これはジャズなのか~映画「セッション」 [映画時評]
これはジャズなのか~映画「セッション」
米の名門シェイファー音楽院に入学したアンドリュー・ニーマン(マイルズ・テラー)は歴史に名を残すジャズドラマーになることを夢見る。そのため、フレッチャー教授(J・K・シモンズ)の目にとまりたいと思っている。ある日、彼が一人練習していると教授が現れるが、すぐに出て行ってしまう。数日後、教授はニーマンに、自分のバンドに加わるよう言う。しかし、バンドの練習は恐怖に満ちたものだった…。
教授のスパルタ教育によってニーマンの精神は極限へと追い詰められていく。孤独な練習は、スティックを持つ手を血まみれにするほどだった。ついに精神の破綻によって退学処分を受けたニーマンは、過剰な教育によって音楽院を辞めざるを得なくなったフレッチャーと偶然、あるクラブで出会い再びセッションを組むことになる。
ざっとこんなストーリーだ。これ以上書くと身も蓋もない。「巨人の星」の一徹のような頑固爺さんによるスパルタ教育が、ついに最後、ニーマンに壁を突破させるのだが、何か納得しがたい部分がある。
一言でいえば、全編アメリカ式新自由主義とアスリートのノリなのだ。練習、練習、練習によって壁は乗り越えられると、そういっている。しかし、本当にそうだろうか。映画では「チャリー・パーカーはなぜ『バード』になったか。それは彼が『へたくそ』と呼ばれ、その屈辱を晴らすための猛練習をしたからだ」とフレッチャーがいう。
しかし、このテーゼに従えば、セロニアス・モンクは生まれただろうか。決して華麗な指さばきではないが、スピリットにおいては「ストレート・ノー・チェイサー」である。「至上の愛」のコルトレーンの哲学は、練習を重ねれば生まれるものなのか(練習しなくても生まれるとは言わない)。同じくコルトレーンの「アフリカ・ブラス」のスケール感はどうなんだ。
「主奏者の座は力で奪い取れ」と教授はいい、ニーマンもそれについていく。だが、やっぱり何か違う。そうしたシチュエーションからジャズは生まれないのではないか。「セッション」のラストシーン、「キャラバン」はたしかにすごいが、それはジャズに似て非なるものだと思えてならない。
J・K・シモンズは鬼気迫る演技である。
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