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庶民の哀歓、淡々と~映画「せかいのおきく」 [映画時評]

庶民の哀歓、淡々と~映画「せかいのおきく」


 小説「糞尿譚」を書いた火野葦平は、芥川賞受賞の報を杭州で聞いた。授賞式は小林秀雄が現地に赴いて行われた。これを契機に軍部から従軍小説の依頼があり、日中戦線を描いた「麦と兵隊」など3部作が人気を呼んだ。「国民作家」が誕生した。
 「糞尿譚」は、糞尿処理業者の指名をめぐる政争を描いた。プロレタリア文学には距離を置いたもののマルクス主義にシンパシーを抱いた火野らしい小説だった。戦後、従軍小説と左翼小説とのギャップに悩み、1960年初頭に自殺した。

 冒頭からあらぬ方向に話がいった。映画「せかいのおきく」である。おもいきり縮めて言えば、江戸期の糞尿譚である。この中に「おきく」という清純・可憐な女性が出てくる。その目を通して世相と人情模様を見る、という構図である。
 まず、江戸の糞尿処理を担う業者の話。二人の若者が登場する。紙屑拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)。共同使用の厠(公衆便所)と思われるところで雨宿りをしていると、おきく(黒木華)が加わる。3人の交流が始まる。忠次はやがて矢亮の弟分として働く。
 時代は安政5(1858)年から万延元(1860)年にかけての3年間というから、幕末期。ペリー来航の直後である。おきくの父・松村源兵衛(佐藤浩市)は浪人で、貧乏長屋に住んでいる。娘が寺で書を教え、生計が立っている。
 糞尿譚であるから、江戸期のその方面の事情が各所に出てくる。おきくの可憐な相貌との絶妙な取り合わせが、映画の見どころと言える。
 長屋へある日、陣笠をかぶった武士が数人訪ねてきた。おきくが後を追う。訳がありそうだが、説明は一切ない。そこには踏み込まないという演出上の意図が見て取れる。一転、立ち去る武士と倒れた源兵衛、おきくを映し出す。源兵衛は絶命、おきくはのどから血を流し苦悶する。
 父は生前、娘に「せかい」という言葉を教えた。こんなところに幕末の空気らしきものが漂う。脱藩者が藩の追っ手に刺された、と読むのが自然だが、そうした大状況に踏み込むことはない。父と声をなくしたおきくの失意と、中次とのほのかな恋が切なく描かれる。

 パートカラー。8割がたモノクロだが(物語の性格上、糞尿の描写は避けられないことも、こうした判断に影響しているか)、黒木が演じる可憐さは損なわれることはない。いやむしろ、モノクロゆえに引き立っている。庶民の哀歓を淡々と描くという狙いにも、モノクロ画面は似合っている。小品だが味わい深い。
 2023年、監督は冬薔薇の阪本順治。


せかいのおきく.jpg


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