戦後保守政治の源流を行く~濫読日記「赫奕たる反骨 吉田茂」 [濫読日記]
戦後保守政治の源流を行く~濫読日記 |
「赫奕たる反骨 吉田茂」(工藤美代子著)
★★★☆☆ |
言うまでもないが、戦後保守政治の骨格をなしたのは吉田茂である。安保体制の基礎を築き、日米同盟による軽武装・経済重視のレールを敷き、日本という国家のデッサンを描いた。だからこそ、吉田をめぐる著書はあまたある。目の前の本棚に目を移してみよう。「吉田茂という逆説」(保坂正康著)、「さらば吉田茂」(片岡鉄哉著)、「戦後日本の宰相たち」(渡邊昭夫編)、「吉田茂と昭和史」(井上寿一著)。吉田をメーンに据えていないものも含めれば、もっとあるだろう。といっても、格別吉田茂に深い関心を持ち続けていたとは思わない。吉田という政治家が、特に昭和の政治史の中でそれだけの存在感を持っていた、ということのあかしだろう。
貴族趣味、ワンマン…。付けられた形容詞は多い。「バカヤロウ解散」もあった。強烈な光と影。吉田学校といわれる、その後の太い人脈。政治家としての骨格と軌跡を知るには、おそらく材料に事欠かない。しかし、その個性と人間性はどのように形作られたか。目を転じてみると、意外にも闇の部分が多いことに気づく。
大胆に言ってしまうと、工藤美代子が描いたのは、宰相になってからの吉田ではない。そこに至るまでの吉田である。「政治家・吉田茂の前史」と言ってもいい。
表紙をめくる。いきなり出てくるのは家系図である。大久保利通の血をひく牧野伸顕の名も見える。しかしこの図は、吉田茂の家系の正統性を表すためのものではない。工藤は書く。
「吉田がどこで生まれたか、母はどういう立場の女性だったのか―吉田茂という、これだけの人物にしてなお肝心な点が不明瞭なまま諸説乱れ飛んでいるのが実情である」-。
土佐自由党の志士・竹内綱を実父に持つ茂は、幼くして吉田の家に養子に行く。岳父の牧野伸顕を加えれば3人の父を持つと後世伝えられるゆえんである。竹内の妻は瀧子といったが、実母は瀧子ではないとする説もあるようだ。日本史家として知られるジョン・ダワーもこの説に立つ。もちろん、こうした複雑な家庭の事情が吉田の精神構造に何らかの影を落としたことは、想像に難くない。だからこそ工藤は、吉田をめぐる「家」の構造を丹念に掘り起こし、描く。「第1章 土佐自由党の血脈」こそが工藤のこの書の畢竟の価値ある部分であろう。
工藤は若き日の吉田が書いた面白い詩を紹介している。
帰りたくとて家もなく
慈愛受くべき父母もなく
みなしご書生の胸中は
いかに哀れにあるべきぞ
強気で知られる吉田には、こうした一面もあったのである。
その一方で茂は吉田家の資産を継承し、牧野から過保護ともいえる帝王学を学ぶ。外務省に入省したとき、おそらくトップを走っていたのは広田弘毅だった。彼は省内を駆け上り、陸軍に抵抗できないまま首相となり、戦後は戦犯として裁かれる。少し長いが、この部分を引用する。
「遠くロンドンでこの知らせを耳にした吉田は、思わず天を仰いだ。
陸軍に揺さぶられ、隠忍自重でしのいでいた広田には気の毒な事をした、吉田はそうつぶやいて傍らの雪子に声を掛けた。
『俺なら我慢しないが、あいつは辛抱だけが取り柄のような男だからなあ』
(略)
こうしてみれば、吉田をめぐる昭和の動乱期は、まさにあざなえる縄のごとしといえよう。
陸軍強硬派によって吉田の運命は違った方向に展開した。その縄目の表裏はまだこの先も吉田に思わぬ結果をもたらすのである。
人生の禍福は最後まで分からない」
吉田が、戦後政治の大立て者としての一歩を踏み出す瞬間といっていいだろう。そして工藤は、この書の末尾で吉田の人生をこうくくる。
「良質な諧謔と、輝くような反骨魂に貫かれた破格の生涯が浮んでくる」
まぎれもなく吉田は歴史の先を読む勘所を押さえていた。それはなぜか、という闇の部分に、工藤は踏みいっている。
コメント 0