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マスコミの寵児はいかにして生まれたか~濫読日記 [濫読日記]

マスコミの寵児はいかにして生まれたか~濫読日記


「大宅壮一の『戦後』」(阪本博志著)


 日本の映画史を振り返ると大きく二つのヤマがあった。最初のヤマは大正末期から昭和の初めにかけてで、1920年から30年代。二つ目は戦後、1950年代の後半から60年代の初頭にかけて。58年に日本の映画人口は112700万人で史上最高だった。
 むろん、映画だけがこのような動きを見せたわけではない。背景には社会の様々な動きがあった。中でも大きいのは大衆社会の平準化と高揚であろう。二つの時期は第一次、第二次大戦の直後に訪れた。二つの大戦は世界的に国家総動員体制の確立を迫った。このことの社会的記憶・遺産と戦後の世界的な秩序の安定が相まって大衆社会の平準化・高揚が生まれたと容易に推測できる。 


大宅と戦争体験
 この二つのヤマを生きた著名な人間として大宅壮一がいる。
 大宅と一つ目のヤマの出会いに言論の市場化=批評のマテリアリズムの萌芽を見たのが「批評メディア論 戦前期日本の論壇と文壇」(大澤聡)だった。大宅と二つ目のヤマの出会いに焦点を当てたのが「大宅壮一の『戦後』」(阪本博志)である。
 阪本は、日本の社会史と大宅の個人史を重ねるにあたって二つの視点を導入する。前田愛の大衆社会論と鶴見俊輔の転向論である。前田によれば1920年代半ば~30年代半ばと195560年代にかけての大衆社会化の中で大宅が活動を展開。阪本はこの中で、戦争体験が大宅にどう作用したかを見た。
 戦前、共産主義思想にシンパシーを抱いた時期があった大宅は、国家総動員体制を経て(大宅はプロパガンダ映画製作のためジャワに派遣された体験を持つ)、戦後マスコミの寵児となった。このプロセスを、鶴見は以下のように分析する。
 ――大宅の最初の著作「文学的戦術論」(1930年)と最近の著作「『無思想人』宣言」(1955年)とをくらべてみるならば、当時の前衛的団体のオルグとしての大宅の活動形態と、現在のマス・コミ(原文ママ)諸機関のタレントとしての大宅の活動形態とのあいだにあるとおなじだけのひらきがみえる。
 ――彼の転向は、前衛的知識人から傍観者的知識人への転向のコースの典型であり、またこの時代の日本の知識人としてはもっとも大衆の転向のコースに近い。(いずれも「共同研究 転向」から。「大宅壮一の戦後」から孫引き)
 大宅は戦後、週刊誌やテレビで「大宅の顔を見ない日はない」といわれるほど売れっ子になったが、戦前の思想遍歴や戦争体験、戦後の転向が正面から問われたことはなかった。それは彼が、鶴見が言うように、知識人のそれではなく大衆レベルでの「転向」コースをたどったためであろう。「戦後思想とは、戦争体験の思想化であったといっても過言ではない」(小熊英二「<民主><愛国>―戦後日本のナショナリズムと公共性」から。「大宅壮一の戦後」から孫引き)という「戦後」を、大衆と同じ地平で引き受けたからこそ、大衆文化が高揚した1950年代に、その言説が大衆に受け入れられたのではないか。 


「無思想」という思想
 とはいえ、戦後の論壇への復帰は容易ではなかったようだ。戦前左翼が戦中に軍部の要請に従い、戦後は再び民主主義、共産主義思想に戻るというのは知識人にありがちだが、大宅はそうはしなかった。戦後の一時期、農業で暮らした。自身、このころを「文筆の断食期」としている。一方で「猿取哲」(サルトルに哲学をくっつけた)の人を食ったペンネームで書いたりもしていた。「変革の直後に動き回る人間は、世の中が安定すると一掃されるということが分かっていたから、なにも書かなかった」(1957年)と振り返るが敗戦後、筆を折った時期と猿取、大宅の時期は明確な色分けができるものではなかった。「猿取」と「大宅」が併存する時期がしばらくあったと、綿密な調査の上で阪本は書いている。
 大宅が戦後の論壇に「再登場」したのは、1950年の「『無思想人』宣言」(「中央公論」)によってであった。この「無思想」という「思想」はどんなものだったか。大宅(猿取)の文章から引く。
 ――ジャーナリズムは、それ自体商品の一種であると共に、人類文化のすべての分野を商品化する機能を持っている。幽玄なる思想も、崇高なる芸術も、ひとたびジャーナリズムの手にかかれば、(略)レッテルを貼ってジャーナリズム市場に陳列されるのである。(1949年「前進」)。
 猿取哲のペンネームで左翼系の雑誌【注】に寄せた。この考えはその後も一貫しており、ジャーナリズム→商品→分業は、その後週刊誌で実現させた、データマンとアンカーマンの執筆分業体制にも通じている。
 ともあれ「『無思想人』宣言」によって大宅は戦後ジャーナリズムの方向性を規定しただけでなく自らの位置を定め、戦後マスコミに一時代を築いた。心不全で亡くなったのは19701122日。三島由紀夫が市ヶ谷で自決する3日前だった。阪本は大宅論の締めくくりとして、あらためて「大衆社会化」「転向」「戦争体験」というキーワードを挙げている。大宅と三島は生きた時代こそ違うが、ともに戦後を体現する知識人であった。しかし、上記の三つのフィルターを通してみた時、位相の落差の大きさに愕然とする。
 阪本の労作は戦後マスコミの寵児だった大宅の成り立ち方、成分表を明らかにした、といえるのではないか。
 人文書院、3800円(税別)。

【注】「前進」は、日本社会党労農派の理論的指導者山川均が1947年に創刊した。



大宅壮一の「戦後」

大宅壮一の「戦後」

  • 作者: 博志, 阪本
  • 出版社/メーカー: 人文書院
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: 単行本


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