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日常の被膜をめくれば~映画「雪の轍」 [映画時評]

日常の被膜をめくれば~映画「雪の轍」

 

 戦争や抗争があるわけでも、一世一代の恋愛物語があるわけでもない。ただの日常が描かれる。それが3時間16分。ひたすら、会話が交わされる。しかし、その会話がタダものでない。原作がチェホフと知り、なんとなく納得する。善とは何か、悪とは何か、偽善とは何か。それらが会話の裏側で踊っている。

 トルコ・カッパドキアの岩山を掘ったホテルを経営する元舞台俳優のアイドゥン(ハルク・ビルギネル)は親からの遺産もあり、妻ミハル(メリッサ・ソゼン)は若くて美しい。はたから見れば何一つ不自由はない生活だ。しかし、そんな日常の被膜一枚めくれば、偽善や傲慢といった人間の本質が浮かび上がる。アイドゥンは「演劇史」の大著を書こうとしながら書けず、地方の小さな新聞にコラムを書いて過ごしている。そんな彼の文章を、出戻りの妹ネジラ(デメット・アクバァ)が「そんな浅い知識でよくそんなに威張って書けるもの」と皮肉る。

 そんな中、アイドゥンの乗った車が投石にあう。投げたのは少年。借家の家賃が払えない聖職者の息子だった。憎悪に満ちた目が、明らかな抗議の意思を表している。一方、妻は慈善事業に精を出す。ある日、アイドゥンに無断で、事業の関係者を自宅に呼びパーティーを開いたものだから、アイドゥンの堪忍袋の緒が切れる。会話の中で、なぜ妻が事業にのめりこむかが明らかになる。背後にあるのは、夫の拘束を疎ましく思う閉塞感だった。

 妻はある日、夫から寄付された大金を貧しい聖職者に渡そうとする。しかし、相手は予想しなかった行動に出る。

 愛や善意が、発信者の思い通りには相手に受け止められない。一瞬で愛は拘束に変わり、善意は偽善に変わる。

 アイドゥンの妹ネジラの言葉で言えば、空虚で退屈な生活を生きる勝手でうらみがましく皮肉屋の人びとの物語である。チェホフというよりドストエフスキーの物語ではないかと思うぐらいの重量感は本物だ。仏独トルコ合作。監督はトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン。アイドゥンとは、トルコ語で「インテリ」のことらしい。なるほど。

 雪の轍.jpg

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