緻密で流麗なドラマ~映画「ある過去の行方」 [映画時評]
緻密で流麗なドラマ~映画「ある過去の行方」
作詞家・なかにし礼著「黄昏に歌え」に「知りたくないの」の誕生秘話が出てくる。それは、レコーディングに際しての菅原洋一との、ほとんど喧嘩に似た応酬である。原因は、歌詞にある「過去」という言葉にある。カントリーウェスタンの訳詩を頼まれたなかにしは、原詞にない「過去」という言葉を紡ぎだす。ところが、カ行音が二つ並ぶ「過去」を、菅原は「歌いにくい」という。しかし結局、なかにしに押し切られて、その言葉を歌に乗せる。ざらりとした手触りのゆえに、この言葉は逆に歌の「へそ」とまで言われることになる―。
過去、「The Past」をタイトルにした映画を観た。イラン人監督アスガー・ファルハディの「ある過去の行方」である。日本人(日本語)の悪い癖で、単純無比なタイトルに尾ひれをつけてしまい、テーマ性が曖昧になる好例が、この邦題であろう。
映画の主題はズバリ「過去」である。離婚交渉を進めるある男女(アーマド=アリ・モサファとマリー=ベレニス・ベジョ)とその子どもたち。前夫アーマドとこれから夫になるかもしれない男性(サミール=タハール・ラヒム)がマリーと同居し、その女性にはさらに元夫の子どもが2人いる。とても複雑な家族環境の中で、それぞれの「過去」が意味を持って立ちあがり、絡み合い、別の事実を明らかにする。いわば、それぞれの過去が映画のストーリー展開に従ってそれぞれに舞うのである。
この映画のタイトルを「ある過去の行方」にしてしまえば、映画の主人公は「行方」を見守る人物自体になってしまう。その意味で、この邦題への変更は賛同しにくいのである。
アスガー・ファルハディは、前作「別離」でも、濃密でち密な人間模様とイランの「今」を描いた。今回は舞台をパリに移し、やはり緻密で流麗なドラマを作り上げた。それぞれの過去が重なり合う中で、長女リュシー(ポリーヌ・ビュルレ)の証言から、サミールの妻が自殺を図り植物状態にあることが分かり、その事実が男女3人の関係=つまり「愛のかたち」=さえもポジからネガへと変化させてしまいかねない結末は、人間ドラマを超えてサスペンスを観るようでもある。それぞれの踊る過去が「いま」と「未来」をも動かしていくというドラマだ。
マリーを演じたベレニス・ベジョは「アーティスト」でも好演した女優である。
コメント 0