オーソドックスな「イスラム国」論~濫読日記 [濫読日記]
オーソドックスな「イスラム国」論~濫読日記
「イスラーム国の衝撃」(池内恵著)
「イスラーム国の衝撃」は文藝春秋刊。定価780円(税別)。初版第1刷は2015年1月20日。池内恵氏は1973年東京生まれ。東大先端科学技術センター准教授。中東地域研究、イスラム政治思想史。著書に「イスラーム世界の論じ方」(中央公論社刊、2008年)など。 |
タイトルとは違って、オーソドックスな視点で、「イスラム国」の来歴を明らかにした本である。「イスラム国」は残虐な映像などによって過大評価されがちだが、そうした虚像をできるだけ排除し、等身大の「イスラム国」に近づこうとしている。
そんな中での、興味深い指摘。著者は、イスラム研究として二つの分野を想定しているという。一つはイスラム政治思想史、言い換えればジハード主義がグローバル化していく過程である。もう一つは、中東の比較政治学、ここではチュニジア以降の「アラブの春」によるイスラム社会の変容が視野に入ってくる。この二つが交差したのが「イスラム国」なのである。
9.11以降のイスラム過激思想は、アル・カイーダ(フランチャイズ組織論)とヌスラ戦線(シリア拠点主義)の確執を経て、グローバル・ジハードの色彩を強める。一方で「アラブの春」とその後の政治的混乱は中央政府の弱体化を招き、地方統治の弛緩化につながった。宗派、部族、地域主義が台頭し「グローバル・ジハードが介入する『肥沃な荒野』」が生まれたのである。この二つの側面を、著者は思想的要因と政治的要因とも言い換えている。これが「イスラム国」をめぐる構図である。
しかし、著者は「イスラム国」への過大評価を注意深く避ける。その一つ。ジハードをめぐるイスラム過激派の思想的変容のプロセスをみれば、決して「イスラム国」のそれが目新しいものではないと明確に指摘。むしろ、目新しい思想を提示することへの無関心が「イスラム国」の特徴だとさえいう。
その一方で、メディア戦略に関しては、極めて高度な手法を使っているとする。カリフ制を提唱し、バグダディを初めて公に登場させたのは、イスラム社会で宗教的関心が最も高まるラマダーン月の最初の金曜礼拝の日で、もちろんこの日にバグダディが演説することの意味をよく知っていた。「実写版カリフ制」の双方向ドラマを、多くのイスラム教徒は観ることになったのである。
一連の残虐な映像には、高度なテクニックが使われている(もちろん、グアンタナモを連想させるオレンジ色の囚人服もその一つだ)。公開斬首刑が世界の目を引いたが、どのシーンにも、肝心な「首切りシーン」がない。もちろんこれは意図的に行われたもので、首切りシーンを外すことで映像を観たものがイマジネーションを働かせることになり、より一層、ドラマチックな効果が得られること、そして最も残虐なシーンを外すことで多くの人間が観ることが可能になり、他の人間に転送することさえ可能になること。これらはすべて計算しつくされているという。
著者は英仏露などからの「イスラム国」兵士志願が多いことについて、かつては左翼イデオロギーが担ったグローバルな反欧米運動、あるいは欧米コンプレックス、破壊・終末願望と言ったネガティブな感情のはけ口として、イスラーム過激派への期待が高まっている結果であろうと述べる。これも重要な指摘である。
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