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歌は世につれ~濫読日記 [濫読日記]


歌は世につれ~濫読日記


「昭和街場のはやり歌 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと」(前田和男著)

 いつの世にも、はやり歌がある。中でも昭和は、時代の明と暗、尾根筋と谷底がくっきり見えたため、変わり目ごとにはやり歌があった。社会の下部構造がきしみ、上部構造に幻影が生まれる。つかの間、大衆が酔いしれた共同幻想。歓喜と失意、希望と蹉跌。どこか甘く、魂をとらえる旋律があった。

 書かれたのは、こうした社会とはやり歌の共同歩調である。歌は、歌だけの魅力によって時代に受け入れられてはいない。表現の深部で世の動きの本質をとらえたため、大衆に響き受け入れられた。そのことが一つ一つ、立証されている。「歌は世につれ」である。

 著者は1947年生まれ。いわゆる団塊の世代である。大学時代、東大闘争を経験した。極私的体験を骨格とするこの著作では、当然ながら世代は重要なファクターである。そうした位置関係から、二つの安保闘争の高揚と挫折を見た一文が興味深かった。
 西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」は60年安保闘争のレクイエムとする説が根強い。しかし、著者は(私もだが)どこかでこの説に違和感を覚える。それは何かがたどられる。70年当時、いささかの自嘲を込めて歌われたのは「網走番外地」であり「圭子の夢は夜ひらく」だった。何が違ったのか。著者の見立てでは「アカシア―」はあまりに“詩的”で「網走-」や「圭子の―」は“散文的”という。そうかもしれない。わずか10年の間に、この違いはどこから生まれたか。闘いの質ではないか、という。60年安保は日本社会の将来のエリート候補によって主導された。70年安保は中間管理職候補だった「学生大衆」が街頭でゲバ棒を振るい、火炎瓶を投げた。結果、挫折の質にも変化が生まれた。背景に大学進学率の大幅な向上(学生の大衆化)があった。こうした時代の位相の変化を、著者はこう表現する。
 ――「アカシアの雨がやむとき」は「敗北と挫折」の鎮魂には似つかわしいが、「自滅と自壊」を癒してくれそうにはない。それには「網走番外地」と「圭子の夢は夜ひらく」が適役だったのである。

 「一本の鉛筆」という歌がある。横浜で空襲にあった美空ひばりが、反戦の願いを込めた。作詞は松山善三。1974年、広島平和音楽祭で披露された。しかし、広島でこの歌を知る人は少ない。ましてや全国的にはほとんど無名である。ひばり自身は、この歌を「自薦ベスト10」の6位に挙げて遺言とした。ひばりと日本社会、あるいは広島との間で、何が行き違ったのか。
 ひばりが反戦歌を歌うことに、被爆者団体が抗議したという。理由は、反社会勢力との関係が言われていたこと▽一本の鉛筆で書けるほど被爆者の苦しみは甘くはない―というものだった。これに対して松山は、一本の鉛筆は鉄砲玉より強い。だからこそ平和の心を伝えることができる、と反論したという。
 ひばりの歌唱力を疑う者はいない。だからこそ、ひばりは時代を超越し、日本からアジアへと越境した。そうして、戦後の大衆が背負ってきた罪と穢れを一身に引き受けた。さながら浄化のため川に流す形代(かたしろ)のよう、と著者はいう。私には、戦後日本が異形のものとしてひばりを排除したとしか見えなかった。その抜け殻-空疎でいびつな―が、目の前にある(前田はそこまで書いていないが、暗示はしている)。戦後日本の平和思想の辺境を見る思いがするのである。
 「時代とは何か」を考えさせる一冊。
 彩流社刊、2500円(税別)。

昭和 街場のはやり歌: 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと


昭和 街場のはやり歌: 戦後日本の希みと躓きと祈りと災いと

  • 作者: 前田和男
  • 出版社/メーカー: 彩流社
  • 発売日: 2023/08/04
  • メディア: Kindle版



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