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八方ふさがりの現実~映画「遠いところ」 [映画時評]


八方ふさがりの現実~映画「遠いところ」


 舞台は沖縄。17歳のアオイ(花瀬琴音)はコザのキャバレーで働く。息子の健吾(2歳)、夫のマサヤ(佐久間祥朗)と暮らす。建築会社で働くマサヤは、出勤率が悪いと首切りにあう。生活はアオイの肩にかかるが、店に警察の手入れがあり、働けなくなる。酒におぼれたマサヤは街で喧嘩沙汰を起こし、3人にけがをさせる。示談金はない。店に相談すると「ウリ」しかないといわれる。風俗で体を売れば、キャバ嬢の何倍ものカネが手に入る。その道を選択したアオイの内部に変化が出始める。児童相談所の職員が訪れ、健吾を連れていく。風俗には手を出すな、と忠告していたキャバ嬢の親友・海音(石田夢実)は死んでしまった…。
 ひたすら堕ちていく。八方ふさがり、壁、出口なし。

 そんな映画である。この現実を、あなたはどう見るか。そんな問題提起ととらえられなくはない。作品の密度は高く、支えるのはアオイを演じる花瀬の存在感である。
 精神のどこかに破綻をきたしたアオイは施設に侵入し健吾を連れ海へ行く。このラストシーンの結末は、見るものに放り出される。希望なのか、絶望なのか。タイトル「遠いところ」からすれば、容易に死のイメージにつながる。時間の流れを見ると、水平線に浮かぶ太陽は、朝日である。その朝日に向かって健吾を抱え上げるアオイ。健吾がいるから生きてこられた。そう言っているようだ。これは、希望でなくてなんであろう。

 2022年製作。監督の工藤将亮は、ある新聞のインタビューで「ほぼノンフィクション」と語った。映像作品には実写や録音を使う手法があり、そのためドキュメンタリーというジャンル分けがあると理解していた(活字メディアでは、事実をそのまま再現する場合でも、活字で全面的に起こす必要があり、そのためノンフィクション、フィクションというジャンル分けが意味を持つ)。映像作品をノンフィクションと定義すれば、以上のような理解は覆される。もっとも、T・カポーティ―の「冷血」をノンフィクションノベルと呼ぶ向きもあるので、ノンフィクションムービーも、あってもおかしくないかも。
 監督の言に従えば「遠いところ」は「ほぼノンフィクションムービー」であろう。


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