だ。

竹 ダウンタウンの松本人志が吉本の大崎洋会長、岡本昭彦社長と会談したとたん、社長が会見して宮迫博之、田村亮への処分撤回と見直しを発表するに至った。反社会勢力からカネをもらい、一時それを隠していたことの責任を会社も含めどうとるかの整理はなされないままだ。会長、社長はダウンタウンの元マネジャーで、松本との関係が深いとされている。この辺の事態の動き方を見ると、吉本という会社は3人の権力トライアングルで成り立っているのかという闇の部分を感じさせる。

梅 松本批判をしたために干された、というタレントの話もいくつか出ている。例えばオリエンタルラジオ。彼らも突然テレビから消えた。

竹 「ファミリー」発言は、戦前、戦時中の家父長主義を引きずっていると思えばいい。テレビで「伝説のマネジャー」と称する人物が出てきて、売れてない芸人からは9割かそれ以上を事務所が取り、大御所と呼ばれる芸人は2、3割が事務所へ行く、というのを当然のように言っていたが、やはりそれはおかしい。世間の常識では、それは搾取だ。

梅 そうしたことを許す温床として口頭契約があるのではないか。スケールメリットという考えがおそらく事務所にはあって、それで6000人も抱えているのだろうが、やはりそれはおかしい。それを許すのは、一発当たれば儲けものという芸人稼業のギャンブル性にあるのだろうが。いずれにしてもいい風潮とはいえない。

松 吉本は2025年の大阪万博など多くの行政案件を手掛けるようになった。これには疑問を持たざるを得ない。反社会勢力とのつながりが疑われることや、経営陣がパワハラ発言をしていること、下層芸人への搾取疑惑などももちろんだが、もともとお笑いの芸人を抱えてやっている会社が政治権力と結びつくのがどうなのか。皮肉と笑いで権力者を風刺してこその会社であるはずなのに。

梅 以前、安倍晋三首相が吉本新喜劇に出てきて非常に違和感があったが、そこにも通じるような気がする。風刺こそお笑いの原点だろうに。

 

「孤独な復讐」をなくすには

 

竹 京アニの事件は悲惨だった。放火が疑われている男(7月28日現在、重篤のため未逮捕)の人生も、週刊誌などで少しずつ出てきているが、やはり悲惨だ。だからといってやったことが許されるわけではないが。父親が再婚で3人の子を設けたが母親が家を出ていき、数年後に父が自殺して子供たちは離散状態となったらしい。

梅 犯行の状況を見ていると、まるで自爆テロだ。最近、よく起きている大量殺傷事件をみると、いずれも憎悪の対象をある種の集団に見つけ出し、そこに攻撃を仕掛ける。

松 5月末にあった登戸のスクールバス襲撃もそうした傾向だった。通り魔殺人だが、記憶に新しいのは秋葉原の事件。2008年に25歳の男が17人を殺傷した。「だれでもよかった」という供述が、その後の事件でも見られた。

松 「だれでもいい」とは、個人ではなく社会全体、または社会のある層を攻撃の対象にしている、ということ。京アニの事件では、アニメーション製作という仕事を見つけ、そこに情熱を注ぐ自分と同世代の人間がいることに腹立たしさを覚えたのではないか。もちろん、本人に聞いてみないとわからないが。秋葉原ではある種の先端文化に夢中になっている人々にテロを仕掛けたし、登戸では、自分の行けなかった学校に毎日スクールバスで通う児童たちに憎悪の目を向けた、というのは十分考えられる。

竹 仕事がない、引きこもりなどの理由で社会の外側にいると、見えてくるものがあるのでは。その時、他人には容易に入り込めるが自分は立ち入れないという現実を突きつけられて孤独な復讐を企てる人たちは必ずいる。その人たちが個人への復讐でなく、社会の壁に対して暴力的に突破を図る、ということはあるだろう。それは結局、社会システムの問題であり、政治の問題になる。

梅 先日、ある情報番組でキャスターが参院選の結果より吉本興業の問題が優先される報道の在り方はおかしい、と疑問を呈していたが、これはおかしいと思う。吉本の芸人も政治家も基本の部分でやっていることは一緒で、大衆の心をどうつかむか、だ。大衆の心をつかめない政治はこの体たらく、それより少し大衆の心に近い芸人の世界の話が情報番組を賑わしている、というだけのこと。

松 大衆の心をつかむことだけが政治家の仕事ではない。それだったらポピュリズムになってしまう。

梅 もちろんそうだ。ベースは一緒というだけで、その上の枝葉はもちろん違っている。だからこそ政治家と芸人は違う。

松 なるほど。


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天皇の代替わり騒動をどう見るか~三酔人風流奇譚 [社会時評]

天皇の代替わり騒動をどう見るか~三酔人風流奇譚

 

「天皇」というバーチャルな存在

松太郎)ふう。5月4日の一般参賀をもって一連の天皇代替わり騒動はひとまず落ち着くのだろうか。

竹次郎)4月1日の新元号発表から数えれば、1カ月余の騒動だった。

梅三郎)いったい、何だったのだろう。

松)年月日という時間の概念があり、さらにそこに世界共通の西暦というものがあるのだからわざわざ「元号」などという屋上屋を設ける必要はない。

竹)明治から昭和にかけては欽定憲法があり、天皇が統帥権を持った時代だったので、元号が一定の重さを持ったという事実はある。しかし、象徴天皇制になって平成に入ると元号は一気に軽くなった。

梅)例えば、昭和の時代の史実は昭和年で覚えていることがよくある。日米開戦の日、あるいは敗戦の日などは代表例だ。それらは、天皇制の負の部分を表す史実だから。平成に起きたことで、平成年で覚えていることはほぼない。

松)それなのに世の中は「新しい時代が始まった」などと浮かれる。

竹)天皇は、憲法で書かれているとおり象徴的存在、つまり抽象的な存在なのだから、新時代と旧時代を分けるような力もないし、そういう存在であってはならない。

松)元号に関しては、若い層の浮かれぶりが目立つ。

梅)天皇制の負の部分を知らないこともあると思う。今の天皇は、いわばバーチャルな存在であって実体を持たない。ある程度以上の年齢層だとそこでバーチャルとリアルを区別しないと気が済まないが、若い層はバーチャルとリアルが入り乱れることに抵抗がないのでは。それが、天皇制への無頓着な反応にもあらわれている。

竹)ネット社会で鍛えられているから。

梅)天皇? 夢があっていいんじゃない? みたいなノリだ。

松)それでいいのかねえ。三上太一郎「日本の近代とは何であったか」で天皇が神格化されたのは明治以降の近代であって、国民国家建設に不可欠な官僚制を整備するための精神的なバックボーンとしての「神」の存在が求められたからだ、と説く。欧米にはキリスト教という公共社会の精神的バックボーンがあったが、日本にはそれに類似するものがなかったので、無理やり天皇を「神」に祭り上げた、という。そのために国民は「現人神」の名のもとに徴兵され、突撃させられた。そういう歴史は無視できない。

 

底抜けメディアの「同調圧力」

竹)それにしても、この間のメディアの底抜けぶりはひどかった。

松)憲法記念日の5月3日、テレビキャスターの金平茂紀さんが広島市内で講演した。「崖っぷちの民主主義 改元・三権分立・沖縄・マスメディア」と題して。やはり、改元問題の垂れ流し的な報道ぶりに違和感を持っていた。ただ、金平さん自身そのメディアの内側にいる身なので忸怩たる思いもあるようで、「私は少数派」と言っていた。事前の宣伝では「抗(あらが)うニュースキャスター」と紹介されていたが、いまどきこんな形容詞がつけられるのは、この人ぐらいだ。

  

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竹)骨のありそうなキャスターが一斉にやめていった(やめさせられた?)時期があったから。その結果が、今のメディアの惨状だ。

梅)ネットを見ていると5月1日、東京で天皇制に反対するデモがあったらしいが、新聞、テレビとも報じなかった。広島市内でも4月29日に小規模だが天皇制に異議を唱える集会が開かれた。新聞、テレビとも全く報じなかった。

松)少数でも、こうした声があることはきちんと報じるのがメディアの役割ではないか。それなのに、テレビは「列島はお祝い一色」と連呼する。そうすれば、天皇制や元号に違和感を持ったり、批判的な考えを持ったりする人たちの口を封じることにつながる。いわゆる「同調圧力」だ。かつて、戦争を止められなかった一つの要因として批判されてきたこと。同じことを今のメディアはしている。

竹)そこまで行かなくても、今回の代替わりは、天皇自身が高齢で務めを果たせなくなったことと皇室全体の高齢化が要因としてあった。それなら、天皇制を廃止するというのも一つの選択肢として考えられるべきだ。そうした選択肢を残していくためにも、天皇制廃止を求める声があることは、事実としてどこかに残しておくべきだろう。たとえ少数であっても。

 

ユデガエル状態の国民意識

梅)元号が変わることで時代が変わるわけでもなく、文字通りバーチャルな世界で代替わりが行われたが、世の中ではこれに合わせて時代の回顧が行われた。そして「平成は戦争もなくいい時代だった」という感慨があちこちで示された。

松)本当にそうだろうか。世界で戦禍は収まってはいない。アフガン、イラク、シリア、南米ベネズエラ…。ヨーロッパは極右勢力の台頭で揺れている。

竹)「平成」という時代があったとすれば、それは米ソ冷戦が終結した後の30年だった。そこで日本はポスト冷戦の時代へ向けた針路を示すことはできなかった。それが沖縄問題の混迷を招き、北東アジアでの存在感のなさにもつながっている。一方で少子高齢化は進んだが、それに見合う経済システムを作ることもできなかった。30年を回顧すれば「漂流の時代」としか呼べない。

梅)北方領土問題も、一時の勢いはなく宙づり状態だ。そう考えると、平成は平和でいい時代だったというのは一国平和主義、もしくはユデガエル状態の国民意識を表している。

松)よく言われることだが、一人当たりGDPは、30年前は世界一だったが今は20位以下。これは、もう一度世界一に戻すべきだという議論ではなく、少子高齢化社会に合わせた違う経済システムや経済意識を求めるべきだ、と考えたほうがいい。それがなされないから、日本は漂流している。

竹)いつまでも成長戦略一辺倒ではないはずだ。

梅)それではこの辺で。きょうも明るい話にはなりませんでしたね。


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「新元号」という名のカラ騒ぎ~社会時評 [社会時評]

「新元号」という名のカラ騒ぎ~社会時評

 

 マスコミの過熱ぶり

 新元号「令和」が決まった4月1日、日本列島は異様な熱気に包まれた。テレビは「発表まであと○時間○分○秒」とテロップを流し(菅義偉官房長官の会見自体が11分遅れたため、全く意味はなかったが)、新聞各紙が配った号外にはアリのように人が群がった。

 翌2日の朝刊各紙も、当然のように1面の横幅いっぱいを使ってこのニュースを報じた。礼賛の記事でほぼ埋められ、批判的な視点のコメントを発していたのは内田樹氏(思想家)と高村薫さん(作家)ぐらいだった。内田氏は朝日、毎日で(天皇主義者なので元号自体への批判はなく)、官邸による政治ショー化に焦点を当てていた。毎日の高村さんがより辛辣だった。新元号が万葉集に由来する理由が情緒的である、「令和」という組み合わせが、国民を律して和を図る、といった意味に取れて違和感を覚える、とした。

 テレビ各局も前日に続いて「新元号決定の内幕」をかなりの時間報じた。礼賛のコメントがあふれる中、テレビ朝日「モーニングショー」で本郷和人・東京大史料編纂所教授の辛口コメントが目立った。

 洪水のように情報が流される中で、目についた批判的な視点はこれぐらいだった。

 

 「新元号」をどう見るか

 本郷教授や高村さんが指摘するように、使われた「令」は、「よい」という意味より命令するという意味合いが強い。そのあたりを、2日付朝日の3面が伝えている。令の上半分、人の下に横棒は人を集めるの意。その下は人がひざまずいた形を表している。つまり、人を集め指示を出す光景を意味している。この行為が整然と行われることを指して「よい」とか「好ましい」の意味が派生している。どちらの意味も支配者目線である。これに、和やかという言葉をつければどうなるか。整然と支配が行われ民は和やかである、という意味になる。まさしく安倍晋三政権の体質をあらわしているといえよう。

 普通に見れば、以上のような受け止めが自然に思われる。しかし、こうした指摘は一部を除いてほとんどなかった。

 

 官邸による政治ショー化

 新元号を決めるにあたって安倍官邸は徹底的な情報統制を行った。事前の審議過程で漏れないよう緘口令を敷き、最終局面では携帯が使えないよう妨害電波まで流したとされる。なぜそこまでする必要があったのだろう。新元号が事前に漏れたぐらいでなんの不利益が生じるのか。考えられるのは、徹底的な情報統制をすることで決定過程を厳粛に見せることと、そのことで官邸の存在感を高めることぐらいだ。計算どおり、この政治ショーはマスコミの注目を浴びた。これは、内田氏の言うとおりである。

 官房長官会見に続いて安倍首相会見があった。そこでは「悠久の歴史と誇り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄をしっかりと次の世代へと引き継いでいく」ことが強調された。格差と貧困にあえぐ日本の現状には目をふさぎ、万葉の美意識にたって悠久の日本を訴える。まるで戦中の日本浪漫派・保田與重郎の再来であった(もっとも、引用文が中国古典の「写し」であることが明らかになったが)。あるいは「現代版教育勅語」のようであった。果たして一国の行政の長がここまでやる必要があるのか。しかし、こうした危うさを指摘する声はどこにもなかった。

 

 皇民化・臣民化

 たかだか、元号ぐらいのことでなぜ日本列島は沸き立ったのか。そこに一種のアイデンティティーを求めたからではないか。テレビのコメンテーターは感極まって「歴史の変わり目に立ち会った」と述べた。しかし、間違ってはいけない。天皇制があるから元号は存在する。元号が変わることで味わう一体感とはあくまで皇民、臣民としての一体感であり、国民の一体感ではない。

 韓国の国会議長が慰安婦問題で「天皇謝罪」を求めたところ、官房長官は「無礼だ」と切り捨てた。そうだろうか。天皇はあくまで日本の天皇であってアジアの天皇ではない。韓国から見れば、官房長官の発言は、かつての植民地時代にあった日本の政治システムと価値観の押し付けと同じとしか見えないのではないか。

 新元号をめぐる日本列島のカラ騒ぎ、かつて天皇の軍隊によって侵略された経験を持つアジア各国にはどう映るのか。その報道はまだない。

 

 そうじていうなら、天皇の代替わりに乗じた安倍政権の政治ショー化と、それを無批判に報道するマスコミの無能さが目立った。それがこの2日間である。あるいは、「時の支配者」として安倍首相が現れ、それをマスコミ、大衆がこぞって礼賛するという構図にも見える。同時に、今回の騒ぎでは若者層の「没頭ぶり」が目立った。60歳代以上には天皇制の持つ負の側面が多少なりとも見えている。しかし、若い層になればなるほど、そこは見えていない。かつて戦争に至った過程を見ると、天皇自身の問題というより(天皇は無答責であり権力のブラックホールである)、それを取り巻く国民意識にこそ問題があるように思う。そのことはきちんと指摘されなければならないのではないか。

 


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