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おびただしい「死」を生み出す喧噪~映画「サウルの息子」 [映画時評]

おびただしい「死」を生み出す喧噪~映画「サウルの息子」

 

 194410月のアウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所。毎日、幾万人ものユダヤ人が殺された。衛生保持のためと称して、コンクリートで囲まれた大部屋に多数が押し込められた。頭上からはシャワーが注がれるはずだったが、実際に降ったのは毒ガス「チクロンB」だった。

 死体を処理したのはナチの兵隊ではなく、同じユダヤ人から選抜された者たちで、ゾンダーコマンドと呼ばれた。彼らを主人公にしたのが、映画「サウルの息子」である。

 予想を覆してハンディカメラによるクローズアップが連続する。静止カメラによる説明的な「絵」はない。何も語らず、ハンガリー系ユダヤ人でゾンダーコマンドの一人サウル(ルーリグ・ゲーザ)に密着する。彼の体温、息遣い、歩を運ぶ音、屍体を引きずる音を探り、潜んでいる彼の感情を伝える。なぜ、この映画の第一被写体は虐殺されたユダヤ人の一人ではなくゾンダーコマンドなのだろうか。

 「被害者」ユダヤ人をそのまま被写体にすれば、確かにナチの犯罪の事実は伝えられる。しかし、それでは絶滅収容所で何が行われたか、という全体の構図が見えにくい。被害の実態があまりに重すぎるため、映画はそのことで完結してしまう。言い換えれば、視線の中に人間的感情を見つけにくい。虐殺されたユダヤ人と半歩離れ、かつナチスドイツの犯罪性も見据えることのできる位置。それがゾンダーコマンドではないか(もう少しわかりやすく言えば、彼らはユダヤ人と同じ境遇でありながら、目撃者でもある)。しかし、サウルは一貫して無表情である。だからこそ我々はそこで行われた行為の非人間性を確認できる。そういう映画である。

 絶滅収容所での同胞の死体処理という、究極的に非人間的な行為を強いられた人間を被写体に据えることで見えるもの。しかも、彼の行為を一切の説明抜きで密着して追うことによって見えてくるもの。それがこの映画の意味であろう。

 その結果、スクリーンは喧噪の渦となる。フル稼働した工場のような喧噪である。おびただしいまでの「死」を生み出すための工場と、その喧噪である。

 サウルは収容所内で偶然、息子を見つける。しかし、彼はすぐに殺されてしまう。サウルは息子の死体をひそかに持ち出し、ユダヤ教に沿う形で埋葬しようとする。もちろん、この行為の背後には民族の尊厳、人間の尊厳への強い意志がある。このシーンの意味を知るためには、ユダヤ教では火葬が禁じられているという一つの事実を知っておかなければならない。そして、そのことを踏まえると、アウシュビッツ博物館に今も展示されている一枚の写真の持つ重みがわかってくる。

 収容所の庭と思われる場所で多くのユダヤ人の死体が野積みのまま火葬されている。ひそかに撮られ持ち出された。撮影者は今も不明という。この史実を想起させるシーンが映画にもある。

 映像の可能性を信じて、絶滅収容所の非人間性を浮き彫りにした作品である。なお、この時期、映画でも描かれたようにアウシュビッツではゾンダーコマンドの反乱が起きた。アウシュビッツがソ連軍に解放されたのは翌年1月である。監督はハンガリー出身の新鋭メネシュ・ラースロー。主演のルーリグ・ゲーザは詩人でもある。

サウルの息子.jpg



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