SSブログ

疾走感が素晴らしい~映画「息もできない」 [映画時評]

疾走感が素晴らしい~映画「息もできない」

 前評判が高いのは知っていた。「暴力」をテーマとする韓国映画。なんだかなあ…という感じがないでもなかった。しかしキネ旬で外国映画ベストワンだという。なんで、と思い観た。世間のはるレッテルについ踊らされるおのれに嫌悪感を抱きながら。

 事前の予想は見事に裏切られた。巧い、重い、そしてこの疾走感はなんだ。

 幼いころ凶暴な父親のために母と妹を目の前で失ったサンフン(ヤン・イクチュン)は心に傷を残しながら借金の取り立て屋として暴力に明け暮れる。ふとしたことで出会った女子高生ヨニとどこか通じ合うものがある。ヨニもまた母を失い、暴力的な父と弟を抱えて暮らす。サンフンとヨニは突っ張り合いながらも互いに優しさを見いだす。せつない思いが二人を包み始める。

 スクリーンを前に、日本映画「竜二」【注】を思い出していた。竜二もまた「暴力」にしか己の表現方法を見いだせない。心を通じ合った女性と家庭を持つが、小さな幸せにとどまることができず再び暴力の世界に戻っていく。

 サンフンは、結論から言えば平穏な生活を夢見ながらもそこへたどり着くことができない。そこが「竜二」と違っている。しかし、ひとたび「修羅」の世界に足を踏み入れたものは二度と平穏な生活へは戻れない、というメタファーとしてとらえれば結末はそれほど違ってはいないともいえる。

 091201_ikimodekinai_main.jpg

 実を言えば、この映画ではストーリーをこと細かに紹介することは、ほとんど意味をなさない。本当に意味を持つのは、それぞれの「シーン」である。しがらみから抜け出せない登場人物たちが、「息もできない」閉塞感の中で暴力を爆発させる。暴力の起爆する瞬間が、次々と映像化される。裏側には閉塞感の中でたまりにたまったエネルギーの塊がある。

 「竜二」はいかにも日本的な、ピュアな存在感と、自然に漂うある種のせつなさが描かれていた。ここにあるものは、それとは違う。日本的な「せつなさ」には程遠いアジア的な存在感と疾走感である。逆に言えば、だからこそヨニのひざでサンフンが泣く、あのシーンもあえて必要だったのでないか。

 製作、監督、脚本、主演のヤン・イクチュンに脱帽だ。

【注】1983年製作。脚本、主演の金子正次は公開直後にがんで死亡。金子とともに、妻を演じた永島映子が光っていた。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0