SSブログ

憲法のねじれと被爆のねじれ [濫読日記]

憲法のねじれと被爆のねじれ


 311 死に神に突き飛ばされる」加藤典洋著
 

 3.11_001.JPG

3.11 死に神に突き飛ばされる」は岩波書店刊。1200円(税別)。初版第1刷は20111117日。加藤典洋は1948年生まれ。東大仏文科卒。早稲田大教授、文芸評論家。「敗戦後論」(1997年)のほか「僕が批評家になったわけ」(2005年)、「さようなら、ゴジラたち」(2010年)など著書多数。

 











 かつて読んでいながら、さしたる問題意識もなくそのまま記憶の淵に沈めていた箇所が、ある文章によって触発され、再び記憶の表面に浮上してくる。


 そんな体験をした。まずは、記憶の淵から浮上したもの。

 1946213日、憲法のマッカーサー草案が日本側に手渡された時の情景。手渡したのは連合軍総司令部民政局局長コートニー・ホイットニー。手渡されるのは吉田茂外相の秘書、白州次郎。ホイットニーは、マッカーサーはこれ以外のものを容認しないだろうと述べ、日本側に15分の猶予を与えて隣のベランダに移る。検討時間が過ぎて戻ってきたホイットニーはこう言ったという。


 「原子力的な日光(アトミック・サンシャイン)の中でひなたぼっこをしてましたよ」(加藤典洋「敗戦後論」から)


 「原子力的な日光」という言い回しについては、いくつかの解釈があると聞く。ただ「太陽の光」をこのように言っただけ、という解釈もあるが、やはりここは、ダグラス・ラミスのいう「この草案は、世界史における最大のしかも最も怖るべき権力、原子爆弾という権力によって裏付けられているのだ(ということを、彼は日本人にのみこませようとしているのである=この部分、加藤典洋)」をとりたい。「戦争は(略)敵対する国家の憲法に対する攻撃、という形をとる」(ルソー=加藤陽子「それでも、日本人は戦争を選んだ」からの孫引き)のである。

 ここに、加藤(典洋、以下加藤は典洋を指す)は戦後の原点の「ねじれ」をみる。


 ここからとり得る態度は二つである。一つは、「押し付けられたものだからしかるべきときに廃棄する」。もう一つは、「これを自分のものとする」。ここで加藤は一つ踏み込んでみる。

 「ねじれているが、よいものだ、という形にしない限り、わたし達自身によって抑圧され、わたし達は、最初からこの平和憲法を実質的には自分で欲したのだと考えるか、最初からこの平和憲法を欲してはいないし、いまも欲していないのだと考えるしかなくなる」(「敗戦後論」から)


 この認識に立って戦後、憲法は日本人によって、J・ダワーおよび開沼博の表現を借りれば「抱きしめられて」きた。加藤によれば「死者による贈り物説」「勝ち取り説」「押し付け消化説」が護憲論を形成し、もう一方に自主憲法制定説がある。しかし、ここで加藤は「この憲法のねじれに立脚した」「憲法を選びなおす」選択だけが語られなかった、つまるところ、憲法のねじれを直視することがなかったのはなぜだろう、という疑問を呈している。


 さて「3.11」である。


 加藤は、吉本隆明の原発論に共感していたという。すなわち、現代の科学の到達点である原子力は認めざるを得ない。そのうえでカバーしきれない問題があれば、科学によって解決する―という立場である。しかし、加藤の「原発」に対する見方は後半に行くに従って変化を見せている。最終的に加藤の立場はこうである。

 原子力の平和利用について、最終判断は留保する。しかし、現実の動きを見ていると既に破綻している。これを受けて、できるだけ段階を踏みながら「脱原発=自然エネルギー利用」の方向へ進むべきではないか―。(asaによる要約)


 ここに至るまでの過程で加藤は、いくつかの問題点に触れているが、大きな比重を占めるものとして「核」が持つ安全保障上の意味に触れている。その気になればいつでも核兵器を作れるぞという、いわゆる「技術抑止」である。そのために日本は50㌧ものプルトニウムをため込んだ。核の平和利用―核燃サイクルへのこだわりも、そこにあるという。そこで、その前段として次のような問題も浮上する。
 

 本来は「核」という一つの概念がなぜ核兵器の「核」と、平和利用としての「原子力」に分かれたか。ここには日本人、特に被爆者が、なぜ核=平和利用の側に取り込まれたか、という問題が内在する。

 加藤はここで、戦後いち早く原子力を科学の福音ととらえた永井隆に肯定的な評価を与えながら、米国の宣伝ターゲットにされた被爆者―という田中利幸の説を批判的に取り上げる。そのうえで、絶対的悪である原爆に対して、その後の国際世論が断罪しなかったことや米国が謝罪しなかったことを挙げて、原爆のエネルギーを平和利用へと祈念させたのは被爆者の内在的な動機であり権利であったと加藤は結論付ける。


 ようやくここまでたどり着いた。つまり、冒頭で触れた、原子力的日光→憲法のねじれ→憲法の選びなおしの理論と、原爆投下→人類史のうえで未曽有の被害→平和利用への祈念、とは「ねじれを抱きしめる」という意味において同じ構造を持っていると思うのだ。

 

 このほか、他の著書で既に書かれている「ゴジラ=太平洋に沈む戦死者のよみがえり」の視点や、メディアに対する批判は興味深く、鋭い。

3.11――死に神に突き飛ばされる

3.11――死に神に突き飛ばされる

  • 作者: 加藤 典洋
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/11/18
  • メディア: 単行本

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0