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体制におもねらず~映画「利休にたずねよ」 [映画時評]

体制におもねらず~映画「利休にたずねよ」


 「利休」とは晩年の名である。「利心、休せよ」からきているとも言われるが、確たることは分からない。織田信長に雇われたことから頭角を現し、秀吉に仕えたことで権勢をわがものとした。しかし、結局は秀吉の逆鱗に触れて割腹自殺をした。なぜ逆鱗に触れたかも、判然としない(映画では、その中の一説を取り上げている)。

 映画「利休にたずねよ」は、山本兼一の直木賞受賞作による。タイトルは、そのまま豊臣一族の信を得た利休の権勢を物語っている。しかし、映画では権威とも富とも無縁であったという利休の生涯を描く。たしかに、伝えられるイメージはそうなのだが、茶室と茶道具を黄金で塗り固めた秀吉の嗜好とどう結びつくのか。あるいは秀吉の時代の「怪僧ラスプーチン」であったかもしれない、と思ったほうが、本当は歴史を面白く読めるというものだ。

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 1219日、テレ朝系「ドクターX」が終わった。米倉涼子が演じる大門未知子は群れを嫌い、権威を嫌い、おのれのスキルだけを頼りに生きる誇り高きフリーランスの医師である。「半沢直樹」にはかなわなかったが、最終回の視聴率は関東地区26.9%(瞬間最高31.4%)。

 なぜ「ドクターX」はこれほど受けたか。

 普通の人間は、おのれのアイデンティティだけを信じて(あるいは依拠して)青天井の未来を描くことができない。結局は、おのれの周囲を見渡し手近な階段をとりあえず登っていようと思う。そのための市井的な煩わしさはやむを得ないと思い、受け入れる。つまり「長いものには巻かれよう」との心理が働く。しかし、心のどこかで、そうではない生き方を欲している。この二つの心理、つまり「実利としての秩序の受け入れ」と「青天井の精神の解放」は時代によって波状的に強弱が生まれる。

 「体制」に対して半身に構えながら、精神の漂泊を獲得する。こうした生き方の一例として「男はつらいよ」がある。渥美清演じる車寅次郎は渡世人としてのわが身の中途半端さをあざけりながら、そのことでなお体制への批評眼を獲得するという思考的道筋を持ちえた、希有な存在であった。ちなみにシリーズは1969年から1995年まで続いた。始まった年は、いうまでもなく「昭和残侠伝」などの東映任侠映画が花盛りだったころ。オイルショックからバブル経済へと日本が向かった時代でもある。整備されていった「体制」への「ノー」が、任侠映画への共感として現れ、嘲笑と疑問が「男はつらいよ」で共鳴した。シリーズが終わった年は、自民党一党支配=55年体制が終わった年でもある。

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 いまはどうか。

 まぎれもなく、2年前の3.11で見えたものがある。言い方を変えれば、日本的秩序の底にあるものが、我々には見えてしまったのである。そうして馬脚を現した体制の不安定さに対して「このまま長いものに巻かれていていいのだろうか」という漠然とした不安感が社会的に生まれつつあるのが、いまという時代ではないか。

 そうした時代的空気と大衆心理が「ドクターX」への高視聴率の背後にはある。ちなみに「半沢直樹」も、「倍返し」という言葉に象徴されるとおり「体制の外部化」という同じ水脈にあるのだが、主人公のスタンディングポジションが違う。半沢はあくまで銀行員であり、大門未知子のような「アウトサイダー」ではない。半沢ドラマの定番である土下座シーンの必然性はここから生じているが、このことについては別の機会に譲る。

 「利休」に戻ろう。大門未知子や車寅次郎を持ちだしたのは、利休の秀吉(=体制)に対するポジションが通底しているからである(ここでは、あくまで映画に登場したキャラクターを前提にしている)。体制と部分的につながりながらなお半身でいることによって、時代への批評眼を獲得する。大門や車と違って利休が悲劇的な最期を迎えたのは、前者のような「嘲笑」を媒介とした存在の軽みを、利休が持ちえなかった(つまり、場違いな権勢と名誉を得てしまった)ことによるのだと推測する。

 「一命」でも思ったが、市川海老蔵にはなにかが足りない。「利休」では、心も凍るような「わび・さび」の精神が感じられない。秀吉は大森南朋より「清須会議」の大泉洋の方が似合っていた。

 利休.jpg

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