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文明論の深さを味わう~濫読日記 [濫読日記]

文明論の深さを味わう~濫読日記


「歴史が後ずさりするとき 熱い戦争とメディア」(ウンベルト・エーコ著)

歴史が後ずさりするとき.jpg イタリア語に疎いので、訳者の「あとがき」から引用せざるを得ないが、原題は「A  Passo di gambero.
Guerre calde e populismo mediatico
(エビの歩き方で。熱い戦争とメディアのポピュリズム)。アイロニーを込めた味付けもだが、最近の国際情勢を言いえて妙である。「熱い戦争」とは、もちろん冷戦以後の戦争を指している。一見、キリスト教圏対イスラム教圏という構図に見える最近の情勢(もちろんそれだけではない)は、冷戦時に比べて「歴史の後ずさり」を思わせる。

 著者は今さら言うまでもなく、ヨーロッパ中世史の研究者として知られる。そして、おそるべき博覧強記である。中世美術史に関する著作を持つ一方で「薔薇の名前」という、中世修道院を舞台としたミステリーで世界を魅了した。そうした著者が、最近の時事問題について縦横無尽の筆を振るったのがこの書である。所収の文章の多くはイタリアの左翼系週刊誌「レスプレッソ」に掲載したコラムである。テーマは戦争と平和、カーニヴァル化する社会、ビン・ラディンのこと、ヨーロッパの根源、そして反ユダヤ主義のルーツと、多彩である。
 冒頭、「戦争と平和」をめぐる多少長い考察が展開される。断片的には知られていたことだが、まとめて読めばなかなか興味深い。冷戦時代とは、第三世界に限定的な戦争をもたらすことで第一、第二世界が緊張と恐怖の均衡の上に安定的な状態が保証された時代であったとする。そして冷戦時代が去ってネオ戦争の時代になり、「伝統的な戦争」が蘇るかに見えたが、それはそうはならなかった。相手が誰であるか不明であること、正面からの衝突ではないこと(したがって戦線は、はっきりと見えない)。それは、戦争によって利益を得るものが誰であるかについても、従来との違いを際立たせた。それは各国の武器産業ではなく、多国籍軍事企業なのである。そのことがメディアの状況も変える。すなわち、戦時下では各国のプロパガンダだったメディアは「敵の言葉」をも伝える。湾岸戦争で、フセイン支持者の発言、抗議も伝えられたのである。それは情報拡散と情報共有状態をもたらし、結局は、交戦者は勝利のない世界へと向かうしかないという状況が生まれた。「伝統的」な戦争は、最終的に妥当な均衡状態をもたらすものだったが、ネオ戦争では緊張に満ちた政治―つまり「戦争っぽい政治」(戦争は政治の継続というクラウゼヴィッツの理論が下敷きにされている)しかもたらさなくなった。
 それは、ネオ戦争に明らかな変質をもたらした。わが軍の兵隊はできるだけ死んではならない一方で、状況が許す限り敵も殺さない。そして、このことはボードリヤールの言葉「戦争は起こらなかった。テレビで演じられただけだ」という象徴的な言葉へと向かう。
 グローバル化は「戦争と平和」の問題にとどまらない。インターネットの進展は国民国家の概念を揺るがす。情報や市民活動は容易に国境を越えてしまう。恐るべき情報収集技術の進歩は、自己露出狂と覗き屋集団の共存を可能にする。公開された「噂話」が世の中を跋扈する。
 まことに、エーコの視線は多岐にわたるのだが、彼の本領はしかし、次のようなところに現れている。
 欧州憲法をつくるのなら、その中でヨーロッパ大陸のキリスト教起源について記載すべきか―。もちろん、エーコの考察は宗教にとどまらず、政治、文化人類学、インド文明、アラブ文明、ギリシャ・ローマ文化の影響に及び、ユダヤ教なくしてキリスト教を語ることはできないとする。それはキリスト教、イスラム教の歩み寄りを促す唯一の接着剤として、もう一つの一神教であるユダヤ教の役割があるともいう。それゆえにこそ、それらの起源が欧州憲法で触れられるべきだという。
 その延長線上で「シオン賢者の議定書」に触れる。明らかな偽造であるにも関わらず、なぜこれが灰の中から何度も蘇ることができたのか。この問いに対して、エーコは「議定書」が反ユダヤ主義を作り出したのではなく、何らかの「敵」をでっちあげなければならないとする人間の深い欲望が「議定書」を人々に信じさせたのだ、とする。このあたり、とても興味深い。
 この問題でエーコはこうも言っている。
 ――地球上のどこであれ、すべての牛が黒であるわけではない。すべての牛が黒だとする思想を人種差別主義と呼ぶのだ。

「歴史が後ずさりするとき―熱い戦争とメディア」は岩波書店刊、2900円(税別)。初版第1刷は2013年1月24日。ウンベルト・エーコは1932年、北イタリア生まれ、今年2月19日死去。記号論学者でヨーロッパを代表する知識人。小説に「薔薇の名前」のほか「フーコーの振り子」「パウドリーノ」など。最近、シオンの賢者の議定書を素材にした「プラハの墓地」が出版された。

歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア

歴史が後ずさりするとき――熱い戦争とメディア

  • 作者: ウンベルト・エーコ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/01/25
  • メディア: 単行本

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