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「なりたい自分になれない」物語 [社会時評]

「なりたい自分になれない」物語


  半世紀ぶりにその映画をスクリーンで見た。耽美的で退廃がにおう映像は、価値紊乱者を自称する悪文作家石原慎太郎「太陽の季節」の登場から60年安保までの時代の振れ幅の中で多くの日本人に受け入れられた。

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ルネ・クレマン監督の「太陽がいっぱい」(仏伊合作、1960年)である。地中海で放蕩する富豪の息子フィリップ・グリーンリーフ(モーリス・ロネ)と貧しい境遇の男トム・リプレイ(アラン・ドロン)の奇妙な関係。いつしかトムは、フィリップの暮らしぶりをそっくり略奪することに野心を抱く―。

 太陽がいっぱい.jpg

 地中海に浮かぶヨット、ニーノ・ロータの甘美なメロディ。虚無的な顔つきのアラン・ドロンと性格俳優モーリス・ロネの演技が切り結ぶ。偽装に偽装を重ねたトムは逃げおおせたかに見えたが…。と、こんな感じだが、半世紀をへて同じ感想をつづっては芸がない。この映画を今の時代にどう読みとくか。

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 米国人作家パトリシア・ハイスミスの原作では、ヤマ場の犯行現場は普通のボートで、凶器はナイフではなくオールによる撲殺である。そしてトム・リプレイの性格描写にかなりのエネルギーがさかれている。疑惑を追う側ではなく、犯罪者の側の視点でストーリーを組み立てるという(したがって犯人は最初から見えている)、ミステリーの常識を破る設定で、心理小説の趣が強い。トムは映画ほど虚無的ではなく、むしろアメリカ的でアグレッシブな性格に見える。この違いは、活字と映像というメディアの差異や、主演であるアラン・ドロンの個性によるものと考えられる。ルネ・クレマンは原作のプロットを借用しながら、大胆に換骨奪胎することでこの名作を生みだしている。

 しかし、最大の違いは結末である。原作ではトムは疑惑を振り切って逃げおおせるが、映画では土壇場でどんでん返しが待つ。さらにいえば、映画には原作にない印象的なシーンが二つ追加されている。一つはヨットで食事する際、フィリップがトムのナイフの握り方をいさめる場面。一つは映画の真ん中に挟まれた魚市場をトムが散策するシーンだ。

 これらは何を意味するのだろうか。物語の底流にあるものは、階層的な上昇志向―ある種の飢餓感である。ナイフの握りをいさめるシーンは、垂直的な階層の位置関係を示唆している。魚市場の店頭の魚に宿した虚無的な視線は、トムの野心を見抜いているかのようだ。こうしたシークエンスが結末の挫折に結びつく。言い換えれば、第2次大戦を経てなお貴族社会=アンシャンレジームが厳然と残るヨーロッパ社会と、そうでないアメリカ社会との差異が背後に見える。そうだとすれば、映画の最後に現れる古びた帆船はフィリップの「亡霊」などではなく、戦後もなお階層的上昇を許さない旧社会の暗喩とも映る。

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 こうした「なりたい自分になれない物語」は日本にもあった。飢餓の海峡をいったんは越えたかに見えながら、秘密の暴露にあって破綻する「飢餓海峡」(内田吐夢監督、1965年)、過去の悲惨な体験を知る人物が目前に現れたことで音楽家としての名声を失う「砂の器」(野村芳太郎監督、1974年)。

 最近では「そして父になる」(是枝裕和監督、2013年)が、階層間移動を思わせるストーリーで注目されたが、登場する二つの階層―商店主と新興サラリーマン―は、実は垂直の位置関係にはなく、中間階級あるいは小市民階級という水平の関係にある(丸山真男「現代政治の思想と行動」)。これは何を意味するか。もはや垂直的な上昇を断念したところでしか物語は成立しないという時代の風潮とも読める。日本社会の「大きな物語の凋落」(菊地史彦「『幸せ』の戦後史」)の中で、視野にあるのは私小説的家族状況だけといえるのかもしれない。


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