時代閉塞の現状に問う~濫読日記 [濫読日記]
時代閉塞の現状に問う~濫読日記
「血盟団事件」(中島岳志著)と「昭和維新試論」(橋川文三著)
「善とは何か、悪とは何か」という、ややナイーブな煩悶を抱えて辛亥革命の中国大陸に渡り、満たされぬまま帰国した青年・井上昭(後の日召)は日蓮主義に心を動かされる。出家し、水戸の大洗に「護国堂」という宗教的拠点を設ける。現存するその建物は、後に血盟団事件で逮捕される古内栄司には「神社とも付かず、或ひは御堂とも付かない建物」として目に入った。
護国堂には、周辺地域の若者たちが集うようになる。井上準之助を殺害した小沼正や団琢磨を殺害した菱沼五郎もその中にいた。解決しない内的苦悶を、宗教的な体験を得ることで乗り越えようとした若者たちである。やがて、さまざまな結社との交流をへて、海軍の若手将校、東京帝大の学生らともネットワークが結成される。彼らをつなぎ合わせたものは「財閥、特権階級、既成政党の所謂支配階級の者達」は「売国奴」にほかならないという怒りである。
これらの運動の中心に居た宗教者・井上日召は、小沼正によると、このように語ったと言う。
「革命を行ずるということは、己を行ずるということである」
内的煩悶が社会的怒りに直結し、自己改造への衝動がそのまま国家改造運動につながる。こうした主張に、水戸周辺の若者だけでなく学生や将校らも共鳴する。この構造、どこかで見たことがある。あのオウム真理教と、ほぼ同じと言っていいだろう。
しかし、これらの原理主義的発想が行動に移される過程は、やや異なっている。オウム真理教のテロが、「恐怖」を巧妙に利用したマインドコントロールによって支配された若者らによるものだったのに対して、血盟団事件はひたすら自らを捨て石にするという、究極的な行動主義に彩られている。
ここに我々は、昭和初期における、一つの精神史的風景を見てとることができる。
明治26年、山路愛山との文学論争で「空の空の空を撃つ」(「人生に相渉るとは何の謂いぞ」)と表現したのは自由民権運動から脱落した北村透谷であった。そうした、いまだ確立せぬ自我へのいらだちが、なお昭和初期にも続いているともいえる。もう一つは「一人一殺」という、極端な行動主義への傾斜にみてとれる明治維新以来の志士的心情である。
「血盟団事件」を著した中島には、同じ系譜のノンフィクションとして「朝日平吾の鬱屈」という一冊がある。「同じ系譜」というより、ここでは血盟団事件=井上日召の思想の源流を、安田善次郎を暗殺した朝日平吾に見た、と言った方が適切かもしれない。「鬱屈」という、昭和史の事件を扱ったノンフィクションにしてはやや文学的過ぎるタイトルをなぜ中島が付けたかは、彼自身がこの著書の中で執筆の動機とした橋川文三「昭和維新試論」を読み進めば分かる。
橋川は、安田暗殺事件に関する吉野作造の文章を引きながら、朝日平吾の思想を「明治期における幾つもの暗殺者をつき動かした志士仁人的捨て身の意欲」と、「第一次大戦を画期とする資本主義の発達と貧富の階級分化が引き起こした経済的平準化」への欲求との結合形態が「朝日の一身に認められた」と分析する。
橋川はさらに朝日の遺書を引用、「生キナガラノ亡者ナリ」=「生ける屍」の表現に、明治期の政治的暗殺者にはなかった「怨恨と憂鬱」を見ている。
もう少し掘り下げれば、こんなことである。
――ともあれ、朝日の遺書全体を貫いているものをもっとも簡明にいうならば、何故に本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーヴな思想である。(略)朝日というのが、いわば大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならないのである。
血盟団事件はその思想的源流を朝日平吾に見いだすことができ、朝日の遺書に盛られた「不幸感」こそが現代に通じている。中島が「秋葉原事件」で加藤智大の精神の軌跡を追った動機もそこにある。「財閥、特権階級、既成政党の所謂支配階級の者達」に対する怒りと閉塞感、そして貧困が招く不幸感が、さらなるテロルの思想に向かわない道筋を、我々はどう描くべきか。これらの著書はそれを問うている。
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