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言葉に一縷の望みを託せるか~濫読日記 [濫読日記]

言葉に一縷の望みを託せるか~濫読日記


「瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ」辺見庸著

 瓦礫の中から言葉を_001.JPG 「瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ」はNHK出版新書刊。740円(税別)。初版第1刷は2012110日。著者の辺見庸は1944年、石巻市生まれ。70年共同通信社入社。96年退社。91年に「自動起床装置」で芥川賞。94年「もの食う人びと」で講談社ノンフィクション賞。  












 ◇「震災後」への違和感

 おびただしい死者たちの肉体は語られることがなかった。それはただ数値としてメディアに乗せられた。原発から漏れ来る放射線もまた数値として語られる。一方でサブリミナルのごとく流された平易かつ単純なフレーズ。あれはなんだったか。今のこの状況から、どんな未来が見えるのか。未来の逆方向にあるべき過去は、言葉で語られたか。巨大な波によって喪われた「故郷」は、五感をなでる音やにおいや手触りで語られたか。

 3.11以降のほぼ1年、日本を覆った空気に対する違和感の集積―。辺見庸の近著を、不遜にも一言で語ればこういうことになるのではないか。

 著者は冒頭に詩を掲げている。
 

 わたしの死者ひとりびとりの肺に

 ことなる それだけの歌をあてがえ(詩集「眼の海」から)
 

 この詩、しかも最初の2行が、この書で言うべきことを言いきっている。わたしたちは、ただの悲しみではなく、大きな失意の中の悲しみに襲われているという気がしてならない。それはなぜか―。

 「悲劇の芯を言いあてようとする言葉がないからではないか」という著者は次のように分析する。
 

 マスコミによる死の無化と数値化、死体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感と底からわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。
 

 ◇言葉を持たないメディア

 メディアはすでに「無機質な符丁を操るだけの言葉なきシステム」に堕している。だから、ひとりびとりの人間にとって確実にくる「未来」であるはずの「死」の深み(あるいは闇)を語ることができない。未来を語る言葉を持たないものに、予感を語ることはできない。一種の真空地帯(=数値と人間の間の恐ろしい真空)が、列島に生み出される。ここに「摩擦もなく静かに立ち上がったなにか」がある。メディアを通じて果てしなく反復され、人々の頭蓋にこだました単純、平易、空疎な言葉。ジョージ・オーウェルによれば
 

 (「一九八四年」における「新語法」の目的は)言葉の単純化により人々に深く複雑な思考をさせなくし、異端や反抗の思想をもたせないようにすること」
 

 ここから著者は「ありうべき騒乱的事態、示威行動、抗議行動を心理的に抑制させる効果もあったのでは」と類推する。しかしもちろん、金子みすゞ(「こだまでしょうか」)や宮沢章二(「思いやりはだれにでも見える」)の詩行を使ったAC広告は、大震災を想定して作られてはいない。そこが逆に不気味である。こうしたときの日本人の心理・行動様式は「過剰な抑制」であり「忌」の情念から発する「心の戒厳令」の発酵(=表現の抑制)であると著者は指摘する。そこからは「下からのファシズム」が立ち上がってくる怖さがある。
 

 ◇石原吉郎への疑問

 では、これだけのカタストロフの中で、わたしたちはかつて「言葉」を持ちえたのか。辺見はここで原民喜の小説「夏の花」をあげる。その中に、こんな一文がある。
 

 銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。
 

 これはまさしく「あのとき」―3.11―に見た光景ではないか。優れた言葉は予言的であり、置き換えられない。著者は、言葉の持つこうした側面を見つめている。そして「夏の花」で原がカタカナでしか書きえなかった光景―わたしはここで、自我の深層を書ききろうとした石川啄木の「ローマ字日記」を思っているのだが―は66年後の未来を探し当ててしまった。

 ではいま、わたしたちはこのような言葉を持ち得ているのか。

 言葉は徹底的に「個」から発せられるものであろう。集団としての「死」であっても、それを「個」へと引き戻す言葉の力を信じなければならないのではないか。こう考えた時、石原吉郎という詩人が立ち上がる。
 

 広島告発の背後に「一人や二人が死んだのではない(略)」という発想があることに強い反発と危惧を持つ。一人や二人ならいいのか(略)その一人こそが広島の原点である
 

 という石原に、間違いなく辺見はうなずいている。しかし、辺見と石原には分岐点がある。石原の有名な1行。
 

 わたしは告発しない。ただ自分の<位置>に立つ。
 

 辺見はここで「唸り声を発しそうに」なる。遅疑逡巡の末、3.11以降は明らかに反対の方向へと歩を進めた、という。過去、現在、未来の死者と対話することこそが必要で、それが単独者の責任であるとするのである。
 

 この、石原と辺見の関係に実はわたし自身が「遅疑逡巡」せざるを得ない。二人は別の地点に立っているのだろうか。道は違っても、同じ到達点に向かっているのではないか―。ただ「言葉」と主体の距離感が違っているだけではないのか。

 筆者は「あとがき」をこんな言葉でまとめている。
 

 この国の「言葉の危うさ」と「言葉の一縷の望み」についての本である。
 

 はたして、言葉に「一縷の望み」を託すことは可能だろうか。すべての回路を断ち切り、ただおのれの魂のゆく末を見ようとする石原と、「言葉と言葉の間にカダブル(屍)がある」(言葉は必然的に「死」と向き合わざるを得ない)という辺見の違いがそこから発しているように思えてならない。そしてその違いは、わずか半歩ではないかとも思うのだ。

瓦礫の中から言葉を―わたしの<死者>へ (NHK出版新書 363)

瓦礫の中から言葉を―わたしの<死者>へ (NHK出版新書 363)

  • 作者: 辺見 庸
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2012/01/06
  • メディア: 新書


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