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戦時下・戦後の大陸を生き抜いた記録~濫読日記 [濫読日記]

戦時下・戦後の大陸を生き抜いた記録~濫読日記


「満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創」(石井妙子 岸富美子著)


 二人の共著の形をとるが、多くは一人称で語られている。映画編集者・岸の体験記をベースに、石井がインタビュー取材したものを付加した。多くが岸個人の記憶によっており、史実として疑問の部分もある。そこで、章ごとに石井が解説を付けた。語りの過不足を補い、記述の信ぴょう性にも言及した。


 日中戦争が本格化した昭和14年、岸は兄たちの誘いもあって満映に入った。19歳になったばかりで、この時から中国大陸を放浪する。戦時下6年、戦後8年。苦難の日々だった。
 満映には社史が存在しないという。この「秘史」がそれに代わるものかは分からない。個人史の部分があまりにも多いからだ。言い換えるなら戦時下、戦後の中国大陸を生き抜いた女性史としては十分すぎる重みを感じさせる。
 岸の実家は、もともと裕福だったが父の事業の失敗もあり生活は困窮した。兄たちが働いていたこともあって映画業界に職を得たのは昭和10年、14歳のときだった。2年後、ある作品と出会う。日独合作の国策映画「新しき土」である。同い年の原節子が抜擢され主演した。製作現場にはアリス・ルートヴィッヒという女性の編集者がいた。この時代に考えられないことだった。アリスの存在が岸の目標となった。

 満映には、日本語のうまい中国女性という触れ込みで実は日本人だった李香蘭がいた。彼女も同い年だった。理事長についた甘粕正彦に、岸は「眼光がひどく鋭い」と印象を持つ。甘粕を理事長に据えた「満洲のゲッペルス」こと武藤富雄のそれと大きく違っていた。武藤は「顔面蒼白」で「残忍酷薄」かと思ったら「案外快活な表情をしているので驚いた」という【注】。どちらが事実に近いのだろう。岸には、大杉栄と伊藤野枝を殺害した男という先入観が作用しているかもしれない。
 甘粕は、日本の敗戦直後に青酸カリ自殺をする。岸はこの行動に極めて批判的だ。

 ――まったく納得できなかった。甘粕のことを卑怯だと思った。(略)困難な状況から逃げずに前面に立って率いていくのが、指導者の取るべき態度ではないのか。(略)日本人は寄る辺を失い、これからどこをさまようことになるのか。

 予感通り、地獄の日々が待っていた。新生中国に映画産業を根付かせる、という目的で多くの映画人が引き留められた。しかし、内戦を抱える中国側に余裕はなかった。
 ソ連軍の撤収後、東北電影公司(旧満映)を接収した中国共産党は、東洋一といわれた撮影機材に快哉を叫んだという。しかし、内戦の激化で北の鶴崗へ疎開が決まり、内田吐夢監督らが同行した。撮影用の資材を梱包、馬車の列は2㌔に及んだ。夕日が沈む広野の隊列を見て内田監督は「この光景をいつか映画にしたい」といったという。

 鶴崗ではさらなる苦難が待っていた。「学習会」と「精簡」である。共産党系の人たちが主催する学習会は自己批判、他者批判の色彩を強めた。そして昭和22年2月、中国共産党員から「精簡」を告げられた。精兵簡政の略で、人員を削減し行政を簡素化する。平たく言えば人員整理である。精簡された人は別任務に就く。人物名は明らかでないが、日本人が日本人を仕分けした。区分けははっきりしなかった。映画技術の有無でも思想性でもなく、はっきりしていたのは、弱者は精簡されたということだった。内田吐夢監督、木村壮十二監督は精簡組で、ひどいことにはならないと思われたが外れた。船とトラックと牛車を乗り継ぎ、着いたのは零下30度の原野に立つ苦力の小屋だった。割り当てられた仕事は、川に沈んだ沈没船の周囲の氷を割る。割っておけば春に船が浮上するという。しかし、翌朝氷は張っている。際限のない仕事だった。
 「精簡」の体験は、それぞれの内部に深い傷を残した。しかし、そのことに触れた回想はほとんどないという。語るには重すぎる事実だった。

 帰国が伝えられたのは昭和28年。そのころには映画の現場に戻っていた。中国だけでなく北朝鮮の映画も手伝っていた。
 石井によると、帰国後について岸はほとんど語らなかった。そこで、最終章は石井の取材に基づく三人称の記述になった。岸はなぜ寡黙になったか。8年間、敗戦国民として大陸に残された末の帰国。しかし、待っていた現実は過酷だった。映画会社は雇用の道を閉ざした。組合運動、左翼運動を警戒してのこと。「アカ」のレッテルが張られた。
 帰国後、果たしたい夢が二つあった。一つは、自分の出発点となったアリスとの再会。もう一つは中国再訪。アリスは亡くなっていたが、中国へは昭和56年、長春電影製片廠(旧満映)創立35周年に招待され訪れた。
 岸らが大陸にまいた種は着実に成長した。張芸謀、陳凱歌ら新世代は世界に知られる監督になった。
 石井は、93歳になった岸と初めて会った時の印象を「ほっそりとした身体からは、確固とした強さのようなもの、自立した精神とでもいうべきものが、やわらかく溢れ出ている」と書いた。岸のたどった過酷すぎる運命が、おのずと作り上げた空気のようなものを感じさせる。
 KADOKAWA1200円(税別)。
【注】「満洲国グランドホテル」(平山周吉著、芸術新聞社)



満映秘史 栄華、崩壊、中国映画草創 (角川新書)

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  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2022/07/08
  • メディア: 新書


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