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「寄付キャラ」という発明~「伊達直人」現象 [社会時評]

正義への渇望・「寄付キャラ」という発明~「伊達直人」現象

 タイガーマスクこと「伊達直人」によるランドセルなどの寄贈運動が続いている。全国で数百件はあるらしい。もはや集計不可能な数字になりつつある。この現象はなんだろう。「善意に満ちたハッピーニュース」といえば間違いではないが、それだけですませられないものもある。


 前提となる事実を押さえておこう。これは寄付行為である。これまで寄付といえば、実名または匿名でなされてきた。例えば寄付を文化として持つ米国では実名が主流であるが、日本では個人の場合、匿名が多いと思われる。これは何を意味するか。

 1月17日付読売によると、米国は年間約34兆円の寄付超大国で約76%が個人によっている。日本は年間約7000億円の寄付小国で約64%は企業によっている(松原隆一郎「タイガーマスク運動」=データは三菱総研・山田英二氏の試算)。この差の背景に宗教観があることは想像に難くない。米国ではキリスト教的な共同体意識が個人の寄付行為を促す。渡辺靖著「アメリカン・デモクラシーの逆説」(岩波新書)には毎週の予算8万㌦、うち3分の2は信者からの寄付というメガチャーチの実態が紹介されている。

 一方の日本には、寄付で社会を支えるという発想がもともとない。寄付といえば多くは「施し」を連想する。これは仏教思想から来るものであろう。寄付は社会的行為と見られるより、極めて個人的な自己満足的行為と受け取られやすい。実名を出しての寄付は社会から「偽善」とみられ、やっかみの視線が集中する。


 社会的な背景も説明しておく必要があるだろう。小泉政権による新自由主義的改革は、社会的格差を助長させた。例えば米国では、宗教的共同体意識によって教会などのセーフティネットが張られているが日本にはそれがない。かつては地域共同体がその役割を果たしたかもしれないが、とっくの昔に破壊されてしまった。派遣社員を首になった若者はそのまま路上生活者になってしまう現実が日本にはある。こうした現状の変革を求めて政権交代はなされたはずだが、民主党政権は見ての通りの体たらくである。

 この現実はこのまま変わらないのかという失望感は、たとえ表面的でせつな的であっても、むくな善意=正義感による格差是正への渇望感を生んでいる。もちろんマクロ的にみると多くの人が指摘するように、この裏にはイデオロギーによる世界支配、という構図が崩れたこと、すなわち冷戦の終焉があり、日本の個別事情でいえばバブルの崩壊によってパイの拡大=正義という価値観が崩壊したことなどがあるだろう。


 ではなぜ「伊達直人=タイガーマスク」なのか。実名ではやっかみの視線を浴び、偽善者と陰口をたたかれるかもしれない。匿名だとニュースの洪水の中で埋もれてしまう。ただ「格差是正」がなされればいいわけではなく、ここでは「正義」が、現実の政治の中で不在であるからこそ、求められているのである。それが「正義のヒーロー=伊達直人」による寄付―という行為のかたちを生み出している。特定のキャラクターに思いを託すことで匿名でもなく、実名でもない世界に身を置くことができるのである。それはわが身を含めてだれも傷つけることなく、一方で「自分は正義を体現した」という一体感を味わうことができる空間である。


 1月25日付毎日の「月刊ネット時評」には「ネットにおける公共性 『公』でも『私』でもない『社会』」という一文が載っている。まさしく「タイガーマスク運動」は「公」でも「私」でもない空間での出来事である。その意味では、この運動のヒントはネット社会にあったかもしれない。精神科医の斎藤環は「タイガーマスク運動 『キャラの善意』は偽善か」(123日付毎日「時代の風」)の中で「小さな善意の表現形式として、この『キャラ祭り』は、日本人ならではのナイスな『発明』だった。そのことの価値は誇っていい」と書く。この現象の意味を言い当てている。

 そういえばもはや旧聞に属するがマイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」が売れている。共通の社会的事情によるものかもしれない。「正義」が渇望されている。


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