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捕虜収容所で何が起きたのか~映画「カウラは忘れない」 [映画時評]

捕虜収容所で何が起きたのか~映画「カウラは忘れない」


 アジア・太平洋戦争の大きな転回点となったガダルカナル島攻防戦の半年前。1942年2月、日本海軍はオーストラリア本土への大規模空襲を行った。空母4隻が出動した作戦は大きな戦果を上げ、日本側は2機撃墜され4人死亡、1機不時着し1人が捕虜となっただけだった。南忠男を名乗ったこの搭乗員は本土南東部、カウラの収容所に送られた。
 日本軍のオーストラリア空襲はその後も続き、日本人捕虜はこの収容所だけで1000人を超す規模になった。そして事件は起きた。
 1944年8月5日、500人以上が脱走し200人以上が死亡した。指揮をとったのは南兵曹長(本名豊島一)といわれる。たいした武器も持たず鉄条網に突進した日本人捕虜。いったい何がそうさせたのか。あらためて事件の概要と当事者の心情を追ったのが映画「カウラは忘れない」である。
 「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」で知られる先陣訓が頭にあったのか。捕虜の汚名を着たまま帰郷した際の情景が頭をよぎったのか。同調圧力に踊らされたものはいなかったか。それとも、ただ生きたいと願ったのか。今となってみれば、心の奥底ははかりようがない。ただ、収容された人々の多くが実名を名乗らなかったという事実が一つの手がかりになる。
 映画は、数十年前の事件にアプローチするため二つの世代間の対話に光を当てる。
カウラでハンセン病の診断を受け隔離され、脱走に加わらなかった立花誠一郎さん。復員後はハンセン病施設に送られ、2017年に岡山の邑久光明園で人生を閉じた。
 生前の彼に聞き取りをし、何かを学ぼうとしたのが岡山・山陽女子高の放送部員たちだった。カウラの現地まで赴き、捕虜の身で何を見、何を思ったかを知ろうとする。重いテーマだが、彼女たちの屈託のない言動が、観るものの視線の先に光明を感じさせる。
 瀬戸内海放送製作。


カウラ.jpg


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