電子の哀しみ・文化の至福 [社会時評]
電子の哀しみ・文化の至福
ある映画を見ていると、ベルリンの新聞社が出てきた。机の上に刷りたての新聞。ナチが支配していた時代だ。サイズはやや小さく、われわれが日常読む新聞とは違っていた。二つに折ったそれはほぼ正方形。見慣れた新聞を二つにしてみると横長になる。ということは、この新聞はやや縦長でもあるらしい。
「ベルリナー判」であろう。名称は「ベルリンの日刊紙」からきている。ドイツの戦前、戦中に発行された新聞がこのサイズだと聞く。連合軍によるベルリン空襲でナチに協力的だった新聞社は徹底的に破壊され、戦後しばらくはこのサイズの新聞も途絶えていた。昔ちょっとしたことで調べたことがあるが縦470㍉、横315㍉というのが一般的らしい。日本の新聞が縦545㍉、横406㍉前後であることから、大体のサイズの感覚は分かってもらえるだろう。縦横の比率でいえば、ベルリナー判が1.49:1であるのに対して日本の新聞は1.34:1になる。
だいたい、日本の新聞は大きすぎる。両手で持って広げれば疲れるし、電車の中で広げるなどはとてもできない。つい小さく畳んで読むようになる。机の上で広げればほとんどのスペースを占めてしまう。もっと小さくならないものか。高齢化社会である。お年寄りはもっと大変だろう。いまどき新聞の愛読者と言えば高齢者であろうに、ずいぶんと不親切なことだ。
新聞を単純に2分の1の大きさにした「タブロイド判」というのもあるが、これはニュースを読むには小さすぎる。その中間であるベルリナー判は便利である。だから、というべきか、ヨーロッパではこのサイズの新聞が増えているという。英国のガーディアンや仏のル・モンドなど、名だたる新聞が採用し始めている。インドや韓国でも導入されていると聞く。世界の新聞の3分の1が既に小型化に向かっていると聞いたこともある。
ではなぜ、日本では普及しないのだろう。大きく二つの要因がある。一つは、広告は大手代理店が寡占的に扱っているため、違うサイズの新聞を作りにくいこと。広告サイズを変えることは至難の業なのだ。例えば朝日、読売といった全国紙が文字の拡大化に伴って記事の縦サイズを変えているが(1段の長さを計って比べてみると分かる)、広告サイズは変えられずにいる。大手トップ2紙の力をもってしても電通には勝てないという業界内の事情がある。もう一つの事情は、日本の新聞は1紙あたりの部数が多いため、印刷サイズを変えるための投資額(輪転機の更新費用)が莫大になり、リスクが大きすぎること。
しかしこれらは、まったく企業内の事情にすぎない。言ってみれば企業の都合で読者は不便を強いられているわけだ。
こんな不満をたらたらと書き連ねることができるのは実は、新聞が紙という「モノ」でできている、ということにもよっている。ときどき図書館あたりに行って日ごろ読まない新聞をめくってみたりするが、そうすると時々静かな館内で舌打ちする声が聞こえる。「ガサガサ」という音が耳ざわりなのだ。ついそおっとめくるようになる。でもこうした付き合い方は、実は温かい。人間的でもある。大きいだの小さいだの、厚いだの薄いだの。
書籍が電子化されるという。果たして電子書籍は印刷本を凌駕し、駆逐するのか。確かに便利にはなるだろう。しかし、希望を含めて言えば、印刷した本はなくならないでほしいなあ。新聞にしても本にしても、手にとった手触り、におい、厚さ、薄さ、重さ、軽さが大切なのだ。特に本の場合、私にとっては「重さと厚さ」が重要な要素である。書かれた内容が、ずしりとした重みとともに手に伝わってくる。そんな感触を求めていつも本を読んでいるような気がしてならない。
ある人が「文明のしっぽになるより文化の頭になれ」と言ったけれども、そのとおりだと思う。「電子書籍」というしっぽより「本」という「頭」がなくならないでほしいとつくづく思う。
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