静謐で、少し哀しげに~濫読日記 [濫読日記]
静謐で、少し哀しげに~濫読日記
「ぼくらの民主主義なんだぜ」(高橋源一郎著)
「ぼくらの民主主義なんだぜ」は朝日新書、780円(税別)。初版第1刷は2015年5月30日。高橋源一郎は1951年生まれ。作家、明治学院大教授。1988年、「優雅で感傷的な日本野球」で第1回三島由紀夫賞。著書多数。 |
朝日新聞で2011年4月から15年3月まで月1回連載した「論壇時評」をまとめた。高橋が若干の戸惑いを込めて「あとがき」で書いているように、自身はもともと小説家であり、受けるにあたって少し考えるところもあったらしい。小説家が書いた論壇時評であるから、一読して見かたはいろいろあるだろう。私自身は好ましいと評価しておきたい。それは、何を指してか。
一言で言うと、私たちの眼前にあるのは「極私的」論壇時評である。論壇時評とは論文を批評する場と位置づければ、「極私的」という形容詞は大いなる矛盾を生む。論理の形成作業とは、「わたし」的な皮膚感覚、直感、情緒のうごめきの中から「すじみち」を見いだし、言葉のつながりの中に表象的な価値を見いだす行為だと思われる。
ところが、こうした作業をへて一定の飛行高度を持つと思われる数々の作品群(論文)をもう一度、地上に引きずり下ろす。
そのことが明確に分かるのは、各回の書き出しである。すべて、とは言わないが多くは「わたし」という隠された(あるいは隠されないままの)主語で始まる。例えば「20歳だった頃、ぼくは」「まいりました。『なにに?』って」「いつもよりずっと『遠く』からものごとを見てみたい」「涙が出て止まらない。こんなの何年ぶりだろう」
きりがないからやめておこう。「わたし」が主語でなくとも、多くはどこにでもいる(つまり名もない)人びとの言葉や行為から、この「論壇時評」は始まる。
掲載が、いわゆる福島原発事故の直後からなので、どうしてもフクシマ以降の日本を見つめた(こういう言い方は高橋は好かないかもしれないが)ものが多い。論理として表象化された言葉群の一方で、名もない人びとの体験やため息や喜びはどんどん周縁化されていく。そのうち忘れ去られ、なかったことにされる。そこに高橋は抵抗しているようだ。そうだとすれば、この書は要約することができない、あるいは難しい。つまりこういうことが言いたくて、それはこんな社会原理に裏打ちされて、といえば、きっと高橋は抵抗し否定するだろう。
詩人や作家、マンガ家が、福島原発事故について、愚直なほどの表現行為を行う。それを高橋は、「制度」としての詩、小説、マンガとぶつかっても、彼らには「かきたい」ことがあったのだという。就活に励む若者像を見ながら、「必要なのは自分の言葉で作りあげる『自分』の像なのかもしれない」と書く。アーレントを引きながら「わたしたちは、原子力発電の意味について、あるいは高齢化や人口減少について考えていただろうか」と問う。「慰安婦」問題で、当事者である女性たちの「身の上話」に「裏付け証言がない」と批判する秦郁彦に「ほんとうにそうなのだろうか」と疑問を投げかける。
けっして「正義」を振りかざさず、批判した相手をひざまずかせるものでもない。彼自身がこの書で、ある人物の印象として記した「静謐で、少し哀しげなしゃべりかた」に似ている。でも、それが本当は相手に届くのかもしれない。
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