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ためらう日本社会~映画「ONODA」 [映画時評]


ためらう日本社会~映画「ONODA」


 アジア・太平洋戦争が終わった後もフィリピン・ルバング島のジャングルにひそみ、29年後の1974年3月に日本に帰国した小野田寛郎元陸軍少尉の壮絶な体験を映画化した。フランス・ドイツ・ベルギー・イタリア・日本合作。監督はフランスのアルチュール・アラリ。実は、観おわってもっとも心に引っかかったのは内容よりこの点(製作シフト)だった。なぜ、この映画は日本で作られなかったのだろう。

 半世紀も前になるが、当時の社会的反応がどんなものだったか、おぼろげながら覚えている。それは必ずしも幸福な帰還ではなかった。「戦場」を引きずった一人の男を、高度経済成長を遂げた日本社会は、どこかで持て余していた。もっと端的に言えば、帰還という事実がもたらしたミスマッチ=不適合状態の空気が漂っていた。そのためか、彼は1年後にブラジルに旅立った。当時の不適合状態を、日本社会は今も引きずっているのではないか。この辺りの事情は、五十嵐恵邦著「敗戦と戦後のあいだで 遅れて帰りし者たち」(筑摩書房)に詳しい。
 小野田元少尉は1944年、陸軍中野学校二俣分校で諜報活動の教育を受けた後、12月にルバング島に派遣された。レイテ海戦の直後、日本の敗色が決定的になったころである。しかし、中野学校で訓練を受けた情報班将校として、玉砕や降伏はありえなかったという。遊撃隊としてジャングルにひそみ、敵の前線をかく乱する。その任務遂行のため29年が費やされた、と帰国後証言する。つまり、帰還まで戦争は終わっていなかった、という主張である。
 これを、戦後社会はそのまま受け入れなかった。いくらなんでも、戦争が終わっているかどうか20年以上も分からないものだろうか。まして情報将校としては、ということである。
 小野田元少尉は「戦後」に島民を「戦闘行為」として殺害している。その数、10数人とも30人ともいわれる(本人はある対談で「30人」と答えている=「敗戦と戦後のあいだで」から)。ここにも「戦争が終わっていたことを知らなかった」と主張する根拠がある。もし「終戦」を知ったうえで島民を殺害したとすれば、立派な殺人になる。
 映画でも登場するが、単身現地に乗り込み帰国を呼び掛けた鈴木紀夫さんに対し「中野学校の教官であった谷口義美少佐の命令があれば山を下りられる」と応じている。この言葉に沿って谷口さんが現地で山下奉文大将の降伏命令と参謀本部別班命令を口頭で伝えた。もちろんこれは、戦後社会に生きているものには何の意味もない。それでもあえて出された命令は完全なフィクションである。
 虚構の儀式によって島民殺害は「戦闘行為」として封じ込められた…はずだったが、戦後29年たって「戦場」からの帰還を迎え入れた日本社会(特にメディア)はそうした黙契にほとんど関心を払わなかった。このため、小野田元少尉を見る目は「英雄」から「単なる山賊」までさまざまに別れた。
 小野田元少尉の行動をめぐる評価は放置され、今も定まっていないように思う。ここに「小野田」をテーマとする映画を作ることへのためらいの原因がありはしないだろうか。


(論旨の多くは「敗戦と戦後のあいだで」を参考にしました)


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敗戦と戦後のあいだで: 遅れて帰りし者たち (筑摩選書)


敗戦と戦後のあいだで: 遅れて帰りし者たち (筑摩選書)

  • 作者: 五十嵐 惠邦
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2012/09/13
  • メディア: 単行本


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コメント 2

BUN

あの凛々しい姿の小野田さんははっきり覚えている。はて、もう一人はというと、ニュースに出てくる名前などほとんど覚えてはいないのに、少したって「横井庄一さんだ」名前まで思い出せた。それほどこのニュースが衝撃だった。はて小野田さんの下の名が思い出せない。昭和25年生まれの私は24歳だった。
by BUN (2021-12-27 23:12) 

asa

>BUNさん
さて、小野田さんは本当に30年近くも戦争が終わったことを知らなかったのか。謎はまだ解けていません。
by asa (2022-01-11 16:18) 

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