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官能的なサイコ・スリラー~映画「イノセント・ガーデン」 [映画時評]

官能的なサイコ・スリラー~映画「イノセント・ガーデン」


■幻想譚とスリラーのはざま

 不思議な映画である。予告編を見て幻想譚かと思いきや、違った。ジャンル的にはサイコ・スリラーに入れられるべきだろう。そう書きながら、ジャンル分けすることの無意味さをもまた、感じる。

 登場人物は、ほぼ3人に限定される。18歳を迎えたばかりのインディア(ミア・ワシコウスカ)とその母イヴリン(ニコール・キッドマン)、インディアの叔父チャールズ(マシュー・グード)。インディアが誕生日を迎えた日、父が急死する。その葬儀に、消息不明だったチャールズが突然、姿を現す。以来、インディアとイヴリンの日常の歯車が狂い始める。

 映像は流れるようで美しい。その中にいくつかの伏線があり、ストリーの展開に従って立ちあがってくる。例えばインディアが目を覚ますと、窓の外でチャールズが庭の手入れをしている。彼が言う。「とてもいい庭だ。柔らかくて掘りやすい」。その言葉が後に、不気味な響きを帯びてリフレインする。インディアがベッドの上で無意識に、体操のような動きをしている。それは数十年前にチャールズが、ある行為の後にしていた動作と同じだった―。


■「恐怖」から「官能」へ

 チャールズの風貌は「サイコ」のアンソニー・ホプキンスを彷彿とさせる。監督のパク・チャヌクは、まぎれもなくヒチコックの「サイコ」を意識していたであろう。それを確信させるのは、「サイコ」にもあったシャワーシーンである。もちろん、映像に凝りまくるパク・チャヌクが同じシーンに仕立てるわけがない。それは「恐怖」から「官能」へと大きく振れている。

 「官能」といえば、そのものずばりのシーンはほとんどない。しかし、インディアとチャールズがピアノの連弾をするシーンはこの上なく「官能」的である。

 インディアがベッドの上で、幼い時からの靴を並べるシーンは、その後のチャールズがハイヒールをプレゼントするシーンにつながる。イヴリンがインディアの髪をとかすシーンは、風になびく草むらのシーンにつながり、インディアが父から狩りを教わった記憶に結びつく。いずれも、美しさの中にどす黒い恐怖がひそんでいる。


■「卵」と「血」

 この映画では、「卵」が暗喩的なモチーフとして、映像化されている。台所でインディアがゆで卵をつぶすシーン、庭にある卵型をしたハンモック…。おそらく、羽化しそうでしえないインディアの心情の映像であろう。ここまでシーンが積み重ねられると、プロローグの「花は自分の色を選べない」という言葉の意味が伝わってくる。成長する少女にとって逃れることのできない「血」の呪縛である。

インディアは母を含む3人のあいだの確執から、叔父を射殺する。そのことで、彼女は羽ばたくことができる。しかし、あくまでもそれは自らの「血」を引き受けながらの旅立ちである。エピローグ。野の花が血に染まるシーンがある。そう。プロローグの言葉が、映像的に回収されたのである。

この映画は、映像的にとても深い。もう一度見れば、さらに新しい発見があるだろう。心の底で何を考えているか分からない思春期の少女を演じたミア・ワシコウスカは文句なしだ。ニコール・キッドマンの能面のような無表情は、マシュー・グードのシャープで危うげなな二枚目ぶりと対をなしている。

 原題は「STOKER」。3人の共通する名字である。これが「Stalker」の連想で付けられたタイトルかどうかはわからない。邦題は意味不明。

 イノセントガーデン.jpg


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