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自立した個人を認める社会に・映画「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を観て~社会時評 [社会時評]

自立した個人を認める社会に・

映画「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を観て~社会時評

 

 昨今の安倍晋三政権の腐敗ぶりは目に余る。森友学園、加計学園疑惑に続いて、今度は「桜を見る会」である。見境なく「お友達」に招待状を送る。後援会パーティーの会計は「なあなあ」、ばれれば子供だましの方便で言い訳をする。森友、加計に通じる体質が見え隠れする。国民の知る権利がないがしろにされる。国会における野党、社会におけるメディアの力が弱体化した(弱体化された?)結果の体たらくである。

 「ⅰ 新聞記者ドキュメント」を見た。最近、話題に上ることの多い東京新聞社会部の望月衣塑子記者を追った。監督はオウム真理教を題材にした「A」「A2」、佐村河内守を追った「FAKE」の森達也。

 沖縄、森友、加計問題、前川喜平元文部事務次官問題を通じ政治権力と闘う望月記者に密着。彼女のタフネスぶりに驚嘆するが、一方で「森ドキュメンタリー」に共通するあるシーンに気づく。映像のフレームに、さりげなく森が入ってくる。第三者でなく、あくまで森の映像と主張する。

 このドキュメンタリーを、安倍政権対反・安倍政権の構図でのみとらえるのは、適当でないように思える。

 問題なのは組織ジャーナリズムの横並び意識であり、その上に乗った官邸のメディア操縦術である。結果として国民の知る権利はなおざりにされ、政権は専横な振る舞いに終始する。作中、籠池泰典氏の言葉だったか、安倍政権は、国民はバカだとタカをくくっている、嘘をついてもすぐ忘れてしまう、というのがあった。こうした政権の傲慢な態度がまかり通るのは、結局は国民の知る権利をないがしろにし、批判に耳をふさいだ結果であろう。

 しかし、繰り返される菅義偉官房長官とのバトルでも、望月記者は孤独である。だから、官邸は巧妙にそこをついてくる。では、どうすればいいか。望月記者を孤立させないことである。それは政党、市民運動、労組が支援すればよい、ということではない。

 森が言いたいことも、そこだと思う。組織ジャーナリズムが横並び意識を捨てること。記者が自立的に動くことをきちんと認めること。結果として、政権に不都合な振る舞いがあれば批判、修正の圧力が働くこと。右とか左とか関係ないのである。ドキュメンタリーの最後で、1944年8月25日のパリ解放の映像が挟まれていた。このとき、ナチスに協力した人々1万人が正当な手続きなしに命を奪われた、とのナレーションがかぶせられた。ナチスにしても反ナチにしても、集団が一色に染まることはいいことではない、とこのドキュメントは締めくくっていた。

 自立した個人を認める社会、一人称単数の主語を大切にする。その視点こそがいま問われているのではないか。タイトルにある「i」の意味もそこにあると思う。だから、森もフレームの中で背中を見せている。

 それにしてもこの映画、広島県内の上映館は尾道市内と広島市内の各1カ所。なんという寒々しさか。


i新聞記者.jpg


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