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自然科学史の観点から原発批判 [濫読日記]

自然科学史の観点から原発批判

「福島の原発事故をめぐって」(山本義隆著)

 山本義隆_001.jpg 「福島の原発事故をめぐって」はみすず書房刊、1000円(税別)。初版第1刷は2011年8月15日。著者の山本義隆は1941年、大阪生まれ。東京大理学部物理学科卒、同大学院博士課程中退。予備校教師。「磁力と重力の発見」(2003年)はパピルス賞、毎日出版文化賞、大仏次郎賞。「一六世紀文化革命」(2007年、みすず書房)など著書多数。











 著者は東大在学中から素粒子を専攻、物理学徒として期待されたが、ある事情で大学を去った。予備校教師をしながら自然科学史を追究、大著「磁力と重力の発見」3巻を上梓した。

 注釈を除けば100㌻に満たない。装丁は白一色で簡潔。そっけない一冊だが、示唆するものは大きく、重い。概観して大きく三つの章からなる。第1章は「原発開発の深層底流」、第2章は「技術と労働の面から見て」。原発利権構造の背後に冷戦下の日本の支配層の政治的意図を見る。岸信介の述懐を引きながら、日本が潜在的な核兵器保有国であろうとしたことを明らかにする。ここから「脱原発・反原発は脱原爆・反原爆でなければならない」と結論付ける(24P)。このあたりまでは昨今の「脱原発・反原発」議論で比較的議論されてきたところだ。しかし、東電の副社長と原子力本部長を務めた人物の著書を取り上げた次の一節は、筆者の冷静かつ熱い志をうかがわせる。

 元東電副社長の著書にはおおむね次のようなことが書かれてある。

 (放射性廃棄物の)処分場閉鎖後、数万年以上というこれまでに経験のない超長期の安全性の確保が求められます。(略)地方自治体や国民に広く理解、協力を得る必要があり、理解活動がよりいっそう重要となります。

 これに山本は、次のようなコメントを付記する。

 正気で書いているのかどうか疑わしい。「数万年以上」にわたる「超長期の安全性」をいったい誰がどのように「確保」しうるのだろう。(略)ちなみに「理解活動」とはなんのことか。これまでのように、札束の力で「理解」させる「活動」のことなのだろうか。(37P)

 ここから山本は独自の思索を展開する。

 原発事故を蒸気機関の創成期にあったような事故と同レベルにとらえることは根本的に誤っている。(略)原発では、事故の影響は、空間的には一国内にすら止まらず、(略)時間的には、その受益者の世代だけではなくはるか後の世代もが被害を蒙る。(57P)

 原発周辺に住む何万、何十万という人たちにたいして、原発という未完成技術の発展のための捨石になれという権利は誰にもない。(58P)

 ここからが、山本の真骨頂である。第3章「科学技術幻想とその破綻」。

 古代ギリシアにおいては、人間は不完全なもので神こそが完全であるとされた。これが、16世紀のルネサンス文化革命を経て大きく変わる。人間が自然の力を使役しうると、公然と語られ始める。ガリレオ、デカルト、ニュートン、ベーコンの思想を背景に近代の科学技術思想が形成されていく。近代科学は人間の力を過信し、自然に対する畏怖を忘れ去っていく。そして、電磁気学の形成と、1800年のヴォルタによる電池の発明。山本は「科学理論が先行する形での技術開発、すなわち真の意味での科学技術が始まった」と位置づける。ここから、人間の「増長」が始まる。

 もともとマンハッタン計画は、理論的に導かれ実験室での理想化された実験によって個々の原子核のレベルで確認された最先端物理学の成果を、工業規模に拡大し、前人未到の原子爆弾の製造という技術に統合するものであった。(79P)

 水力や風力、火力は人間の経験主義に基づいて利用されるようになった。しかし原子力は純粋に物理学理論に基づいて生みだされた。そのために、人間の制御能力を超えたエネルギーなのだ。これに、米ソ冷戦時代の肥大化した国家のシステムがかかわり、今日の原発利権構造が出来上がったのである。

 「人間と科学」という観点から原発を批判した、貴重な一冊である。

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

福島の原発事故をめぐって―― いくつか学び考えたこと

  • 作者: 山本 義隆
  • 出版社/メーカー: みすず書房
  • 発売日: 2011/08/25
  • メディア: 単行本

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