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喪失と帰還の物語~映画「こうのとり、たちずさんで」 [映画時評]

喪失と帰還の物語~映画「こうのとり、たちずさんで」


 新潮2005年5月号にテオ・アンゲロプロスと柳美里の対談が載っている。興味深いのは、在日朝鮮人である柳にアンゲロプロスが共感を示している点だ。ギリシャ人である父がソ連に政治亡命し、自身はブルガリアで生まれロシア人と結婚したという経歴を明かしたうえで、こう語る。

 ――私は自分が(略)何者なのかわからない、アイデンティティが全くないのです。私は(略)どこに行ってもよそ者なのです――。これは、あなたの話と似ていますね。

 自らをクセニティ(よそ者)と認識するアンゲロプロスが、ギリシャで文字通り「よそ者」であった一人の男を描いたのが、この「こうのとり、たちずさんで」である。

 舞台はギリシャ北部フロリナ。マケドニア、アルバニアとの国境地帯である。トルコ人やクルド人、アルバニア人らが難民として国境を越えてくる。彼らは「待合室」と呼ばれる区画で入国許可を待つ間、電柱に登って電線の保守管理をしたりしている。国境取材に来たテレビレポーターのアレクサンドロス(グレゴリー・カー)は、モニターを見ていてある政治家の風貌に似た男を発見する。男(マルチェロ・マストロヤンニ)はかつて大物政治家であり、著作にも国際的な評価が与えられていた。しかし、演説を予定していたにもかかわらず「雨音の向こうの音楽を聞くため、時には沈黙が必要なのです」と、演壇を降りる。以来10年がたつ。

 アレクサンドロスは夫人(ジャンヌ・モロー)を取材する。彼女は失踪の3日後に電話に吹き込まれた録音を明らかにする。

 ――私は訪問者だ。触れるものすべてが私を傷つける。名前さえないのだ。無は無だ。

 アレクサンドロスは、ジャガイモを売って暮らすその男に、夫人を会わせるが、夫であることは否定される。結局男はその政治家なのか、それともアルバニアから亡命した別の男なのか、判然としない。

 男には娘がいた。彼女は、国境を隔ててアルバニアの男と沈黙の結婚式を挙げる。すべては一本の河を隔てて行われる。祝福する人びとが両岸に現れ、消える。そして男もまた、姿を消す。少年が言う。「河の上を歩いて行ったよ」。男は何者だったのか。

 すべての事実はあいまいで、アイデンティテイーは幻のようだ。黄色い作業服を着た男たちが一斉に電柱に登り、哀切のメロディーが流れるラストは印象深い。いくつもの国境を越えながら故郷への帰還を果たせぬ第2、第3の男たちがそこにいることを暗示している。1991年製作。

こうのとり2.jpg 

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