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五輪辞任・解任劇、社会の空洞化こそが問われる~三酔人風流奇譚 [社会時評]

五輪辞任・解任劇、社会の空洞化こそが問われる~三酔人風流奇譚


松太郎 東京オリンピック関係者の辞任・解任が続いている。電通出身のCMクリエーター佐々木宏氏が、女性タレントの外見を嘲笑する演出案を提示、週刊誌にすっぱ抜かれてやめた(3月)。開会式の音楽を担当した小山田圭吾氏が、過去に雑誌で障がい者へのいじめを武勇伝のように語ったことが問われ、やはりやめた(7月)。直後に、絵本作家ののぶみ氏が過去の行状(逮捕歴など)を理由に辞任(7月)。今度はショーディレクターの小林賢太郎氏が、ユダヤ人虐殺をやゆしたネタを書いたことで解任された(7月)。
竹次郎 これに女性蔑視発言のJOC会長・森喜朗氏の辞任(2月)を加えると、共通項として見えるのは人権感覚のなさだ。特に弱者への思いやりが決定的に欠けている。それが女性であったり、肉体的な外観上のことであったり、障がいであったりする。小林氏の場合、人類史上例のない悲劇を笑いのネタにしているのだから、逃れようがない。
梅三郎 深刻なのは、これらの事例が日本社会で問題になってこなかったことだ。あらためて見てみると、とうに社会的に抹殺されていて当然と思われることばかりだ。
松 なぜ社会で取り上げられなかったのだろう。

漂流と喪失の30
竹 一言でいえば、日本の「社会力」が落ちている。社会が空洞化している、といってもいい。
梅 それはどういうこと?
竹 社会が自然に持つエートスのようなものがなくなってきている。倫理観といってもいい。社会全体が共通して持つ物語のようなものが最低限のルールとか倫理とかを作る。そういう力が、今はない。
梅 そういえば1964年の東京オリンピックは、さまざまな物語を日本国民に提供して、それが横断的な力となり戦後社会を築く力になった。いま2度目の東京オリンピックを間近にして、そういう力が日本社会にないことに気づかされるとは、皮肉なことだ。
竹 与那覇潤が「歴史なき時代に」で怒りを込めて指摘していたのも、そういうことかもしれない。社会が歴史意識を失ったことで、重厚さもなくなった。
松 現代史を振り返るとき、よく指摘されるのは冷戦後の日本社会の空洞化ぶりだ。特に平成の30年。経済は停滞し、人々は目標を見失い、アイデンティティーを喪失し…。
竹 象徴的な事例として挙げられるのが1980年代末、つまり平成の冒頭にあった宮崎勤事件とオウム事件。一見違う現象に見えるが、実はアイデンティティーの喪失と、ヴァーチャルとリアルの境界線の曖昧さ、という点で通底する。こうした時代の風潮が、エートスとかモラルとかの喪失を招き、むしろそのことを笑いの種にするようになった。

善悪の参照点を持たない日本社会
松 ユダヤ人虐殺に関する発言が問題になっているが、この問題の第一の当事者はヒトラー。そのヒトラーについてメディア史の佐藤卓己が見識を述べている。もともと絶対善の存在である神からの距離によって人間の行為は価値づけられてきたが、ニーチェが「神の死」を宣言して以来、つまり絶対善の消滅以来、人間の価値を計る参照点は絶対悪としてのヒトラーになった(「流言のメディア史」)。もちろん「絶対悪」が「絶対善=神」にいつか置き換わるかもしれない、という危険性に留意する必要はあるが、日本社会は戦後、絶対善なり絶対悪という参照点を持ちえなかった、そのことがいま問われている。これまで言動が問われた五輪関係者に共通するのは、ゆるがせにできない価値の絶対基準が存在するという意識の欠如だ。
竹 ユダヤ人虐殺問題に関して、ある情報番組で日本人の戦争体験を被害体験として語るコメントがあったが、非常に違和感があった。アジア・太平洋戦争で日本人の死者は公式発表で310万人だ(非戦闘員含む)。これに対して中国をはじめアジアで亡くなったのは1500万人ともそれ以上ともいわれる。この数字だけ見ても、決してあの戦争は日本人の被害の物語としてのみ語るべきではない。つまり、そこでしてはならないこと(=絶対悪)は何だったのかが、これまで厳しく問われてこなかったことが、まわりまわって高度経済成長後の日本社会の屋台骨のなさにつながっている。


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