SSブログ

耽美的映像の果てに戦争の愚かさを描く~映画「花筐」 [映画時評]

耽美的映像の果てに戦争の愚かさを描く~映画「花筐」

 

 がんで余命を告げられた大林宜彦監督の作品。壇一雄の短編を映画化した。軍靴の足音が迫る時代の若者群像を描き、めくるめく168分に仕上げた。耽美的な映像に抵抗のある向きもあるかもしれないが、私自身はかつての鈴木清順や林静一「紅犯花」の遠い記憶を蘇らせるようで懐かしい思いがした。

 1941年、太平洋戦争が始まる直前の佐賀県唐津市の予備校が舞台。親元を離れ、アムステルダムから帰国した榊山俊彦(窪塚俊介)は、若い叔母・江馬圭子(常盤貴子)のもとで新学期を迎える。そこには肺を病む美しい従妹・美那(矢作穂香)がいた。利彦はやがて、級友の吉良(長塚圭史)や鵜飼(満島真之介)、美那の友人・千歳(門脇麦)らと交友を深める…。

 丘の上に立つ叔母の居宅は和洋混交で海が見え、アンニュイな気配が漂う。美那や、彼女を取り巻く少女たちも、貴族的な頽廃を漂わせている。俊彦の旧友・吉良は虚無的で合理的な頭脳の持ち主。鵜飼は美しい肉体に健全な精神を宿し、アポロンの神を思わせる。しかし、最も美しく存在感があるのは叔母の圭子であった。彼らは海辺へピクニックに出掛け、時に互いを傷つけ合い、たばこを吸い、酒を飲む。戦争が迫る中での、ささやかな抵抗…。

 こうして、耽美の極致ともいえる映像世界が展開される。もはや、ストーリーを丹念に追うことに意味はないだろう。映像の裏側に潜むエロスとタナトスと不穏な狂気。しかし、本当に狂っていたのは誰だ。突然現れる出征兵士の隊列。肺を病んで血を吐く美那。しかし、本当に病んでいたのは誰だ。若者たちか、それとも時代か。

 これまで多くの「青春映画」をつくった大林が、実はこんな映画を撮りたかった、といっているようだ。若者は、自身の手で生と死を選ぶ。それを国家などに勝手に押し付けられてたまるか。戦争の愚かさを、戦場ではなく日常世界の映像美で描いて見せる。その可能性を感じさせた映画だった。

 蛇足を言えば、壇の原作では物語の舞台は架空の町となっており、大林の証言(光文社文庫「花筐」から)によれば、壇の示唆によって「佐賀県唐津」に設定、その際、唐津くんちも舞台装置として入れたのだという。また、大林は先の証言の中で、壇から映画化の許可を得たのは1975年と明かしたうえで、戦争の時代を軍国少年として生きた経験からくる怯えが、自分に映画を撮らせている、と述懐している。そして、戦争の時代を懸命に生きた若者を描く「花筐」がこれほどにリアリティを持つ今の時代への「怯え」をも語っている。

 

花筐.jpg


花 筐 (光文社文庫)

花 筐 (光文社文庫)

  • 作者: 檀 一雄
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2017/12/07
  • メディア: 文庫
 

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。