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これは「監視」か、それとも「眼差」か~濫読日記 [濫読日記]

これは「監視」か、それとも「眼差」か~濫読日記

 

「安心のファシズム―支配されたがる人々―」(斎藤貴男著)

 

 教育や医療といった公共サービスは市場によって担われ、監視機能と保険会社によって生活が保障される<超帝国>が出現すると予言したのは哲学者ジャック・アタリだった【注1】。生活リスクに相応の保険料を支払い、同時にリスク回避のための規範を求められる。その通り行動していたかは監視カメラで確認される。被保険者であるオブジェ自体にもセンサーが埋め込まれ、行動記録は整理され記録される―。

 

 こうした近未来像に、斎藤貴男もまた警鐘を鳴らす。しかし、来るかもしれない監視社会を危惧しているだけではない。監視されることを大衆自身が求め、かつ容認しているのではないか、という。

 斎藤はまず、自動改札機と携帯電話に着目する。車いすの通れない改札口。しかし、人々は弱者の困惑には目もくれず狭い改札口へと誘導され、ICを埋め込んだカードをかざす。それは群衆の行動記録、ビッグデータとして集積され、何らかの活用がなされる。

 一方で、そうしたデータを踏まえて魅力的な宣伝がなされる。大衆一人一人に購買意欲をそそるメッセージを伝えるのは携帯である。駅を降りた個人に、近くの店で何が売られているかメールが送られる。そんな時代も遠くはない。そうした誘導を大衆自身が求めているのではないかと斎藤はいう。

 サイバネティクスという言葉、「操舵の術」を語源とする。ここでは、文字通り大衆を「操舵」する技術としての意味を持つ。両輪が自動改札と携帯、というわけだ。特に携帯はもはや通信ツールではなく生理器官化している、といっても過言ではないと斎藤は言う。

 そのうえでベストセラー「ケータイを持ったサル」の著者、正高信男・京大教授の言葉を引き、携帯は公共空間を拒絶し私的空間に閉じこもる若者意識につながっていると指摘する。携帯によって生まれる「つながってる」意識は実は公共空間を伴わない意識であり、最終的には国家によって支配された空間に置かれることを意味する、と危惧する。そして「自動改札機と携帯電話」の章は、こうくくられる。

 

 ――ケータイがなければ何もできない、暮らしていけない時代がやってくる。巨大なシステムに操られることが苦にならない、むしろ心地よく感じられる時代が。

 

 監視カメラは今日、多くのメディアで「防犯カメラ」と言い換えられる。筆者(asa)はかねがね、違和感を持ってきた。設置カメラに本来、防犯機能はなく、あるのは監視機能である。監視することで「防犯」の役割が果たされることはあろう。しかし、初めから「防犯カメラ」といってしまえば、監視することで生まれるデメリット(プライバシー侵害や肖像権の侵害)は切り捨てられ、効能ばかりがうたわれることになる。

 斎藤も、その点に気づいている。もっとも、彼は防犯と監視を同列に見ているのだが。この書では、杉並区が設置を前に開いた専門家会議の議論が詳細に紹介された。回を追って人権侵害を危惧する声が排除され、ほとんど国民皆犯罪者論とでもいうべき声が大きくなっていく様子がよくわかる。天下の往来は警察の支配下にでもあることになり、集められたデータは顔認証システムによって振り分けられ、自動改札や携帯のビッグデータとともに巨大な監視社会を築いていく。

 さて、あなたはこうした近未来像を是認するか、拒否するか。単なる杞憂だと笑って通り過ぎるか。

 斎藤は、自説とは少し違う視点として社会学者・大澤真幸の言葉を引いている。

 

 ――われわれは、監視されていることを恐れ、そのことに不安を覚えているのではなく、逆に、他者に――われわれを常時監視しうる「超越的」とも言うべき他者に――眼差されていることを密かに欲望しており、むしろ、そのような他者の眼差しがどこにもないかもしれないということにこそ不安を覚えているのではないだろうか。

 

 これに対して斎藤は、特に新自由主義社会では、監視とは権力とビジネスが渾然となったもので、監視を認めれば社会は「するもの」と「されるもの」に差別化される、という。そのうえで、果たして今日の社会で、我々が「自由」と思っているものは本当にそうなのか。権力によって操作された「自由」ではないのか、と問う。

 第1刷は15年前だが、内容は驚くほど古さを感じさせない。例えば小泉純一郎首相(当時)についての寸評。

 ――ちょっと類を見ないナルシシズム。他者の存在に対する無邪気なまでの無関心。剥き出しの選民意識。それでいて、より上位の権力には躊躇なく尻尾を振ることができる、漫画のような人間が実在し、この国を差配しているという現実が、にわかには信じられない。

 

 現下の政治状況への評といっても通用する。

 

【注1】「21世紀の歴史」作品社

岩波新書、税別820円(税別)。

 

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

安心のファシズム―支配されたがる人びと (岩波新書)

  • 作者: 斎藤 貴男
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2004/07/21
  • メディア: 新書


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