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あくまでも「あの時代」の飢餓感~映画「あゝ、荒野」前・後編 [映画時評]

あくまでも「あの時代」の飢餓感~映画「あゝ、荒野」前・後編

 

 寺山修司の原作を50年ぶりに映画化した。新宿を舞台に、プロボクサーとしてもがく二人の若者の荒涼とした飢餓感を描いた。原作の初版が1967年。この年の秋、第一次羽田闘争で京大生・山崎博昭が死亡、翌年には日大、東大闘争をはじめ全国に大学闘争が燎原の火のように広がった。このとき、若者の心中に何があったか、いまだに明快な解はない。こんな時代に、寺山は「あゝ、荒野」を世に問うた。

 少年院を出た新次(菅田将暉)は、あてもなく新宿の街をさまよう。二木健二(ヤン・イクチュン)は理髪店で働いていた。新次の父親は自殺、母は家を出ていった。建二の父も、息子を見捨てて失踪した。似た境遇の二人は元ボクサーでホスト上がりの片目こと堀口(ユースケ・サンタマリア)に、ボクシングジムに入らないかと声をかけられる。

 新次には、裏切ったかつての仲間山本裕二(山田裕貴)への復讐心が燃え盛っていた。そして、自分を捨てた母・君塚京子(木村多江)への憎悪も。日韓の混血児として生まれた建二は吃音症と赤面症に悩んでいた。そんな二人は心を通わすが、闘争心に歯止めがきかない新次と内にこもる建二は別々の道を歩み始める。

 …と、ボクサーへの階段を駆け上がる二人のストーリーに親への愛憎が絡み、さらには時代のフレームが架け替えられる。一つは2011年の3.11。もう一つは社会奉仕プログラム法制定をめぐるデモ隊の動き。こうして物語は東京五輪後の2021年から2022年の設定で進められる。

 まず、このフレームの変更について触れよう。確かに、50年前の物語を現代に再生するにあたって時代設定は難問だ。そのまま50年前のことにすると「なぜ今、映画化?」という疑問がわく。今回も、この点が吟味されたのだと思う。しかし、1960年代後半の大学闘争に足を踏み入れた人間なら分かることだが、当時の精神的飢餓情況とその中での実存を問う行為は、それなりに重かった。言い換えれば、当時の社会状況があるからこそありえた「飢餓」ではなかったか。高度経済成長半ばでの、深刻な貧困がまだら模様に残った社会。戦争の傷が癒えぬ中での戦後思想の不確実さと、それに伴う戦中世代(つまり親世代)への不信。揺るがぬ家父長制への懐疑と反抗。こうしたものが生み出す閉塞感が、若者にアナーキーな飢餓感を植え付けたのではなかったか。

 時代がもたらしたこうした側面をフィルターとして用いれば、この映画で描かれた二人のボクサーの飢餓感はよくわかる。半面、3.11=原発事故被災者や、プログラム法反対デモが、なんとちゃちな時代装置に見えることか。作中で、3.11事故を自虐的に語り、自殺願望を持つ東都電力社員(もちろん東京電力のパロディー)が出てくるが、そんな社員が事故後10年たって存在するのか。こうしてみると、時代設定の変更はあまり効果的ではなかったと思われる。

 菅田将暉は文句なしの熱演である。時代がどうであろうと、演じた「飢餓の境地」は痛いほどよく伝わる。「息もできない」で、暴力に明け暮れる取り立て屋を演じたヤン・イクチュンは、ここでも存在感を発揮した。この二人の出来が、作品を名作に押し上げた。脇を固めるユースケ・サンタマリア、木村多江もいい。一方で、新次と行動を共にする女・木下あかりは、役柄のわりに存在感が薄い。何とかならなかったか。

 結論を言えば、この映画は、持って行き場のない若者の閉塞感と飢餓感を熱く描いたが、あるのは「あの時代=寺山の時代」のもので「今の時代」のものではない、ということだ。例えば、「死」を輪郭として持ちながらあくまでも言語遊戯的、予定調和的な「夜空は最高密度の青空だ」と比べればわかる。感性の温度がまるで違う。それは時代のせいだろうと思う。2017年、岸善幸監督。

 

あゝ、荒野2.jpg


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