ただ、映画であること~「ニーチェの馬」 [映画時評]
ただ、映画であること~「ニーチェの馬」
「倫敦から来た男」にしびれて、この映画を見た。うーむ、これは前作に勝る「しびれる」映画である。ストーリーらしきものはほとんどない。それどころか、セリフさえほとんどない。始まって15分ほどして、主人公の老いた農夫に、その娘が「食事よ」という。これが最初のセリフである。
「倫敦―」でも、このタル・ベーラ監督の「凝視力」には、感嘆させられた。しかし、これは前作どころではない。描かれるのは1889年のトリノに住む父娘の生活の、ある6日間。貧しい食事をして、窓の外を眺めて、夜には寝て、朝には起きる。原初的な日常をカメラが凝視する。この父娘が住む堅牢な、しかし無骨な石造りの家には、1頭の老いて疲れた馬がいる。映画の冒頭、この馬にまつわる哲学者ニーチェの逸話が紹介され、この馬にはニーチェの視線が宿っているらしいことが暗示される。
来る日も来る日も、強風が吹き荒れる。まるでそれが、外界と父娘を隔絶しているかのようだ。このあたりの感覚は安倍公房の「砂の女」を想わせないでもない。しかし、2度だけこの、へばりつくような日常に変化がある。一つは1人の男が酒を求めて訪れたシーン。彼はニーチェを思わせる哲学的な長いモノローグを行う。もう一つは馬車に乗った浮かれグループがたまたま通り過ぎるシーン。彼らは「アメリカに行こうよ」と二人を誘う。欲望におぼれた現世の堕落を象徴するかのようだ。
しかし、極めて原初的な生活をする二人には、じわじわと危機が訪れる。井戸の水は枯れ、暖炉の火種は途絶える。闇の中「しかし、食わねば生きてはいけない…」
ストーリーを明かすことにほとんど意味はない。ここにあるのは「ただ、映画であること」と「ただ、人間であること」、その意味を問う行為であるからだ。
変わることのない日常…と一見思えるが、実は細部で変化していく。そんなところを見ていけば、この映画の「重量」がわかってくる。
父のデルジイ・ヤーノシュも娘のボーク・エリカも、「倫敦」に続くタル・ベーラ監督作品である。タル・ベーラはこの映画を「最後の作品」と言ったらしいが、そうだろう、これほどプリミティブな映画を撮ってしまえば、もう後はない。
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