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大岡文学の総体に分け入る~濫読日記 [濫読日記]

大岡文学の総体に分け入る~濫読日記

 

「大岡昇平の時代」(湯川豊著)

 

 私の中で、「俘虜記」や「野火」を遺した大岡昇平は優れた戦場小説家(戦争小説家ではない)であった。世間では、これらの小説を評価して「戦後派作家」の典型とみなす向きもある。こうした見方に対して、湯川豊はこう断言する。

 ―-大岡昇平は昭和の作家である、と私は考えている。

 作家としてのスタートは、敗戦翌年に書いた「俘虜記」だった。亡くなったのが19881225日。「昭和」が「平成」に変わる10数日前だった。この昭和の作家が身を賭して何を遺そうとしたのか、それはきちんと受け継がれているのか。死から30年たった今、忘れ去られてはいないか。この焦燥感にも似た思いが、湯川に「大岡昇平論=大岡昇平の時代」を書かせたようだ。

 大岡の文体に対する評価の入り口は、私も同感だが、非情なまでの正確さである。死が日常である戦場においても、わが身を正確に分析する。こうした態度が「俘虜記」や「野火」を名作に押し上げ「レイテ戦記」という分厚い戦記を生み出した。

 湯川はこの点について、次のように語る。

――感情ばかりでなく、衝動すらこのように正確さの秤にかけられる。「俘虜記」は(略)数ある戦争体験の記録のなかでも際立っている。

 大岡は敗戦の前年7月、35歳の通信兵としてミンドロ島に上陸した。大本営は当初、ルソン島を米軍との決戦場と見たが、後にレイテ決戦に変更した。こうした変更はなぜなされたか。一兵卒である自分は、なぜミンドロ島に送られたのか。こうした戦いの全貌をできる限り明らかにすることが、フィリピンで死んで行った者たち(ほとんどは戦死ではなく病死または餓死だったが)への供養ではないか。それが、正確極まりない大著「レイテ戦記」を書くに至った動機であろう。

 「俘虜記」を書きあげた後、大岡は二つの長編小説に取り組んだ。「野火」と「武蔵野夫人」である。この二つ、「孤独」というキーワード(大岡の言葉でいえば「孤影悄然」)を除くと、対照的な内容である。「野火」は一人敗走する兵の飢餓と、その先に見える「神」の横顔を描いた。「武蔵野夫人」は中産階級の男女の関係を通して「戦後」の空気を描き出した。その微妙な感じを湯川はこう指摘する。

――道子の中に「戦前」があるから、彼女を取り巻く勉とか親戚の大野の「戦後」がいよいよ際立ってくる。あの戦争の及ばなかった場所と時間が小説の中に封じ込められているのがかえって感じ取られるのだ、と思われる。

 「戦後」の空気をもっと如実に表現したのが「花影」であろう。複数の男の間を行きかい、自死した銀座のホステスを描いた。モデル小説といわれる。心理描写の克明さにおいて傑作と評価が高い。

 こうした一連の作品とは別に、大岡には明治の時代を描いた小説がいくつかある。例えば「天誅組」や「境港攘夷始末」である。こうした小説群がなぜ書かれたのか、これまでよくわからなかったのだが、「堺事件」をめぐる大岡の鴎外批判―「堺事件疑義」「『堺事件』の構図―鴎外における切盛と捏造」の項を読むに至り、なぜ大岡がこれら明治初頭の事件にこだわったのか、多少腑に落ちる部分があった。政治権力との構図の中で、愚直に尊王攘夷を貫いた下級武士への鴎外の冷たいまなざし(それは、今風に言えば明治政府への過剰な忖度)が許せなかったのだ。それは、明治という時代に対して斜に構えた夏目漱石への共感でもあるのだが。その心情は、そのまま参謀本部に無責任に操られた戦場の兵士への思いにつながっている。そのことを湯川の言葉でいえば、次のようになる。

――近代日本という一筋縄ではいかないような社会がどうしてできたのか、その解明をしようとした試みなのである。近代日本のゆがみは昭和に繋がっている。大岡の発想には、自分が生きている昭和時代がいつもあった。

 このほか、裁判小説の傑作「事件」や昭和初期の小林秀雄、中原中也との交友にも、当然ながら触れている。「大岡の文学があまり読まれていない」ことと「私のなかにある大岡の存在感の大きさの、あまりにかけ離れた隔りに茫然とする」湯川の嘆きが聞こえてくる一冊である。著者は元「文学界」編集長。私には「イワナの夏」の著者として身近だった。

 河出書房新社、2300円(税別)。

 

大岡昇平の時代

大岡昇平の時代

  • 作者: 湯川豊
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2019/09/03
  • メディア: 単行本

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