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情感あふれるシーンの連続~映画「妻への家路」 [映画時評]

情感あふれるシーンの連続~映画「妻への家路」

 権力によって引き裂かれた庶民の暮らしはせつない。「せつない」といってはいけないという見方もあろうが、時代の流れの中では、一人の力でどうにもならないこともある。私たちは、「歴史」という大きな歯車とともに生きるが、もう一つ、「生活」という小さな歯車をそれぞれの内側に持っている。その小さな歯車もまた、ひそやかだが、音をたてて回っている。回すには、それなりの重量がかかる。

 「かくも長き不在」(フランス、1960年)という名作があった。ゲシュタポにとらえられた夫を16年間待ち続ける妻。ある日、彼女は夫の面影を残す浮浪者と出会う。しかし、彼には記憶がなかった…。

 中国・文化大革命から20年。右派のレッテルをはられた陸焉識=ルー・イエンシー(チェン・ダオミン)は名誉を回復し、妻馮婉玉=フォン・ワンイー(コン・リー)が待つ我が家に帰る。しかし、何かが違っている。妻は、あまりにも長く夫を待ち続けたため、心因性の記憶喪失になっていた。日常生活は営めるが、夫の顔だけが判別できない。夫は記憶を取り戻そうとあらゆる努力をする。古びたピアノを修復し、かつての聞きなれたメロディを弾いてみる(流れるのは「かくも長き不在」のテーマである)。収容所で書きため、出すことのなかった膨大な手紙を、読んで聞かせる。

 ルー・イエンシーはその3年前、収容所から脱走を図っていた。必死の思いで妻にメモを渡し、駅で待ち合わせるが、3歳の時離れ離れになった娘丹丹=タンタン(チャン・ホエウェン)の密告によってとらえられる。以後、フォン・ワンイーは娘を許せないでいる。

 そんな母娘に仲直りをしてもらおうと、ルーは一計を案じる。目の前の妻に直接いうことはできない。フォンの前にいるのはルーではない、別人なのだから。そこで、ルーは手紙を書く。「もう許してやってくれ」と。フォンにとってルーは手紙の向こうにいる、そして永遠に待ち続ける相手なのだ。

 そして、ルーは「5日にあの人は帰ってくるの」と駅で待ち続けるフォンのそばに寄り添い続ける。フォンの前には、陸橋から下りてくる人の群れ。そう、これは、ロシアの戦場から帰る夫を、かつての妻がひたすら待つビットリオ・デシーカ監督「ひまわり」(1970年)のシーンに重なる。シーンとともに、そのせつなさも重なる。

 こうしたテーマを、激しく熱く撮る手法もあるだろう。しかし、チャン・イーモウ監督の静かで情感あふれるシーンの連続に、「やっぱりこれが映画」と、実感せざるを得ない。邦題は「妻への家路」だが、原題は「帰来」(COMING HOME)。妻の元にいながら、永遠に帰ることのできない「帰来」である。監督の、17歳から10年間、文革で下放された経験もにじんでいると見るべきだろう。

 妻への家路.jpg

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