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「愚かな戦争」の断面図~濫読日記 [濫読日記]

「愚かな戦争」の断面図~濫読日記

 

「特攻―戦争と日本人」

 

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「特攻―戦争と日本人」は中公新書、820円(税別)。初版第1刷は2015年8月25日.著者の栗原俊雄は1967年生まれ。1996年、毎日新聞入社。「戦艦大和 生還者たちの証言から」(岩波新書、2007年)など、戦争を題材にしたノンフィクションを多数書いている。

 
















 比島沖で最初の特攻機が米護送空母を撃沈した直後の1027日、作戦を推進した大西瀧治郎中将はこう言ったという。

 「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」

 兵士が生きて帰ってくることのない作戦は、本来はとってはならない。日本軍はなぜ、この最後の一線を越えたのか。

 「特攻―戦争と日本人」は、この観点から、「特攻」をめぐるさまざまな思いを、事実を重ねる中で記述している。「特攻」物語が、ともすれば英霊史観に絡めとられ、作戦自体の愚かさへの言及を避ける傾向にあるが、その点でドライである。著者は1967年生まれの毎日新聞記者。「戦無派」の強みが感じられる一冊だ。

 最初の特攻から敗戦まで1年足らずの間に、航空機による特攻作戦だけで4000人近くが亡くなった。戦艦大和による沖縄出撃まで加えれば、その数は2倍以上になる(「大和」の出撃を「特攻」と呼ぶかは異説もある)。

 この特攻作戦を誰が提案し、始めたか。歴史上は、敗戦時に割腹自殺した大西中将がその責任を引き受けたことになっているが、人間魚雷「回天」や人間ロケット「桜花」のアイデアは、比島沖の海戦以前から出ている。おそらく、日本の戦術思想の中から生まれたものであろう。あるいは、橋川文三が昭和初期の暗殺の思想にみた明治維新の「志士仁人的捨て身の意欲」に源流があるかもしれないが、そこまで深掘りする余裕はない。

 いずれにせよ、前述の大西中将は、特攻の戦果を聞いて「これでなんとかなる」と言ったという。「一人必殺」の作戦が、戦局を切り開く。これは、日本軍が持っていた戦術観の特質を表しているといっていい。

 しかし、航空機による特攻は(これは大岡昇平の「レイテ戦記」も指摘しているが)、矛盾に満ちた作戦である。航空機はもともと、空中を飛ぶようにできている。だから、無理矢理急降下しても浮力が働き、その分、爆弾の衝撃力は弱まる。浮力を抑えるためには操縦士が、目標に激突する瞬間まで操縦かんを操作していなければならないが、もちろんこれは人間業を超えた困難な行為である。それに、250㌔程度の爆弾では、空母は簡単には沈まない。事実、最初の特攻で沈んだ空母は護送空母と呼ばれ、民間の輸送船を改造したものだった。もともと戦闘用に造られた空母は、特攻によって1隻も沈んではいない。

 そこで生まれたのが人間ロケット「桜花」であるが、これはもっと矛盾に満ちた兵器であった。2㌧近い「桜花」をぶら下げれば、爆撃機本体は身動きが取れない。そのうえ、「桜花」運搬に使われた爆撃機「一式陸攻」は米軍に「一式ライター」と呼ばれるほど防御能力のないものだった。戦争末期、護衛する戦闘機もほとんどおらず、出撃した「神雷」部隊は、桜花と爆撃機もろとも18機があっけなく撃墜されたという(この模様は米軍機のガンカメラで捕らえられており、今でもYOU TUBEで見ることができる)。

 著作の末尾に、面白いエピソードが載っている。鹿児島沖150㌔にある黒島。戦争末期、島の周辺では、出撃した特攻機がエンジン不調で不時着する辞退が相次いだという。重傷を負ったパイロットの治療、懇願され手こぎ船で本土へ送り返した兵士が再び飛び立ち、島に菓子や現金の入った小さな荷物を落として行ったこと…。この島の住民にとって「戦争」の風景はどのように見えていたのだろう。

 いずれにしても、愚かな戦争をしたものだ。

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

特攻――戦争と日本人 (中公新書)

  • 作者: 栗原 俊雄
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2015/08/24
  • メディア: 新書



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コメント 3

BUN

白人は北アメリカで数百万人の原住民を殺戮し、中東、アフリカを植民地に。最後にアジアに進出、次々に植民地とする。ロシアを始め最後まで白人と戦ったのが、日本だったのだ。戦争か平和かを問えば、誰しも平和と答えるだろう。だが、戦争か隷属かと仕掛けられ、名誉の道を選んだのは、愚かな祖先だったのか。アジアとりわけ日本人は名誉を重んじる。だから名誉あるアジア系のインディアンは、隷属を嫌い、絶えた。弱い国は取ってもいいというヨーロッパ人の世界観の中で、日本はどうすれば良かったのか。
by BUN (2015-08-29 23:40) 

asa

≫BUNさん
満州での侵略行為、南京の虐殺、マレー半島の非戦闘員虐殺など、結果的に2000万人ともいわれるアジア民衆を殺した行為は、「大東亜共栄圏」なる言葉では回収できない重い現実があろうかと思います。そして、少なくとも比レイテ沖海戦の直後に敗戦受け入れを決断していれば、もっと違う局面があったかと思います。おそらく、硫黄島も沖縄も広島も長崎もなかったでしょう。戦場で死亡した兵士の6割が戦死でなく「餓死」だったという現実も、あるいは避けられたかもしれません。
by asa (2015-08-30 17:33) 

BUN

ヨーロッパがアジアに進出、ほぼ全ての地域は植民地になったが、日本は戦った。そして日本もアジアに進出。そこでABCD包囲網。窮鼠猫を噛む。負けることは分かっていたが、子孫に名誉を残すため隷属しなかったし、出来なかった。だが、その子孫に名誉は無い。
原爆は避けられなかったと思う。アメリカはとにかく実験したかった。だから無傷な地方都市を選んだんだと思う。日本が降伏するかどうか、全ては筒抜けだったので、降伏が早ければ、原爆投下も早くなっただけ。
おっとり刀で中国が100年前のヨーロッパを模倣中。
by BUN (2015-08-31 23:56) 

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