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集団の暴走にどう向かう~映画「福田村事件」 [映画時評]


集団の暴走にどう向かう~映画「福田村事件」


 100年前の関東大震災直後にあった、香川から来た薬の行商人一行の虐殺事件を映画化した。9月6日、千葉県東葛飾郡福田村三ツ堀(現在の野田市三ツ堀)で15人が襲われ、9人が落命した。妊婦が一人おり、胎児を含めると犠牲者は10人になる。
 震災直後に流れた「朝鮮人が暴動を企てている」という流言が発端だった。井戸に毒を入れ、放火をして回っているというデマが広がり、不安に駆られた地域の自警団が朝鮮人狩りを行い、さなかに福田村事件も起きた。

 監督は森達也。これまでオウム事件や佐村河内事件をドキュメンタリーの形で映像化した。姿勢は一貫していた。善悪の色が簡単につけられ、流される世論に異議を申し立てた。オウム信者は全員が極悪非道なのか、佐村河内守氏は本当に詐欺師なのかを問いかけた。今回は劇映画だが「流される世論」「集団の狂気」に異を唱えるという姿勢は変わらない。
 事件については、辻野弥生氏の優れたノンフィクション「福田村事件 知られざる悲劇」(五月書房)があり、森氏も寄稿した。

 映画でまず目に付くのは、澤田智一(井浦新)、静子(田中麗奈)夫婦をオリジナルに造形、配置したこと。智一は朝鮮で教師をしていたが日本軍の朝鮮人虐殺を目にし、帰国した。当時の軍国主義に疑問を持っている。静子は性を含め自由奔放な性格。こうした二人の目を通して事件はどう見えたか。ここに森の意図(意思)が見てとれる。集団の内側にいては見えないものを、外から見ることで形を得ようとしている。集団から自立することで、狂気に流されない道を探る。
 在郷軍人を先頭に、先陣争いをするかのように朝鮮人狩りが行われる。四国弁があやしい日本語とされ、朝鮮人では、と疑われた。一行の親方、沼部新助(永山瑛太)は「朝鮮人なら殺してもいいんか」と抵抗するが、集団の暴走は止まらない。約100人が手を下したという事件は、8人が罪に問われたが、大正天皇が没した際の恩赦で全員が釈放された。この事実も、時代の雰囲気をよく物語っている。
 辻野の著作と森の映像。100年後にようやく明らかにされた事件の全貌。貴重な収穫である。
 2023年製作。


福田村事件.jpg


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